第3章:侵食される聖域
カチリ。ガチャ......ガチャリ。
深夜の静寂を切り裂くように、玄関の金属ノブが微かに震え、回される音が響いた。呼吸が止まり、全身の血液が一瞬で冷え固まる。
誰かが、いる。玄関ドアを隔てた、すぐ向こう側に。
足の指先まで感覚が麻痺し、床にへたり込んだまま身動きが取れない。スマートフォンの青白い光だけが、暗闇の中で私の指先をおぼつかなく照らしていた。壁の時計は、深夜零時を少し回ったところを指している。家中の明かりを消し忘れていたことに、今さら気づいた。玄関灯の磨りガラス越しに、人影らしき輪郭がぼんやりと揺れているのが見える。
二階では美羽が眠っている。もし今、大声を出して康彦を呼べば、その声で美羽が目を覚まし、泣きながら階段を下りてきてしまうかもしれない。それだけは、絶対に避けなければならなかった。息を殺すことと、助けを呼ぶこと――その二つが、私の中で真っ向からぶつかり合っていた。
ガチャリ、と再びノブが小さく引かれ、やがて鍵穴のあたりを爪か細い金属でカリカリと引っ掻くような、耳障りな微音が続く。恐怖で喉が引き攣れ、声が出ない。叫ぼうとしても、肺から掠れた呼気が漏れるだけだった。
「康彦......さん......」
二階の寝室で眠っているはずの夫の名を、掠れた声で呼んだ。けれど、その声はリビングの天井にすら届かない。もし今、私が物音を立てたら、ドアの向こうの影はどう動くのだろう。無理やりガラスを割って侵入してくるのではないか。それとも、二階の美羽の部屋のベランダへ回るのだろうか。「次は、美羽ちゃんの番だ」という液晶画面の文字が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
私は這うようにしてダイニングテーブルの脚を掴み、音を立てないよう息を殺しながら立ち上がった。キッチンのカウンターに置かれた包丁立てが視界に入る。黒い柄を握りしめようと手を伸ばしかけたが、あまりの震えに指が追いつかない。もし本当にこれを握って、扉の向こうの何かと対峙することになったら――想像しただけで、膝から下の感覚が消えていくようだった。
その時だった。
スッ......と、玄関ドアの郵便受けのフラップが内側にわずかに持ち上がり、外の冷たい空気が細く吹き込んできた。暗がりの中、投函口の隙間から、何者かの「気配」が家の中を覗き込んでいるのが分かった。視線が、皮膚をチリチリと焼くように突き刺さる。息を止めたまま、私はその視線の先に自分が立っていないことだけを祈った。
「......ッ!」
私は両手で口を覆い、しゃがみ込んだ。永遠とも思える十数秒の沈黙の後、パタン、とポストのフタが元に戻る乾いた音がした。続いて、砂利を踏みしめる靴音が一つ、二つと遠ざかっていく。革靴ではない。もっと柔らかい、スニーカーのようなゴム底の足音だった。そんな些細な違いにまで、神経が張り詰めていた。
いなくなった......?
家の中は、これ以上ないほど静まり返っていた。冷蔵庫のモーター音、柱時計の秒針、換気扇の微かな唸り――昼間なら気にも留めない生活音の一つひとつが、今は耳障りなほど大きく聞こえる。どれくらいの間、そうしてうずくまっていただろうか。遠くの幹線道路を走る大型トラックの重低音と、冷蔵庫のモーター音だけが部屋を満たしていた。私は冷え切ったフローリングに手をつき、脂汗で額に張り付いた髪を乱暴に払いのけた。手のひらに感じるフローリングの冷たさだけが、今この瞬間が現実だと教えてくれる唯一の手がかりだった。
警察。今度こそ、警察に電話しなければ殺される。指先がこわばり、うまく力が入らないまま、スマートフォンの通話画面を開いて「110」を押そうとした。画面に並ぶ数字が涙で滲む。
『お前の犯した罪を知っている』『次は、美羽ちゃんの番だ』
指が震えて画面に触れられない。もし警察を呼んで、パトカーのサイレンが鳴り響いたら、犯人は逆上して美羽に危害を加えるのではないか。それに――警察に「何の罪ですか」と聞かれたら、私は何と答えればいいのか。身に覚えがなさすぎる。いたずらだと片付けられたら? その間に犯人が本気になったら?
