第1章:波紋の朝
「ママ、きょうの卵焼き、あまいほう?」
幼稚園の制服に袖を通しながら、五歳になる娘の美羽が私のエプロンの端を引っ張った。小さな指がぎゅっと布を握りしめる感触に、今日も一日が始まるのだという安堵が胸の奥でふわりと広がる。
「そうよ。美羽の好きな、お砂糖とお出汁がたっぷり入った甘いやつ」
フライパンの上で黄色い卵液を菜箸で手早く巻き込みながら、私は小さく微笑みかけた。朝の七時十五分。住宅街の静けさの中に、トースターのチンという軽い音と、換気扇の低い回転音が重なる。窓の外には、抜けるような秋の青空が広がっていた。数年前に夫の康彦と頭金を出し合い、三十五年のローンを組んで手に入れた郊外の建売住宅。三LDKの決して広くはない家だけれど、リビングの白いクロスには朝の柔らかな光が差し込んでいる。
八年前、私はこの人と結婚するために、都内の広告代理店の事務職を辞めた。同期の女性たちの中には今も仕事を続けている人もいるけれど、私は「家庭を守る」という選択に迷いはなかった。むしろ誇らしくさえあった。母もそうやって私たち兄妹を育ててくれたし、康彦も「家のことは任せる、その代わり不自由はさせない」と約束してくれていた。結婚当初、優しかった頃の康彦を思い出そうとすると、なぜか輪郭がぼやける。いつから、こんなふうに息を潜めて暮らすようになったのだろう。
食器棚の上には、結婚式の日の写真が小さな木製フレームに収まっていた。その隣に、もう一枚――大学のゼミ合宿で撮った、色褪せかけた集合写真。何気なく視線をやったとき、ふと妙な感覚が胸をかすめた。この写真、いつも誰の顔を見ていたんだったろう。思い出そうとした瞬間、美羽の声が私を現実に引き戻した。
「ママ、みうね、きょう、えんちょうせんせいに、おほしさまのシール、もらうの」
「そうなの? どうして?」
「せいかつはっぴょうで、おおきなこえで、がんばったから」
「すごいね。帰ってきたら、いっぱい褒めてあげる」
美羽が満足げに笑うと、頬にできる小さなえくぼが、康彦の若い頃の写真とよく似ている気がした。この子だけが、この家の中で私が無条件に安心できる存在だった。ご近所付き合いは表面的なものばかりで、大学時代の友人とはもう何年も連絡を取っていない。ママ友との会話も、当たり障りのない範囲でしか本音を明かせない。気づけば、私の世界は、この三LDKの家と、美羽の幼稚園の送迎ルートだけに狭まっていた。
どこにでもいる、ごくありふれた三人家族。
これが、私の守るべき「ささやかで完璧な日常」のはずだった。
「おい、咲良。今日のネクタイ、グレーのストライプにしてくれって言っただろ」
寝室からリビングへと下りてきた康彦が、眉間に深い皺を寄せて私を睨みつけた。手には別の青いネクタイが握られている。ワイシャツの襟元からは、いつもと違う香りがかすかに漂った気がしたが、気のせいだろうと思い直す。
「ごめんなさい。昨日の夜、クリーニングから戻ったばかりのをクローゼットの右側にかけておいたの。すぐ取ってくるね」
「いいよ、自分で取る。まったく、朝から余計な手間を取らせるなよ。今日から新しいプロジェクトのプレゼンなんだから、少しは気を利かせてくれ」
舌打ち混じりに吐き捨てられた言葉に、胸の奥がキュッと縮む。康彦は中堅商社に勤めていて、仕事熱心な人だ。ただ、ここ数年は社内での出世争いや責任が重くなっているらしく、家の中ではいつも苛立ちを漂わせていた。怒鳴り散らされるわけではない。けれど、冷ややかな視線や些細なミスを咎める口調に、私はいつの間にか夫の顔色を伺いながら息を潜めて暮らすようになっていた。
先月も、こんなことがあった。美羽の誕生日プレゼントに絵本セットを選んだとき、康彦は「お前のセンスはいつも半端だな。もっと知育に繋がるものを選べないのか」と溜め息をついた。そのたびに私は、自分の判断すべてに自信を失っていく。今では、夕飯の献立ひとつ決めるのにも、康彦の機嫌を先回りして考えてしまう。
食卓に着いた康彦は、スマートフォンの画面を伏せたまま食パンをかじり、着信が入ると席を立って庭に面した掃き出し窓の外へ出た。ガラス越しに、口元を手で覆いながら短く何か話す横顔が見える。声は聞こえない。以前はリビングで平気で電話をしていた人だったはずなのに――そう思ったのも一瞬で、美羽が牛乳をこぼしそうになったことに気を取られ、私はすぐにそちらへ駆け寄った。
でも、夫が外で家族のために戦ってくれているのだから、私が家庭を完璧に整えなければならない。それが専業主婦としての私の役目だと、自分に言い聞かせてきた。
「美羽、ごちそうさまは? ほら、バスが来ちゃうよ」
「ごちそうさまでした! ママ、いってきます!」
美羽を玄関まで見送り、黄色い通園帽をかぶせて送り出す。夫もまた、冷めたコーヒーを飲み干すと、私の顔も見ずに玄関のドアを開けた。
「夜は遅くなる。飯はいらないから」
「気をつけてね、いってらっしゃい」
バタン、と重い金属音が響いてドアが閉まる。ようやく、肺の奥に溜まっていた息を静かに吐き出した。この瞬間だけは、いつも少しだけ肩の力が抜ける。皮肉なことに、家の中に自分ひとりになる時間が、一日で一番心が休まる時間だった。




