第6章:南口公園の罠
食い下がる隙も与えず、通話が切れた。息つく暇もない。北口から南口へ抜けるには、駅の東西連絡通路を通らなければならない。人通りの多いコンコースを、この正体不明の重いバッグを抱えて歩くのか。私はバッグの持ち手を両手で強く握りしめ、胸に抱え込むようにして走り出した。
駅構内アナウンスが、平坦な口調で次の電車の到着を告げていた。ホームへ向かう乗客たちの列、キャリーケースを引く旅行者、スマートフォンに視線を落とすサラリーマン――誰もが、自分だけの世界の中で完結していた。ガラス張りの壁に映る自分の姿を見て、私は一瞬たじろいだ。乱れた髪、青白い顔、抱きかかえるように腕に食い込む黒いバッグ。まるで別人のようだった。
階段を駆け上がり、改札前の連絡通路を抜ける。工事中の柱の陰、案内板の裏、エスカレーターの下――そのすべてに、誰かが潜んでいるような気がしてならなかった。サラリーマンや学生たちが私を避けるように通り過ぎていく。誰もが私のことを「取り乱した怪しい女」として見ているような気がして、視線が針のように突き刺さる。バッグの底から、カチ......カチ......と微かな金属音が聞こえたような気がした。まさか、爆弾? それとも、銃? あるいは、誰かの血まみれの遺留品――?
恐怖でバッグを投げ捨てそうになるのを、必死で指に力を込めて堪えた。手放せば美羽が殺される。中身が何であれ、言われた通りに置くしかない。腕の中でバッグが小さく揺れるたび、内容物が擦れ合うような音がして、そのたびに背筋が凍った。
重いバッグを片腕で抱え直すたび、肩から二の腕にかけて鈍い痛みが走った。走る速度が落ちるたびに、時計塔の針の進みが速まったように感じられる。喉の奥が焼けるように渇き、呼吸のたびに肺が悲鳴を上げていた。それでも足を止めることは、決して許されなかった。
南口の小さな公園に出た。古びたからくり時計塔の奥、遊具の並ぶ広場を抜けた先、鬱蒼と茂る植え込みの陰に、コンクリート造りの公衆便所が見える。時計の針は、指示から二十五分を指していた。あと五分。全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出す感覚があった。
公園のベンチに座る老人、砂場で遊ぶ親子連れ、ベビーカーを押しながら携帯を眺める若い母親。誰もが、私の緊迫など知る由もない顔で、それぞれの時間を過ごしている。その落差が、かえって私の孤独感を際立たせた。
私は足をもつれさせながら植栽を抜け、男子トイレと女子トイレの間に設置された大型のポリバケツの前に立った。指示通り、バケツの脇に黒いバッグを滑り込ませる。
バッグを手放した瞬間、肩の荷が下りたような錯覚に襲われた。早くここを離れよう。今すぐ幼稚園へ向かい、美羽をこの胸に抱きしめて、二人でどこか遠くへ逃げよう。そう思い、きびすを返して公園の出口へ向かって駆け出そうとした、まさにその時だった。
「動くなッ!!」
裂帛の気合とともに、植栽の陰から数人の男たちが飛び出してきた。私服姿だが、異様な気迫を放つ屈強な男たち。彼らは一瞬で私の逃げ道を塞ぎ、左右から腕をねじり上げるようにして地面へと押し倒した。
「痛い! な、何!?」
「警察だ! おとなしくしろ!」
アスファルトに頬を強く打ち付けられ、口の中に砂利の味が広がる。左腕を背中に強くねじり上げられ、肩の関節が軋むような痛みが走った。周囲に人だかりができ始め、遠巻きにスマートフォンをこちらへ向けている人影がいくつも見えた。「捕まってる」「何かの事件?」という囁き声が、耳の奥で反響する。警察......? どうして?
男たちの一人が、私が置いたばかりの黒いバッグへ駆け寄り、プラスチックの手袋をはめた手でファスナーを一気に引き開けた。「......係長、ありました! 覚醒剤と、指定暴力団の資金洗浄用と見られる記名証券です!」
覚醒剤。資金洗浄。耳に飛び込んできた単語の意味を、脳が処理できない。
「違う......! 違います! 私は、指示されただけで......!」
「お前が森下咲良だな? ずっとマークしていたんだ。現行犯で引っ張るぞ」見下ろす刑事たちの目は、冷酷な光を宿していた。まるで、最初から私がこの場所へ現れることを知っていたかのような――完璧な待ち伏せ。
「指定暴力団・誠竜会の資金洗浄ルートを、半年前からずっと追っていたんだ」年配の刑事が、吐き捨てるように言った。「今朝方、匿名の通報が入ってな。『駅の南口で、女がロッカーから違法薬物らしき荷物を運び出す』ってな。まさか運び屋が、こんな平凡そうな主婦だったとはな」
その言葉に、背後で私を取り押さえていた、まだ若い刑事が、ふと怪訝そうな表情を浮かべた。「係長、匿名の一本の通報だけで、ここまで大掛かりな捜査員を動かすのは......」
「上の指示だ。つべこべ言うな」年配の刑事は、それ以上取り合わなかった。若い刑事は口をつぐんだが、その視線は、まだどこか納得のいかない色を残したまま、私の顔を一瞬だけ見つめた。
誠竜会。聞いたこともない名前だった。頭の中で意味を結ばないまま、その響きだけが耳の奥にこびりついた。
涙と土埃で汚れた顔を上げ、私は必死に訴えた。「違います、私は本当に何も知らないんです! さっき、非通知の電話で指示されて、言われるがまま鞄を置いただけで......!」
「みんなそう言うんだよ」年配の刑事は、うんざりしたように鼻を鳴らした。「証拠は揃ってる。署で洗いざらい話してもらう」
その時、遠くからけたたましいサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。何台ものパトカーが、公園の周囲を取り囲むように集結してくる。赤色灯の光が、植え込みの緑を不気味に赤く染め上げる。人々が遠巻きに足を止め、スマートフォンをこちらへ向けている姿も見えた。
アスファルトに頬を押し付けられたまま、視界の端に映るのは、逆さまになった時計塔と、青ざめた顔で立ち尽くす通行人たちの足元だけだった。誰かが小さな子供を抱き上げ、足早にその場を離れていく。ついさっきまで、私もあの母親と同じ側にいたはずだった。
ハメられた――。全身の血が逆流するような寒気が走った。あの犯人は、私に何かを運ばせたかったんじゃない。警察の捜査の目を引きつけるための「囮」として、身代わりの現行犯として、私をここに差し出したのだ。誰かが最初から、私をこの結末へ導くために、あの手紙を、あの写真を、あの鍵を、順番に用意していた。まるで、舞台の上で決められた台詞をなぞらされていただけのように。
昨日の朝の郵便受けから始まったすべての出来事が、一枚の巨大な絵図の断片だったのだと、今さらのように理解が追いついてくる。私はただ、その絵図の中を、指示された通りに動く駒に過ぎなかった。いったい、いつから見張られていたのだろう。数日前から? それとも、もっとずっと前から――?
