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私の足で歩く朝  作者: 久遠 睦


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第8章:拒絶の玄関

空はいつの間にか鈍色の雲に覆われ、冷たい秋の雨がポツポツと私の頬を打ち始めていた。私はフードを目深に被り、大通りを避け、住宅街の細い坂道をひたすら走った。泥と汗と雨で、コートもジーンズもぐしゃぐしゃに汚れ、膝には逃げる際に転んだ時の擦り傷から赤黒い血が滲んでいた。

走りながら、頭の中では希望と不安が交互に押し寄せていた。康彦はきっと動揺しているだろう。会社に警察から連絡が来たと知れば、怒り狂うに違いない。それでも、娘を思う気持ちは私と同じはずだ。一緒に美羽を守ろうと言えば、きっとわかってくれる。そう自分に言い聞かせながら、雨に打たれる頬の冷たささえ感じなくなるほど、私はただ家路を急いだ。

見慣れた電柱、いつも回覧板を届け合う隣家の生垣、美羽が拾った落ち葉を並べて遊んだ用水路の縁石――そのすべてが、ほんの昨日までの日常そのものだった。それなのに今は、まるで別世界を走っているかのように、現実感が希薄だった。

見慣れた自宅の屋根が見えた。駐車場には、夫のセダンが停まっていた。「康彦さん! 美羽!」玄関ポーチに駆け上がり、泥だらけの手でドアノブを掴む。ガチャリ。回らない。鍵がかかっている。私はインターホンのボタンを何度も連打した。

「康彦さん! 開けて! 私よ、咲良よ!」

ドアの向こうで足音が聞こえ、内側のチェーンが掛けられたまま、わずかにドアが開いた。隙間から現れたのは、スーツ姿の康彦の顔だった。だが、その瞳に宿っていたのは、妻への安堵でも心配でもなかった。底知れぬ憎悪と、汚らわしい害虫を見るような、冷酷な蔑みだった。

ドアの隙間から漏れる室内の暖かな灯りと、康彦の背後にちらりと見えたリビングの明かりに、一瞬だけ安堵が胸に広がった。家だ。帰ってきた。だが、その安堵は、康彦の表情を見た瞬間、凍りついた氷のように砕け散った。

「康彦さん......よかった、美羽は!? 美羽は中にいるのね!?」私がドアの隙間に手をかけようとした瞬間、康彦は私の手首を乱暴に払いのけた。「触るな! 汚らわしい!」

その一言が、鋭い刃物のように胸を突き刺した。八年間連れ添った夫の口から、そんな言葉が出てくるとは、想像したこともなかった。雨に打たれながら差し伸べた手を払われた感触が、いつまでも手首に残っていた。

「康彦さん......? 何を言ってるの......開けてよ、中に入れて!」

「うるさい! これ以上、俺の人生を壊すな!」康彦の声は、これまで聞いたことのないほど激しい憎悪に満ちていた。まるで、長年溜め込んでいた何かが、一気に噴き出したかのようだった。

「入れるわけがないだろ!! お前、一体何をしでかしたんだ!!」康彦の額に青筋が浮き出ていた。「警察から会社に連絡が入ったんだぞ! 『森下咲良という女性について確認したい、指定暴力団の資金洗浄と麻薬取締法違反の現行犯で追跡中だ』ってな! 社長室に呼び出されて、同僚全員の前で警視庁の人間から尋問された俺の気持ちが分かるか!?」

康彦は片手で前髪をかきむしりながら、吐き捨てるように続けた。「同僚たちの視線が忘れられない。哀れむような、それでいてどこか面白がるような目だった。『森下さんの奥さん、大変だったね』なんて、腫れ物に触るように話しかけてくる連中の顔を、俺は一生忘れない。お前のせいで、俺の十年間のキャリアが、たった数時間で汚された」

ドアの隙間から漏れる玄関ホールの奥、リビングのローテーブルの上に、見慣れない書類の束と、女性物らしき小さなハンドバッグが置かれているのが、ちらりと目に入った。誰の忘れ物だろう。そんな些細な違和感を抱く余裕さえ、すぐに康彦の怒声にかき消された。

