第4章:康彦の拒絶
朝が来ても、恐怖は消え去るどころか、冷酷な現実としてそこに横たわっていた。夫は昨夜の会話などなかったかのように無言で朝食を流し込み、足早に出勤していった。玄関を出る際、ドアの鍵穴をちらりと確認していたが、「何ともない。気のせいだ」と冷たく吐き捨てただけだった。その言葉とは裏腹に、康彦の目はほんの一瞬、道の先の電柱のあたりへ鋭く走った――ように見えた。気のせいだろうか。
美羽を幼稚園へ送る道中、私は何度も後ろを振り返った。電柱の陰、すれ違う軽トラックの運転席、犬の散歩をする老人の視線。すべてが敵に見える。いつも挨拶を交わす向かいの奥さんにさえ、今朝は会釈を返す余裕がなかった。寝不足で重たい瞼をこすりながら歩く私の隣で、美羽だけがいつも通り無邪気にスキップをしていた。「ママ、きょうもおむかえ、はやい?」と聞かれ、「うん、早く行くね」と答える声が、自分でも驚くほど上ずっていた。
幼稚園の門の前で、美羽の担任である若い女性教諭に無理やり笑顔を作り、「今日は体調が少し優れないので、早めにお迎えに来るかもしれません」と告げた。園内に美羽が入っていくのを見届け、重い足取りで自宅へと引き返す。帰り道、ずっと誰かに見られているような視線を背中に感じていた。すれ違う郵便配達員の顔、コインパーキングに停まった見慣れない軽自動車、電線にとまる一羽のカラスの視線までもが、今の私には不審な監視者に見えてしまう。
午前十時過ぎ。掃除をする気力も起きず、リビングのソファに腰掛けていた時、ふと異変に気づいた。二階から、ギシ......と床がきしむような小さな音が聞こえたのだ。
心臓が跳ね上がる。風? 家のきしみ? いや、違う。微かに、だが確実に「何かが引きずられるような音」がした。
私は息を止め、階段の登り口へと忍び寄った。二階の主寝室のドアが、わずかに開いている。今朝、出勤前に康彦が閉めていったはずのドアが。
「だ、誰......?」
おぼつかない手つきで階段の手すりを掴み、一段、また一段と上がっていく。木の階段がわずかに軋むたび、心臓が縮み上がった。二階に漂う空気が、明らかにおかしかった。我が家の匂いではない。甘ったるい、どこか人工的な香水の匂いと、雨に濡れた革のような生臭い匂いが混ざり合っている。以前、康彦の忘年会の土産だといって渡された高級ブランドの香水に、どこか似ている気がした。だが、そんな連想をしている余裕はすぐに消え去った。
寝室の前に立ち、ゆっくりとドアノブに手をかけた。ギィ、と乾いた音を立ててドアが開く。その光景を目にした瞬間、私の喉から声にならない悲鳴が漏れた。
荒らされていた。康彦のスーツや書類には一切手がつけられていない。だが、私のクローゼットだけが乱暴にこじ開けられ、服が床一面に引きずり出されていた。引き出しはすべて引き抜かれ、私の下着やストッキングが切り刻まれ、無残に散乱している。私の私物だけが、執拗に、憎悪を込めて破壊されていた。
床に散らばった布の切れ端を見下ろしながら、膝から力が抜けていった。物を壊されたという以上の何かが、胸の内側を冷たく舐めていく。まるで、私という人間の存在そのものを踏みにじられたような感覚だった。誰かが、この部屋で、私だけを狙って、時間をかけて、憎しみを刻みつけていった――そう思うと、吐き気がこみ上げてくる。
「あ......あぁ......っ」
恐る恐る足を踏み入れ、隣の子供部屋のドアを見る。半開きになった子供部屋の中を覗き込むと、そこには異様な静けさがあった。美羽のぬいぐるみも、絵本も、散らかしたブロックも、何一つ動かされていない。今朝のまま、完璧に保存されている。子供部屋には手を触れず、私の領域だけを徹底的に蹂躙している。その悪意の選別が、何よりも恐ろしかった。まるで、この家の中で誰を憎み、誰を利用するつもりなのかを、はっきりと線引きされているようだった。