「違うの......娘が......美羽が人質に取られてるんです! 早く幼稚園に行って! 美羽が殺されちゃう!」
私が狂ったように叫ぶと、刑事たちは冷笑を浮かべ、手錠を取り出した。「言い訳は署で聞く。お前が裏で手引きしていたことは、すべて筒抜けなんだよ」
時間の流れが、奇妙なほど緩やかに感じられた。かちゃり、と手錠の輪が開く小さな金属音。刑事の指がそれを私の右手首へ導こうとする、その一秒にも満たない動作が、まるでスローモーションのように引き伸ばされて見えた。もう駄目だ――そう思った、まさにその刹那だった。
冷たい金属の手錠が、私の手首にかけられようとした、その瞬間――。ドォン!! けたたましい爆発音とともに、公衆便所の裏手にある配電盤から激しい火花と黒煙が噴き上がった。あまりにも都合の良いタイミングに、頭の片隅で違和感がよぎったが、それを考える余裕は今の私にはなかった。公園にいた人々から悲鳴が上がり、刑事たちの注意が一瞬だけ煙の方向へと逸れた。
焦げた電線の匂いが鼻を突き、黒煙が青空を汚していく。誰かが「火事だ!」と叫び、公園全体が一気に騒然となった。逃げ惑う人々の悲鳴と、警備員らしき男の怒声が交錯する中、赤色灯の光が煙に反射して不気味な赤紫色に滲んでいた。
刑事たちが一斉に無線機に向かって怒鳴り始める。「爆発物処理班を呼べ! 周辺の避難誘導を最優先で!」怒号が交錯する中、私を押さえつけていた二人の刑事の視線が、一瞬だけ完全に煙の方向へと逸れた。その隙は、コンマ数秒にも満たない、ほんのわずかな綻びだった。
私を押さえつけていた刑事の手の力が、ほんのわずかに緩む。今しかない。捕まったら、警察署に連行されて取り調べを受け、美羽の元へは二度と行けない。その間に、犯人は美羽を――。私は泥だらけの手で刑事の脚を払い、狂乱の力で立ち上がった。
「待て! 止まれ!」背後から怒号が飛ぶ中、私は人混みの中へと無我夢中で身を投げ出した。膝の擦り傷が鋭く痛んだが、立ち止まることは死を意味した。
遠ざかっていく怒号を背に、私はただがむしゃらに走った。行く当てなどなかった。ただ、この場所から少しでも遠くへ。美羽に、少しでも早く近づくために。
数時間前まで守られていたはずの日常は、もう二度と戻らない場所にあるのだと、走りながら私はどこかで理解し始めていた。
パニックに陥った人々の波に紛れ、何度も肩や腕がぶつかった。誰かの怒鳴り声、子供の泣き声、けたたましいサイレン。すべての音が遠くくぐもって聞こえる中、私はただ前へ、前へと、無我夢中で駆け続けた。振り返ることは許されない。振り返れば、その瞬間に足が竦んで捕まってしまう気がした。
数分前まで、私は台所でオムライスの献立を考える、どこにでもいる主婦だった。それが今、覚醒剤の運び屋として全国に指名手配されようとしている。あまりに急激な転落に、頭のどこかがまだ現実を拒んでいた。それでも、足だけは止まらなかった。美羽という、たった一つの理由のために。
背後で誰かの手がコートの裾を掠めた。振り払うように体をひねると、指先が布地を掴み損ね、布擦れの音とともに離れていく。転びそうになりながらも、私は雑踏の隙間へと体をねじ込み、人と人との間を縫うようにして走り続けた。心臓が破裂しそうなほど脈打っていたが、恐怖が痛みさえも麻痺させていた。
人混みを抜け、細い路地へと飛び込んだ瞬間、視界の端に、こちらをじっと見つめる一つの人影が映った気がした。刑事でも、通行人でもない、何かを見定めるような静かな視線。振り返る余裕はなかったが、その気配だけが、いつまでも背中にこびりついて離れなかった。爆発の瞬間、あの人影は、驚いた様子も、慌てた様子もなかった――そう気づいたのは、ずっと後になってからのことだった。