「聞いて、康彦さん。昨日の朝、脅迫状が届いたの。美羽のキーホルダーが写った、血まみれの写真も一緒に。あなたに何度も相談しようとしたのに、まともに取り合ってくれなかったじゃない! 昨夜だって、ドアの外に誰かがいたって言ったのに――」

「はあ? そんな話、今関係あるか!」康彦は苛立たしげに遮った。

「関係あるわよ! 今日、駅で覚醒剤の入った鞄を置かされたのも、全部その犯人の指示だったの! 美羽を人質に取られて、犯人に指示されて――」

「言い訳をするな!! お前のせいで、俺のキャリアは完全に終わったんだよ! 同期の出世頭だった俺が、犯罪者の夫として明日からどんな目で見られるか! 何が三人家族だ、何が平凡な主婦だ! お前は最初から俺を破滅させるために結婚したのか!?」

「そんな......そんなこと言わないで。私たち、八年も一緒にいたのよ。美羽だって......」

「八年間、俺は一体何を養ってきたんだ! こんな厄介事しか運んでこない女を、俺は――」康彦は言葉を途中で飲み込み、拳を握りしめて壁を殴りつけた。ドン、という鈍い音が響く。

「康彦さん、思い出して。美羽が生まれた日、あなたは病室で泣いていたじゃない。『この子と咲良を、俺が絶対に守る』って言ってくれたじゃない。あの言葉は、噓だったの......?」

康彦の頬が、ほんの一瞬だけひくつくのが見えた。だが、それもすぐに冷たい無表情へと戻っていく。「昔の話をするな。今のお前は、俺たちの人生を壊す疫病神だ」

「違う......お願い、信じて......! 美羽に会わせて、美羽の声を聞かせて!」

雨の中、私は玄関の冷たいタイルに膝をつき、祈るように両手を合わせた。ずぶ濡れのコートから滴る水が、ポーチの床に小さな水たまりを作っていく。惨めさと寒さで、歯の根が合わなかった。それでも、康彦の心が動いてくれることだけを、ただひたすらに祈り続けた。その時、玄関の奥、暗い廊下の向こうから小さな泣き声が聞こえた。「ママ......? ママなの......? うぇええん、ママぁ......!」

「美羽! ママはここよ! 美羽――」

薄暗い廊下の奥、美羽の小さな影が一瞬だけ見えた。パジャマ姿で、ぬいぐるみを抱きしめながら、怯えた顔でこちらを覗き込んでいる。あの子は今、何を見て、何を思っているのだろう。母親が泥だらけで玄関先で叫んでいる光景は、五歳の心にどれほどの傷を残すのだろうか。

「来るな、美羽! あっちの部屋へ行ってろ!」康彦が振り返って怒鳴ると、美羽の泣き声が廊下の奥へと遠ざかり、部屋のドアが乱暴に閉められる音がした。康彦は再び私に向き直ると、氷のように冷たい声で言った。「お前はもう、この家の人間じゃない。俺と美羽の人生に、二度と関わるな。犯罪者の母親なんて、あの子には必要ない。さっさと警察に出頭しろ」

私は玄関のドア枠に縋りつくようにして、必死に食い下がった。「そんな、あんまりよ......! 美羽は私の娘でもあるのよ! お腹を痛めて産んだのよ、私が!」

声を張り上げるほどに、喉の奥が痛んだ。全身がずぶ濡れで、指先の感覚もほとんどなくなっていたが、それでも私はドアから手を離せなかった。

「もう決めたことだ」康彦は感情のない声で告げた。「離婚届は、後日弁護士を通して送る。判子だけ押して返せ。美羽には、母親は病気で入院したとでも説明しておく」

病気で入院。その言い訳の白々しさに、怒りよりも先に、深い悲しみが込み上げてきた。美羽は、母親が自分を捨てたと知ることさえなく、ただ「病気のママ」を待ち続けることになるのだろうか。それとも、いつか本当のことを知り、私を軽蔑するようになるのだろうか。どちらの未来も、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。

弁護士。その言葉に、私は一瞬言葉を失った。まるで、何年も前から準備していたかのような、あまりにも滑らかな物言いだった。今この瞬間に思いついたにしては、あまりに整いすぎている。だが、混乱の極みにあった私には、その違和感を深く考える余裕さえなかった。