「康彦さんに......まず話さなきゃ」
私はよろめく足でリビングを出て、軋む階段を一歩ずつ、音を忍ばせて上った。手すりを握る指先が、まだ小刻みに震えている。二階の寝室のドアをそっと開けると、夫の規則正しい寝息が聞こえてきた。何も知らずに眠っていられる康彦が、一瞬だけ別の世界の住人のように思えた。ベッドの脇に駆け寄り、布団の上から康彦の肩を激しく揺さぶる。
「康彦さん、起きて......お願い、起きて!」
「......ん......あ? なんだよ......」
康彦は顔をしかめ、鬱陶しそうに腕を払いのけた。「何時だと思ってんだよ。明日も早いって言っただろ」
「お願いだから聞いて! 誰かが、玄関のドアを開けようとしたの! ノブを回して、ポストから中を覗いて......!」
「はあ?」康彦は不機嫌そうに上半身を起こし、ベッドサイドのライトを点けた。黄色い光に照らされた夫の顔には、心配の色など微塵もなく、眠りを妨げられたことへの純粋な苛立ちだけが浮かんでいた。「誰かって、誰だよ。見間違いだろ。風でノブが鳴っただけじゃないのか」
「風じゃない! 手紙が来たの、昼間に! 真っ白な封筒で、血まみれの現場の写真が入ってて......美羽のキーホルダーが写ってて......それにさっき、非通知でメッセージが届いたの。『次は美羽の番だ』って!」
私はすがるようにスマートフォンを康彦の目の前に突きつけた。画面には、先ほどの不気味なメッセージが表示されている。康彦は眉をひそめ、奪い取るようにして画面を凝視した。「......なんだこれ」
そのとき、康彦の枕元に置かれた本人のスマートフォンが、短く一度だけ振動した。康彦の目が一瞬だけそちらへ動き、それから何ごともなかったかのように私のスマホへ視線を戻す。ほんの一瞬の反応だったが、その素早さが妙に引っかかった。こんな時間に、誰からの連絡だったのだろう。
「怖いの、康彦さん。警察を呼んで。お願いだから今すぐ警察に――」
「バカ言え!」鋭い怒声が寝室に響き渡った。隣の子供部屋で眠る美羽が起きないかと、私の心臓が跳ね上がる。
「警察なんか呼べるわけないだろ! 夜中にパトカーがサイレン鳴らして家の前に乗りつけてみろ、近所にどう思われるか分かるか? 『森下さんの奥さん、夜中に警察沙汰を起こしたらしいわよ』って、一瞬で噂が広まるんだぞ!」
「でも、美羽が狙われてるのよ!?」
「ただのスパムか悪質ないたずらだろ! お前が昼間に変なサイトに登録したか、個人情報をどこかに漏らしたんじゃないのか!?」
「そんなことしてない! 信じてよ!」
「じゃあ、あなたは今の音を聞いてないから、そんなふうに言えるのよ......! 確かに、ドアの向こうに誰かがいたの。ポストの蓋が開いて、中を覗かれたの!」
「お前の思い込みだろ。近所の野良猫が塀を飛び越えた音かもしれないし、新聞配達がバイクを停めた音かもしれない。いちいち大袈裟に騒ぐな」
「大体な、お前は昔から神経質すぎるんだよ。昼の手紙だって、お前がその場で警察に持っていかなかったのが悪いんだろ。どこにあるんだ、その手紙と写真は」
「......キッチンの、ゴミ箱に捨てたの」
私の答えを聞いた瞬間、康彦は心底軽蔑しきったように鼻を鳴らし、乱暴に頭を掻きむしった。「捨てただと? 証拠も残ってないのに警察が相手にするわけないだろ! 『いたずらに怯えて大騒ぎする情緒不安定な主婦』として処理されて終わりだ。俺の立場も考えろ。いま昇進の審査で人事が見回ってる大事な時期なんだ。家庭内トラブルや警察沙汰なんて噂が立てば、俺の出世はパーだぞ」
「私の命や美羽の安全より、世間体や出世のほうが大事なの......?」
震える声で絞り出すように問うと、康彦は冷たい目で私を見下ろした。「命なんて大袈裟なことを言うな。どうせ近所のガキの悪ふざけか、お前の被害妄想だ。戸締まりをしっかりして寝ろ。明日の朝、俺が見回ってやるから」
康彦はそう吐き捨てると、ライトを消し、背中を向けて布団を頭まで被ってしまった。夫の寝息が再び規則正しくなるまで、そう時間はかからなかった。まるで、たった今交わした会話などなかったかのように。
暗い天井を見上げながら、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。結婚したばかりの頃なら、康彦はこんなふうに私を突き放さなかったはずだ。それとも、私が気づかなかっただけで、本当はずっと前からこうだったのだろうか。過去を振り返る余裕さえ、今の恐怖の前ではあまりにも儚かった。
暗闇の中に取り残された私は、冷え切った畳の上に立ち尽くすしかなかった。守ってくれない。この人は、私や美羽を守る気なんて最初からないのだ。自分が築いてきた「平穏なエリート社員の家庭」というメッキが剥がれることしか恐れていない。ベッドサイドで一瞬だけ光った康彦のスマートフォンの画面が、なぜか頭から離れなかった。
私は寝室を出て、子供部屋へと向かった。ベッドの中で小さな寝息を立てている美羽の丸い背中を見つめ、そっとその小さな手を握りしめた。ママが守るから。何があっても、ママが美羽を守るから。そう心の中で何度も呪文のように唱えながら、私は一睡もできないまま、窓が白み始めるのを待った。




