第25章:夜明けのサイレン
「処理班、到着しました!」
倉庫の入り口から、大柄な防爆スーツに身を包んだ隊員が二人、慎重な足取りで入ってきた。もう一人が、無線機片手に周囲へ避難誘導の指示を飛ばしている。
「奥さん、聞こえますか。今から椅子の状態を確認します。決して動かないでください」
隊員の一人が、私の目の前に膝をつき、椅子の下を懐中電灯で照らしながら、低く落ち着いた声で語りかけてきた。プロフェッショナルの声には、変な威圧感がなく、それがかえって私を安心させた。
「センサーは圧力感知式。起爆装置は市販の改造品ですが、配線は素人仕事じゃない。時間をかけずに対処できます」
彼はそう言うと、慎重な手つきで、鉛の詰まったダミーウェイトを、私の体重に合わせて椅子の下へと差し込んでいった。少しずつ、少しずつ、重量を移し替えていく作業。その一挙手一投足に、私は息を止めて見入っていた。
「三、二、一――今です。ゆっくり、腰を浮かせてください」
言われるがまま、私はおそるおそる体を持ち上げた。心臓が、これまでのどの瞬間よりも激しく鳴っていた。もし、この判断が間違っていたら――そんな想像が頭をよぎったが、もう後戻りはできなかった。
一秒、二秒、三秒。
何も起きなかった。
「成功です。あとはこちらで信管を処理します」
隊員の言葉に、全身の力が一気に抜けていった。膝が崩れ、そのまま倉庫の床に座り込む。両手で顔を覆うと、抑えていた嗚咽が、堰を切ったように溢れ出した。
処理班が信管を丁寧に冷却し、配線を一本ずつ切断していく様子を、私はただ呆然と見つめていた。長い、長い沈黙の後、リーダーらしき隊員が「解除完了」と告げた瞬間、倉庫内に安堵のどよめきが広がった。
全身の力が、一気に抜けていった。安堵と疲労が同時に押し寄せ、涙が止めどなく溢れてくる。両腕はもう感覚がなく、左腕の傷からは、まだじくじくと血が滲んでいた。それでも、痛みよりも先に、生き延びたという実感だけが胸を満たしていた。
外に運び出されると、パトカーの傍らで保護されていた美羽が、私の姿を見つけて駆け寄ってきた。「ママぁ......! ママぁ......!」
「美羽、ごめんね、怖かったよね、もう大丈夫だから。ずっと一緒にいるからね」
泣きじゃくる娘を、私は力の限り抱きしめた。あの温もりと匂いを、二度と失うことはない。そう心に誓いながら、私はしばらくの間、ただ美羽を抱きしめ続けた。周りで交わされる捜査員たちの声も、行き交う無線の音も、今はもう、遠い世界の出来事のようにしか聞こえなかった。救急隊員が駆け寄り、私の左腕に応急処置を施してくれる間も、私は美羽の手を片時も離さなかった。
肩を撃たれた恵那は、担架の上に固定され、点滴を打たれながら運ばれていく。手錠をかけられたその手は、もう何かを操る力を失っていた。それでも彼女は、担架の上で呪詛のような言葉を吐き続けていた。「あなたなんかに、幸せになる資格はない......全部、あなたが悪いのよ......」
その声に、私はもう恐怖を感じなかった。ただ、静かな哀れみだけが胸に残った。この人もまた、誰かに救われるべきだった一人の人間だったのだろう。だが、その救いの手は、もう二度と差し伸べられることはない。
「私は、美羽と一緒に前を向いて生きる」
その一言だけを告げ、私は彼女から視線を逸らした。振り返る必要は、もうなかった。
高宮玲奈が、折れた腕を固定されたまま、捜査員に連行されていく。その時だった。少し離れた場所で、同じく身柄を拘束された康彦が、縋るように玲奈へ駆け寄ろうとした。
「玲奈、大丈夫か......! 俺たち、これからどうなる。離婚が片付いたら、一緒に――」
玲奈は、足を止めることすらしなかった。振り返りもせず、投げ捨てるように一言だけ返した。「その話、まだ信じてたの? 呆れた」
その一言に、康彦の顔から、表情という表情が抜け落ちていった。呆然と立ち尽くし、遠ざかっていく玲奈の背中を、ただ目で追っている。二年間、彼が縋り続けてきたものが、まるで乾いた砂のように、音もなく崩れ落ちていく瞬間だった。
「そんな......嘘だろ......全部、演技だったのか......」
膝からくずおれ、地面に両手をついたまま、康彦は声にならない呻きを漏らし続けた。妻も、娘も、会社も、そして最後に縋りついた愛人の言葉さえも、すべてが偽りだったのだと悟った男の姿は、もはや見る影もなかった。
現場で身柄を拘束された康彦は、地面に這いつくばったまま、私を見つけるなり、見苦しいほど必死に縋りついてきた。「咲良......咲良、頼む、話を聞いてくれ......! 俺には、もう、お前しか......」
その言葉に、私は一瞥もくれなかった。哀れみすら湧かなかった。人殺しの片棒を担ぎ、妻も娘も裏切り、最後には利用されるだけ利用されて捨てられた、この惨めな男に、もうかける言葉など、何一つ残っていなかった。かつて愛したはずのその顔を、私はただ、遠い過去の記憶として見送った。
救急車の後部座席、応急処置を受けながら、神崎が静かに口を開いた。脇腹の包帯は真新しく巻き直され、点滴の管が腕に繋がれている。それでも、その目には、いつもと変わらない静かな光があった。
「これ、お前宛てだ」
差し出されたのは、一枚の書類だった。康彦の金庫から押収された、離婚届。
「お前が、自分の足で歩くために。自分で決めるべき書類だ」
こわばった指で受け取ったその紙の重みが、これまでの人生の重みそのもののように感じられた。だが、もう迷いはなかった。
「城島の裏金のログと通話記録は、全部警察庁に送った」神崎は疲れた声で続けた。「お前への容疑は、これで完全に晴れる。指名手配も、明日には取り消されるはずだ」
「それだけじゃない」皆川が、包帯を巻かれた神崎の横から口を挟んだ。「玲奈と恵那の身柄、それに押収した端末のデータを合わせれば、誠竜会の資金洗浄ルートの全体像が見えてくる。長年、尻尾すら掴ませなかった連中だ。今度こそ、会長以下、幹部を一斉に挙げられる」
神崎の口元に、これまで見たことのない、微かな安堵の色が浮かんだ。「三年か......長かったな」
「あんたの執念のおかげだ」皆川は、静かにそう答えた。「城島さんも、きっと浮かばれる」
「あなたのおかげです。本当に、ありがとう」
「礼はいい。俺は俺の目的のために動いただけだ」神崎はいつもの素っ気ない口調で答えたが、その声には、どこか穏やかな響きが混じっていた。
受け取った書類を握りしめる私の指先は、もう二度と、震えることはなかった。夜明けの空に、遠くパトカーのサイレンが、幾重にも重なって響いていた。それは、これまでの私を追い詰めてきた恐怖の音ではなく、長い夜が明けたことを告げる音として、耳に届いた。
隣に座る美羽の頭を、そっと撫でる。娘の規則正しい寝息が、疲れ果てた体にゆっくりと安らぎを運んできた。夜明けの光が、救急車の窓から差し込んでいた。