「待って、康彦さん。せめて、美羽に会わせて。一目だけでいいから、抱きしめさせて......!」

「駄目だ」康彦は一切の迷いなく言い切った。「お前と関わったら、美羽まで疑いの目で見られる。あの子の将来のためにも、これが最善の判断だ」

私は縋るように、ドアの隙間に指をかけた。「お願い、康彦さん。私を追い出したら、私、本当にどこにも行くところがないの。美羽のことだけでも、信じて......」

康彦は一瞬、視線を揺らした。ほんのわずかに、迷いの色が過ったように見えた。だが、それも一瞬のことだった。彼は苛立たしげに首を振ると、再び冷たい仮面を被り直した。

「康彦さん、開けて! 行くとこなんてないの! お願いだから、話を聞いて――!」

ガチャリ。内鍵が回る鈍い音が響き、ドアは完全に閉ざされた。「開けて!! 康彦さん!!」拳でドアを叩き、白い塗装に血が滲む。やがて、インターホンから夫の無機質な声が流れてきた。『近所迷惑だ。今すぐここから消えろ。これ以上騒ぐなら、今すぐ俺が一一〇番通報してお前の居場所を通報する。二度と戻ってくるな』

プチッ、と通話が切れた。雨は土砂降りになっていた。

玄関のタイルに膝をついたまま、私はしばらく動けなかった。数年前、この玄関先で、康彦と二人、新居の鍵を初めて開けた日のことを思い出す。「これから、この家で家族を作っていこうな」と、康彦は照れくさそうに笑っていた。あの笑顔は、もうどこにも残っていない。

見捨てられたのだ。愛していた夫に。守りたかった家庭に。全身の力が抜け、雨に打たれるまま、私はしばらくその場にうずくまっていた。何を信じて、何を頼りに、これから生きていけばいいのか、まるで見当がつかなかった。手も足も、自分の意思とは無関係に震え続けている。

住宅街の坂道の下から、ウーッというパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。その音で、ようやく我に返る。ここにいては、また捕まる。捕まれば、美羽を助けられなくなる。力の入らない両脚に気合を込め、私はよろめきながら立ち上がった。

振り返ると、リビングの窓にはまだ明かりが灯っていた。その光の中に、私の居場所はもうない。雨に濡れた頬を伝うものが、もはや雨粒なのか涙なのか、自分でも分からなかった。

康彦。美羽。この二つの名前だけを支えに生きてきた八年間だった。専業主婦であることに誇りを持ち、家庭を守ることこそが自分の価値だと信じてきた。その全てが、今、音を立てて崩れ落ちていく。夫に見捨てられ、娘にも会えず、警察には追われ、身に覚えのない罪を着せられている。これから、どこへ向かえばいいのか。誰を頼ればいいのか。何ひとつ、分からなかった。

頼れる実家もない。三年前に他界した父の後を追うように、母も昨年、静かに息を引き取っていた。兄弟もいない。友人と呼べる存在も、結婚後の暮らしの中でいつの間にか消えていた。この世界に、私を無条件で受け入れてくれる場所は、もうどこにも残っていないのだと、雨の中でようやく思い知らされた。

近所の家々の窓には、夕餉の支度をする温かな明かりが灯り始めていた。カレーの匂い、味噌汁の匂いが、雨に混じってかすかに漂ってくる。ほんの数日前まで、私もあの明かりの中にいたはずだった。今はもう、その輪の外に、たった一人で立ち尽くしている。

傘も持たず、行く当てもなく、私はただ雨に打たれるまま、雨煙に霞む暗い路地の奥へと歩き続けた。足の裏の感覚がなくなっていく。寒さのせいなのか、絶望のせいなのか、自分でも分からなかった。頭の中では、康彦の冷たい声と、美羽の泣き声が、何度も何度も繰り返し再生されていた。行く当てなど、どこにもなかった。

坂道を下りきったところで、ふと足が止まった。背後、遠くの暗がりに、じっと動かない人影があるような気がしたのだ。街灯の逆光で顔は見えない。空き巣未遂の日、康彦に一蹴された「気のせい」という言葉が、今さらのように脳裏をよぎる。今度こそ、気のせいでは済まされない予感がした。



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