第7章:つかの間の希望
「止まれ! 待てッ!」背後で刑事たちの怒号と、煙に巻かれた通行人の悲鳴が入り混じる。私は振り返らなかった。振り返れば、その瞬間に足が竦んで捕まってしまう。
駅前広場の雑踏を狂ったように掻き分け、狭い路地へと飛び込んだ。居酒屋の搬入口、古びた雑居ビルの隙間、室外機の熱風が吹き付ける薄暗い裏道を、泥水を跳ね上げながら無我夢中で駆け抜ける。遠くで鳴り響くパトカーのサイレンが、幾重にも重なって街中にこだましていた。あのサイレンは、私を追っている。平凡な主婦だった私が、ほんの三十分の間に「覚醒剤と暴力団の資金洗浄に関わる現行犯」に仕立て上げられた。
肺が焼けるように痛み、脇腹に鋭い痛みが走った。それでも足を止めることはできない。曲がり角を折れるたびに、背後を確認する余裕もなく、ただ前へ、前へと進むしかなかった。すれ違った自転車の主婦が、驚いたように道を空ける。その一瞬の視線にさえ、心臓が縮み上がった。走りながら、頭のどこかで冷静に考えている自分もいた。今、私の顔はもう、ニュースやSNSで拡散されているかもしれない。誰かに見咎められる前に、少しでも人目のない場所へ。
路地の途中、廃業した喫茶店の軒先で一度だけ足を止め、荒い呼吸を整えた。全身がずぶ濡れで、雨なのか汗なのか、もう自分でも分からなかった。ガラス張りの店先に映る自分の姿――泥だらけの膝、乱れた髪、血の気の失せた顔――は、もはや知っている自分ではなかった。
遠くで別のサイレンの音が響き、慌てて物陰に身を隠した。息を潜めていると、一台のパトカーが交差点をゆっくりと横切っていくのが見えた。窓の中の警察官の視線が、こちらへ向けられないことを祈りながら、私は建物の壁に背中を押し付け、心臓が落ち着くまでじっと動かなかった。パトカーが角を曲がって見えなくなると、ようやく詰めていた息を吐き出し、再び歩き出した。膝はまだ笑っていたが、立ち止まっている時間の方が、今は恐ろしかった。
大通りに出るのは避け、住宅街の細い裏道を選んで歩いた。すれ違う人々の何気ない日常――ゴミ出しをする主婦、犬の散歩をする老人、登校中の小学生の集団――が、今の私にはひどく遠い世界の出来事のように見えた。彼らの誰も、私が今どんな状況に置かれているかなど、想像すらしていない。その断絶が、かえって孤独感を深めた。
頭の中は、幼稚園にいるはずの娘の姿だけで埋め尽くされていた。路地を抜け、幼稚園の方向を目指そうとした時、胸のポケットでスマートフォンが震えた。幼稚園の電話番号が表示されている。指先を強張らせながら通話ボタンを押し、耳に当てた。
電話に出る前のわずか数秒間、あらゆる最悪の想像が頭を駆け巡った。もし美羽が消えていたら。もし誰かに連れ去られていたら。指先が氷のように冷たくなっていくのを感じながら、私は掠れた声を飲み込みながら通話ボタンを押した。
「も、もしもし! 森下です!」
『あ、美羽ちゃんのお母さんですか? よかった、繋がって。......ただ、先ほどお父様が急遽お見えになりまして』
「......え?」私の思考が真っ白に凍りついた。康彦が? 今日は大事なプレゼンがあるからと、早朝から血相を変えて出勤していったはずの夫が、なぜ平日の昼間に幼稚園にいるのか。
『お父様が大変慌てたご様子で、「家庭の急用で至急連れて帰る」とおっしゃって......美羽ちゃんを引き取って一緒にご自宅へ向かわれました。お母様にはご連絡がいっているものと思ってお引き渡ししたのですが、行き違いでしたでしょうか?』
「康彦さんが......美羽を......。わかりました、夫から聞いています。ありがとうございます!」
一方的に電話を切り、その場にへたり込みそうになる膝を必死で叩いた。美羽は無事だ。犯人に連れ去られたわけではなかった。夫が連れて帰ったのだ。安堵のあまり、涙と一緒に嗚咽がこみ上げてきた。
道端の電柱に手をつき、しばらくその場から動けなかった。安堵と疲労が同時に押し寄せ、視界が涙で滲む。美羽の柔らかな頬、無邪気な笑い声――そのすべてが、まだこの世界のどこかに確かに存在しているのだと思うと、それだけで膝から崩れ落ちそうだった。
家に戻らなきゃ。康彦にすべてを話そう。あの人だって、実の娘が狙われていると知れば、きっと味方になってくれるはずだ。二人で美羽を連れて、どこか遠くへ逃げればいい。そう信じることでしか、今の自分を支えられなかった。今朝までの冷たい康彦の態度は、きっと余裕のなさゆえのものだったのだと、私は都合の良い希望に縋りついていた。




