第2章:脅迫状の朝
食器を洗い、洗濯機を回し、散らかったリビングを片付ける。掃除機をかけ終えた頃には、時計の針は九時を回っていた。少し汗ばんだ首筋をタオルで拭いながら、私は郵便ポストの確認のために玄関へと向かった。玄関先の朝顔の鉢植えには、隣家の奥さんが分けてくれた種から咲いた花が、もう萎れかけていた。今度お礼を言わなくては――そんなことを考えながら、私は郵便受けのフラップを押し上げた。
投函口に指を差し入れる。地域の広報紙と、スーパーの特売チラシが二枚。そして、その間に挟まるようにして――見慣れない一通の封書が落ちてきた。
「......なに、これ?」
思わず声が出た。それは、真っ白な長形三号の封筒だった。表面には切手も貼られておらず、消印もない。宛名すら書かれていなかった。誰かが直接、我が家のポストに投函していったのだ。玄関先の防犯カメラなど、うちには一つもない。道の向こうでは、近所の主婦がベランダに布団を干している。あの人にも、この不気味な静けさが見えているのだろうか。何事もない朝の続きの中で、私の指先だけが冷たくなっていく。
裏返してみても、差出人の名前も住所も一切書かれていない。ただ、真っ白な紙肌が冷たく光っている。
不審に思いながらも、私は親指を引っ掛けて封筒の口を破いた。中には、二つ折りにされた便箋が一枚と、厚みのある紙のようなものが同封されていた。
まず、便箋を開く。そこに書かれていた文字を目にした瞬間、私の視界がぐらりと揺れた。
手書きではない。新聞か雑誌の活字を切り貼りしたような、不揃いで歪な明朝体の文字。
『お前の犯した罪を知っている。すべてを償え。逃げられると思うな。』
「え......?」
心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。罪? 償え?
一体何のことだろう。私はごく普通の主婦だ。法律に触れるようなことどころか、信号無視すら滅多にしない。学生時代も真面目だけが取り柄で、人に恨まれるような覚えは微塵もない。
――そう思った次の瞬間、記憶の奥のほうで、何かが小さく疼いた。大学のあの写真。誰の顔だったか、思い出せなかったあの一枚。いや、考えすぎだ。あれから十年以上も経っている。今さら関係があるはずがない。
「たちの悪い、いたずら......?」
震える指先で、もう一つの同封物を取り出した。それは、サービスサイズに現像された一枚の写真だった。写真に視線を落とした瞬間、私は息を呑み、喉の奥からヒッと短い悲鳴を漏らした。
写っていたのは、どこかの薄暗いフローリングの床だった。そこに、血まみれになった革製のメンズ財布と、折れたボールペン、そして――酷く歪んだ銀色の腕時計が無造作に転がっていた。床には赤黒い血だまりが広がり、生々しい飛沫が周囲に飛び散っている。
悪趣味な映画のスチール写真か、何かの模造品だろうか。だが、写真の右下、床の片隅に写り込んでいるものを見て、私の全身から血の気が引いていった。
キーホルダーだった。地元の幼稚園で、今年の春に入園した園児だけに配られた、青いフェルト製の星のチャーム。そして、その裏に小さく油性ペンで書かれた、見覚えのある歪な平仮名。
『みう』
「嘘......」
指先が凍りついたように動かない。なぜ? どうして美羽の持ち物が、こんな血まみれの現場のような写真に写り込んでいるの? 美羽の通園バッグには、今朝も確かにこの星のチャームがついていたはずだ。それとも、以前落として失くしたと思っていた予備のものだろうか。
呼吸が浅くなり、酸素がうまく肺に入ってこない。心臓が早鐘を打ち、肋骨の内側を激しく乱打する。両手で口を覆い、その場に立ち尽くしたまま、私はしばらく動くことができなかった。
悪質ないたずら。そうよ、どこかで拾ったキーホルダーを使って、誰かが嫌がらせをしているだけ。最近、物騒なニュースが多いから、我が家を標的にした愉快犯に違いない。自分にそう言い聞かせても、心臓の鼓動はいつまでも鎮まらなかった。
警察。警察に電話しなきゃ。
私は落ち着かない手つきでスマートフォンをポケットから取り出し、画面をタップしようとした。だが、その時、今朝の康彦の冷たい声が脳裏をよぎった。
『妙な騒ぎを起こして近所に恥をかかせるな』『朝から余計な手間を取らせるなよ』
以前、近所で空き巣未遂があった際、防犯カメラをつけたいと相談したときの夫の侮蔑に満ちた目を思い出す。「お前はすぐ大袈裟に騒ぐ。世間体を考えろ。うちが神経質なクレーマーだと思われるだろ」と一蹴されたのだ。あのときも、康彦は私の話を最後まで聞かず、スマートフォンを片手に別室へ消えてしまった。あの日以来、私は自分の不安を口に出すことすら、間違っているような気がしていた。
もし、これが単なる悪質ないたずらで、警察を呼んでパトカーが家の前に停まったりしたら――。康彦は私をどう責め立てるだろう。「くだらない悪戯に踊らされて会社にまで恥をかかせた」と、冷酷な目で私を詰問するに決まっている。スマートフォンを握りしめたまま、指先だけが宙で止まっていた。
