第21章:操り人形の告白
康彦は床に崩れ落ち、恵那に向かって這いつくばるように命乞いを始めた。「恵那さん、俺はただ言われた通りに動いていただけです......! 咲良を本当に殺そうとなんて、俺は――」
「黙りなさい」
恵那が静かに、しかし有無を言わせぬ声で告げると、康彦の口は、まるで見えない手で塞がれたかのように閉ざされた。その一部始終を見て、私はようやく理解した。康彦の出世も、羽振りの良い暮らしも、そのすべてが、この女によって裏側から操られていたものだったのだ。
「あなたの出世も、お金も、途中からは私が裏で用意したものよ」恵那は、感情の削げ落ちた声で淡々と語った。「でも、選んだのはあなた。最初に差し出した餌に手を伸ばしたのも、そのあと妻を売るところまで進んだのも、全部あなた自身よ。私はただ、あなたが何を欲しがり、何を恐れているかを見抜いただけ」
康彦の表情が、絶望に塗り替えられていく。命令されたから仕方がなかった――そんな逃げ道まで、恵那は容赦なく奪った。彼は利用された。だが、利用されるたびに、自分に都合のいい方を選び続けたのも彼自身だった。私はその姿を見ても、もう同情することはできなかった。
恵那は、傍らに置いていた黒革のクラッチバッグから、薄いタブレット端末を取り出した。慣れた仕草で画面を滑らせ、それを私に向ける。
映し出されていたのは、無数のフォルダだった。日付ごとに整然と並んだそれを一つ開くと、そこには――結婚式の日の私、新居に引っ越した日の私、美羽を出産した日の病院の外観、幼稚園の入園式で笑う私と美羽。何年分もの写真と記録が、几帳面な注釈付きで、そこに収められていた。
指先が、震えを通り越して完全に冷たくなった。
「これが、あなたのあの一言から始まった、十年間の記録よ」
その一言が、鋭い刃物のように胸を貫いた。
「卒業式の前、大学の裏庭で話した日のこと、覚えてる? あなたは私に、こう言ったのよ。『恵那ならきっと、もっといい道があるよ』って」
恵那の声が、そこで初めてわずかに揺れた。怒りだけではない。長い時間の底に沈められていた、古い痛みが滲んだように聞こえた。
「あなたは励ましたつもりだったんでしょうね。だから余計に残酷だった。私が何を失って、どこまで追い詰められていたのか、あなたは知らなかった。知らないまま、正しいことを言える側に立っていた。あのときの私は、それがどうしても許せなかった」
胸の奥に、鈍い痛みが走った。あの頃の私は、恵那を傷つけようとしたわけではない。けれど、悪意がなかったことと、傷つけなかったことは同じではない。その当たり前のことを、私は十年以上も経ってから突きつけられていた。
「でもね、最初から復讐しようと思っていたわけじゃないのよ」恵那は、タブレットの画面に視線を落とした。「大学を出て、遠くへ行けば忘れられると思った。働いて、自分の力で生きて、あなたとは関係のない人生を作ればいいって。何度もそう思った」
私は黙ったまま、恵那の横顔を見つめた。
「地方銀行の融資課に就職したわ。企業の資金繰り、担保評価、不良債権の処理。仕事は嫌いじゃなかった。数字は裏切らないし、努力した分だけ結果が出た。少なくとも仕事をしている間は、過去を考えずに済んだ」
「それなら、どうして……」
「あなたの結婚を知ったからよ」
短い言葉だった。けれど、その一言だけで、恵那の中で止まっていた時間が再び動き出したのだと分かった。
「共通の知人から写真が回ってきた。白いドレスを着て、みんなに祝福されて、幸せそうに笑っているあなたを見た。そのとき思ったの。どうしてこの人は、何も知らないまま先へ行けるんだろうって。私はまだ、あの日の自分を引きずっているのに」
恵那は指先で画面を滑らせた。結婚式、新居、そして美羽が生まれた日の記録が、静かに流れていく。
