第5章:駆け引きの罠
ツーツーツー......。
切れた通話の無機質な電子音が、鼓膜の奥にこびりついて離れない。「三十分......」
エプロンの右ポケットの中で、小さな真鍮の鍵が冷え切った私の皮膚に食い込んでいる。どうやってポケットに入れられたのか。幼稚園へ送る途中のすれ違い様か、それとも家の中に忍び込まれた時か。考えている暇はなかった。美羽の指を一本ずつ郵送する、という言葉が耳元で何度もリフレインし、胃袋の底が凍りつく。
康彦を起こすべきか、一瞬だけ迷った。だが、昨夜のあの冷たい目を思い出すと、体が勝手に拒んでいた。あの人に話しても、また「大袈裟だ」「被害妄想だ」と切り捨てられるだけだ。頼れるのは、もう自分の足しかない。
私は散らかった寝室から転げるように階段を駆け下りた。リビングの棚から財布とスマートフォンをひったくり、鍵の入ったエプロンを脱ぎ捨てようとして思いとどまり、ロッカーの鍵だけをコートのポケットへねじ込む。普段履いているスニーカーに踵を無理やり押し込み、玄関のドアを開けた。
玄関を飛び出す寸前、下駄箱の上に飾られた美羽の七五三の写真が目に入った。晴れ着姿で無邪気に笑うあの子の顔を見た瞬間、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。絶対に、絶対に、この子を守り抜く。そう自分に誓い、私は写真から視線を引き剥がすようにして外へ飛び出した。
外は、憎らしいほど澄み切った秋の陽光に包まれていた。近所の主婦がベランダに布団を干すパンパンという乾いた音が、遠くから響いてくる。すぐ隣の日常が、私だけを切り離してガラスの向こう側にあった。犬を連れた老人が、のんびりと会釈を寄越す。私は引きつった笑みを返すことしかできなかった。
走った。息が上がり、冷たい空気が肺を突き刺す。心臓が早鐘のように肋骨を乱打し、足がもつれそうになる。駅の北口までは普段なら歩いて十五分。小走りで向かっても十分はかかる。
毎朝、美羽と手を繋いでのんびり歩いたはずの通園路を、今は息も絶え絶えに駆け抜けている。いつも立ち止まって挨拶を交わす豆腐屋の店先も、美羽がお気に入りの猫を眺める駐車場の塀も、今は目に入る余裕すらなかった。見慣れた景色のはずなのに、まるで初めて訪れる異国の街のように、よそよそしく感じられた。
頭の中は真っ白だった。警察に飛び込む選択肢が、一瞬だけ脳裏をかすめる。駅前には交番がある。駆け込んで「娘が脅迫されている」と叫べば、誰かが動いてくれるかもしれない。だが、あの機械で歪められた声が、耳のすぐ後ろで囁くように蘇る。『お前の娘は、今とても無防備だ。幼稚園の砂場で、赤いバケツを持って遊んでいるね』
犯人は見ているのだ。今この瞬間も、幼稚園のフェンス越しに、あるいは美羽のすぐ近くで。パトカーの姿が見えた瞬間に、美羽の小さな首筋に刃が突き立てられるかもしれない。そんな賭け、母親として絶対にできるわけがなかった。走りながら何度も、交番の赤い明かりを視界の端に捉えては、目を逸らした。
息が上がり、視界の端が白く滲んでいく中、なぜか脈絡もなく、大学時代のある名前が頭の隅をよぎった。橘――。誰の名字だったか、はっきりとは思い出せない。今はそれどころではないと、私はその記憶を無理やり振り払い、ただ足を前へ前へと運び続けた。
駅の北口ロータリーが見えてきた。通勤ラッシュは終わり、駅前にはタクシーを待つ老人や、ベビーカーを押す母親の姿がまばらにあるだけだった。誰もが平和な日常を享受している。私だけが、泥水の中を溺れながら走っている。すれ違うたびに、視線が突き刺さるような気がした。息を切らして走る私服の女を、誰もが不審げに一瞥する。
北口の階段脇、薄暗い高架下に並ぶコインロッカーの列へ飛び込んだ。油と埃の匂いが立ち込める狭い通路。壁一面に並んだロッカーの番号を目で追う。「二〇四......二〇四......」自分の呼吸音だけが、コンクリートの壁に反響して耳障りに響いた。
角を曲がった最下段に、その番号はあった。ポケットから取り出した鍵には、小さく『204』と刻印されている。汗で滑る指で鍵穴に差し込み、右へ回した。
カチャリ。重い鉄の扉を開ける。中に入っていたのは、黒いナイロン製のボストンバッグだった。何の変哲もない、スポーツ用品店で売られているような中型の手提げ鞄。手に取ると、ずっしりとした重みが腕に伝わってきた。鉄の塊でも入っているかのような、鈍い重量感。持ち手を握った瞬間、指先が震え、危うく取り落としそうになる。
周囲を見回す。高架下の通路には、ロッカーの利用客らしき人影が二、三人。誰も私を気にする様子はない。それでも、視界の隅で何かが動くたびに、心臓が縮み上がった。監視カメラのレンズがこちらを捉えていないか、天井の隅々にまで視線を走らせずにはいられなかった。
このロッカーを最後に使ったのはいつだっただろう。美羽が生まれる前、康彦と二人で旅行に出かけたとき、大きなスーツケースを預けたことがあった気がする。あの頃はまだ、二人で笑い合いながら未来を語っていた。今、同じ場所で、私は見知らぬ誰かの指示に従い、正体不明の重い荷物を運び出している。その落差に、めまいがした。
ファスナーの隙間から中を覗こうとした、その瞬間。ピロリン、ピロリン――。コートのポケットに入れていた、あの黒いプリペイド携帯がけたたましく鳴り響いた。心臓が喉まで跳ね上がり、呼吸が止まる。
指先が汗で滑り、通話ボタンをなかなか押せない。深呼吸を一つ挟んでから、震える指でようやく画面をタップした。
画面を開き、通話ボタンを押す。「......鍵、開けました。鞄を取り出しました」
『時間は残り十八分だ。鞄は開けるな』
「美羽は......! 美羽はどうしてるの!?」
『まだ無邪気に泥団子を作っているよ。いい子だね。......次は、その鞄を駅の南口にある公園、時計塔の裏にある公衆便所のゴミ箱の横に置け』
泥団子。その言葉の軽やかさと、今の状況の重さとの落差に、めまいがした。犯人はまるで、悪びれもせず幼稚園の光景を実況しているかのようだった。それほどまでに、犯人にとって美羽は、ただの取引材料に過ぎないのだ。
「置くだけでいいの? 置いたら、美羽を解放してくれるのね!?」
『ああ。指示通りにすれば、娘には指一本触れない。だが、中身を確認しようとしたり、少しでも寄り道をした瞬間、お前は二度と娘を抱きしめることはできなくなる』
「お願い、一度だけでいいから、美羽の声を聞かせて......! 生きてるって、確認させて......!」
私の懇願に、電話の向こうでかすかに笑うような気配がした。『指示を守れば、いずれ本人に会える。今は、時間を無駄にするな』