「落ち着いて、咲良......落ち着いて」
私は自分に言い聞かせるように、荒い息を繰り返した。まずは美羽の安全を確認しよう。そう思い、私は震える指で幼稚園の電話番号を押した。
コール音が二回鳴り、事務の職員が出た。
「あ、森下です。すみません、年少の美羽の母ですが......あの、美羽は、今教室にいますでしょうか?」
「あ、森下さん、おはようございます。ええ、美羽ちゃんですか? 今ちょうど園庭でみんなと元気に体操をしていますよ。何かありましたか?」
「いえ......! なんでもないんです。忘れ物をしたかと思って気になってしまって。ごめんなさい、お忙しい時間に」
「ふふ、大丈夫ですよ。美羽ちゃん、今日もニコニコで登園してますから安心してくださいね」
職員の穏やかな声を聞き、私はへなへなと玄関の上がり框に座り込んだ。よかった。美羽は無事だ。何事も起きていない。受話器の向こうの、あまりにも普通の朝の気配が、かえって自分の恐怖を大袈裟なもののように思わせた。
やっぱり、ただのたちの悪い嫌がらせなんだ。誰かが私を怖がらせて面白がっているだけだ。相手にして取り乱したら、それこそ犯人の思う壺だ。
私は立ち上がり、手紙と写真を封筒に戻すと、キッチンのゴミ箱の底深くへと押し込んだ。上から生ゴミ用の新聞紙を被せ、見えないように蓋を閉める。
見なかったことにしよう。こんな不気味なもの、私の生活には関係ない。私は普段通りに夕飯の買い出しに行き、洗濯物を取り込み、美羽を迎えて、康彦の帰りを待てばいい。いつも通りの、平凡な主婦として。
そうやって自分を騙しながら過ごした一日は、まるで灰色の霧の中を歩いているようだった。スーパーの陳列棚を見ていても、どの野菜を手にとっても、指先がかすかに震えている。レジに並んでいたとき、後ろに立った見知らぬ男性がスマートフォンをこちらに向けているような気がして、思わず振り返った。ただ子どもの写真を撮っていただけだった。すれ違う見知らぬ通行人が、全員私を嘲笑っているような錯覚に囚われた。買い物カゴの中身を選ぶ手さえ、今日はやけに他人事のように感じられた。
夕方、幼稚園バスから降りてきた美羽を抱きしめた時、その温もりとシャンプーの匂いにようやく涙が出そうになった。通園バッグの脇を見ると――今朝つけたはずの青い星のチャームが、綺麗に消えていた。
「美羽、これ......バッグについてたお星さまは?」
「あれ? ない。どこかでおっこちちゃったのかなあ」
美羽は無邪気に小首をかしげた。幼稚園で落としたのか、それとも、もっと前にどこかで紛失していたのか。美羽自身も覚えていないようだった。私はそれ以上何も聞けず、ただ娘の手を痛いほど強く握りしめた。
夜の九時を過ぎ、美羽を寝かしつけた後、康彦が帰宅した。酒の匂いを微かに漂わせた夫は、ネクタイを緩めながら機嫌悪そうにため息をついた。上着のポケットから覗くレシートの端に、見覚えのない店名が印字されているのが目に入ったが、確かめる前に康彦がそれをねじ込むように奥へ押し込んだ。
「プレゼン、うまくいかなかった。上の連中は現場の苦労も知らずに数字ばかり突きつけてきやがる」
「......お疲れ様。お風呂、沸いてるわよ」
手紙のことは、喉元まで出かかったけれど、どうしても言い出せなかった。不機嫌の頂点にいる夫にあの手紙を見せれば、どんな言葉で罵倒されるか分からなかったからだ。結婚した頃は、どんな些細なことでも二人で話し合っていたはずなのに。いつからこんなふうに、自分の中にすべてを飲み込むようになったのだろう。
「もう寝る。明日の朝も早いから起こすなよ」
康彦はシャワーを浴びると、リビングの明かりを消してさっさと二階の寝室へと上がっていった。
静まり返ったリビング。薄暗い部屋の中で、私は一人、ダイニングテーブルの椅子に座っていた。キッチンの隅にあるゴミ箱が、暗闇の中で巨大な怪物のように見えて仕方がなかった。捨てたはずの封筒が、あの中で蠢いているような錯覚。
大丈夫。何もない。明日の朝、ゴミ収集車が出れば、すべて消えてなくなる。
自分にそう言い聞かせ、立ち上がって寝室へ向かおうとした、その瞬間だった。
――ヴヴッ。
静寂を切り裂くように、テーブルの上に置いていた私のスマートフォンが短く振動した。
この時間に、誰からだろう。ママ友からの連絡にしては遅すぎる。私は胸騒ぎを覚えながら、画面を覗き込んだ。
画面に表示されていたのは、連絡先の名ではなく――『非通知設定』の四文字。受信トレイに届いた、一通のショートメッセージだった。添付ファイルはなく、たった一行のテキストだけが表示されている。
指先を震わせながら、私はそのメッセージを開いた。青白く光る液晶画面に浮かび上がった文字列を見た瞬間、私の足から完全に力が抜け、その場に崩れ落ちた。
『捨てたね。次は、美羽ちゃんの番だ。』
息が止まった。見られている。我が家のゴミ箱にあの手紙を捨てたことを、この犯人は、どこからか――今も、見つめている。
恐怖で悲鳴すら上げられない私の耳に、カチリ、と玄関のドアノブが外側から小さく回される金属音が届いた。