「それでも、まだ忘れようとしたわ。写真を閉じて、仕事に戻った。何か月も見ない時期だってあった。でも、ふとした拍子にあなたの近況が目に入るたび、同じ場所へ引き戻された。あなたが幸せになるほど、私だけが過去に置き去りにされていく気がした」
そこにあったのは、十年間燃え続けた一つの炎ではなかった。消えかけては、また火がつく。そのたびに少しずつ形を変え、やがて本人にも手放せないものになった憎しみだった。
「美羽ちゃんが生まれたと知ったとき、一度だけ、本当にやめようと思った」
私は息を呑んだ。
「子どもには関係ない。そんなことは分かっていた。あなたを憎むことと、あなたの娘まで憎むことは違うって。でも同時に、あなたが娘を抱いて笑っている写真を見て、思ってしまったの。――この人には、守りたいものまであるんだって」
恵那の唇に浮かんだのは笑みではなかった。自分自身を嘲るような、歪んだ表情だった。
「そこからよ。あなたの幸福を見ることが、私にとって苦痛ではなく、証拠になった。私が失ったものを、あなたは何も知らずに持っている。その思いを正当化するために、私はあなたの写真を保存し、記録し、理由を集め続けた」
私はようやく理解した。恵那は十年間、同じ強さで私を憎み続けていたのではない。忘れようとし、忘れられず、そのたびに自分の傷を確かめ、やがて憎しみそのものを生きる理由に変えてしまったのだ。
「銀行を辞めたのも、その頃よ。裏の金融に移って、そこで得た知識と人脈を使えば、あなたの人生に手を届かせられると気づいた。最初は、少し困らせれば気が済むと思っていた。でも、一つできるようになると、次が見えた。次ができると、もっと奪えると思った」
「それで……康彦さんを」
「ええ。あなたの夫を調べて、使えると分かった。見栄も、出世欲も、保身の強さも、外から少し押せばこちらへ傾く程度のものだった。私はきっかけを与えただけ。最初に金を受け取ったのも、嘘を重ねたのも、最後にあなたを売ったのも、康彦さん自身よ」
恵那は静かに言った。その声には勝利の高揚よりも、長い年月の末に自分で作った道から、もう降りられなくなった人間の硬さがあった。康彦もまた同じだったのかもしれない。一度の弱さを言い訳にして、次の弱さを選び、そのたびに戻れない場所まで自分で歩いていった。
私は、目の前の女性を恐ろしいと思った。同時に、ほんの一瞬だけ、その始まりにいた恵那を想像してしまった。傷つき、置き去りにされたと思い込み、誰にもその痛みを渡せないまま立ち尽くしていた若い日の彼女を。けれど、その痛みがどれほど深くても、美羽を脅し、誰かの人生を壊していい理由にはならない。
「あのとき、あなたを傷つけたことは謝る。知らなかったでは済まないこともあると思う。でも――あなたがそのあと何を選んだかまで、私の罪にはできない」
恵那の目が、初めて鋭く細められた。「……そうやって、また自分だけ正しい場所に立つのね」
「美羽を返して!」
衝動的に飛びかかろうとした私を、高宮玲奈が素早い動きでねじ伏せた。掌打が鳩尾に打ち込まれ、息が詰まる。床に膝をついた私に、恵那は小型の端末を、無造作に投げ渡した。画面には、赤い数字がカウントダウンを刻んでいた。
『残り五十八分』
「湾岸の旧資材倉庫に来なさい」恵那は、感情の削げ落ちた声で告げた。「美羽ちゃんは、圧力感知式の爆薬を仕込んだ椅子に座らせてあるわ。助けたければ、あなたが身代わりになって、その椅子に座りなさい。そして、木っ端微塵に吹き飛びなさい」
「そんな......! 五歳の子供に、何を――」
「あなたが選んだ結果よ。すべては、あなたのその『無邪気な優しさ』が招いたこと」
そう言い残すと、恵那と玲奈は、ラウンジの奥へと静かに去っていった。残されたのは、端末を握りしめる私と、床にへたり込んだままの康彦、そして無情に刻まれ続けるカウントダウンの数字だけだった。