犯人は、家の中に侵入したのだ。私が美羽を幼稚園へ送りに家を空けた、わずか三十分足らずの間に。勝手口の鍵がピッキングで外されていたのか、それとも最初から合鍵を持っていたのか――。合鍵を持っている人間など、康彦と、あとは不動産会社の担当者くらいしか思いつかない。
視線を巡らせると、クローゼットの一番奥、普段はめったに開けることのない小さな段ボール箱までもが引きずり出され、蓋が乱暴に開けられているのに気づいた。大学時代の卒業アルバムやサークルの寄せ書きをしまっておいた箱だった。もう何年も、開けた記憶さえない。誰が、なぜ、こんな古い箱にまで手をつけたのか。今はそれを考える余裕もなく、私はただ立ち尽くしていた。
恐怖と吐き気で目眩を覚えながら、私は寝室のドレッサーに視線を向けた。三面鏡の鏡面に、鮮やかな深紅の文字が擦り付けられていた。私が愛用している、お気に入りの赤い口紅。その先端を無惨に押し潰し、鏡いっぱいに殴り書きされた太い文字。
『逃げ場はない。共犯者』
鏡に映る文字の真ん中に、青ざめ、恐怖に歪んだ私の顔が重なっていた。共犯者? 何の共犯だというの? 私は何もしていない。誰とも共謀なんてしていない。鏡の中の自分の顔が、見知らぬ誰かのもののように遠く感じられた。
ふと、昨日の朝、食器棚の上の古い集合写真を見て覚えた小さな違和感がよみがえった。あのとき感じた「誰の顔だったか思い出せない」という感覚と、目の前の『共犯者』という文字が、頭の中で繋がりそうで繋がらない。まるで、記憶の底に沈めていた何かが、水面のすぐ下まで浮かび上がってきているような、落ち着かない感覚だった。
その時、散らばった衣類の下から、電子音が鳴り響いた。
ピロリン、ピロリン、ピロリン――。
私のスマートフォンではない。私のスマホは今、エプロンのポケットに入っている。音は、床に投げ出された私の古いバッグの底から聞こえていた。覚束ない足取りで近づき、バッグのファスナーを開ける。中から出てきたのは、見覚えのない、黒い安物のプリペイド式ガラケーだった。画面が激しく点滅し、着信を告げている。誰が、いつ、これを私のバッグに仕込んだのだろう。
恐る恐る通話ボタンを押し、耳に当てた。無言のまま待つと、受話器の向こうから、機械で変調されたような低く歪んだ声が響いた。
『家を気に入ってもらえたかな、咲良さん』
「あなた......誰なの......っ! どうして私なの!?」
叫ぶ私の声に、電話の主はクツクツと低く喉を鳴らして笑った。
『質問する立場だと思っているのか? お前の娘は、今とても無防備だ。幼稚園の砂場で、赤いバケツを持って遊んでいるね』
「美羽......!?」
『警察に言えば、次にお前が見るのはあの子の冷たくなった身体だ。生き延びたければ、今から私の言う通りに動け』男の声は、感情の通わない氷のように冷酷だった。『駅の北口にあるコインロッカーへ行け。ロッカー番号は二〇四。鍵は、お前が今着ているエプロンの右ポケットに入っている』
息が止まった。震える手で、恐る恐るエプロンの右ポケットに指を滑り込ませる。指先に触れたのは、冷たい金属の感触――。小さな鍵が、確かにそこに入っていた。
いつの間に。犯人は、家の中にいただけじゃない。今朝、私とすれ違ったのか。それとも、私が気付かないうちに、背後に忍び寄ってポケットに滑り込ませたのか。あの甘ったるい香水の匂いが、再び鼻の奥をかすめた気がした。
『タイムリミットは三十分だ。遅れたら、美羽ちゃんの手指を一本ずつ郵送することになる』
ツーツーツー......。通話が一方的に切れた。部屋の中には、鏡に書かれた赤い『共犯者』の文字と、冷酷な沈黙だけが残されていた。
壁の時計を見る。長針が刻む音だけが、やけに大きく耳に響いた。三十分。美羽の小さな指を思い浮かべた瞬間、それまで辛うじて保っていた理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れるのを感じた。考えるより先に、体が動いていた。




