第26章:私の足で歩く朝
事件から半年が経った。
郊外の一戸建ては手放し、私と美羽は、駅から少し離れた古い小さなアパートで、新しい生活を始めていた。二部屋しかない、決して広い住まいではないけれど、朝日が差し込むリビングの窓辺には、美羽が幼稚園で育てているミニトマトの鉢が、小さな緑の葉を伸ばしていた。あの家にあった、重苦しい静けさはもうどこにもない。
康彦は、資金洗浄と、城島刑事の事件をめぐる殺人幇助・証拠隠滅の罪で起訴され、実刑判決を待つ身となった。恵那と玲奈も、それぞれの罪で裁かれることになった。裁判の傍聴に出向くこともできたが、私はその選択をしなかった。過去を振り返るよりも、前を向くことを選んだのだ。提出した離婚届は正式に受理され、私の戸籍から、康彦の名前は静かに消えていった。
あの夜のあと、誠竜会は会長以下の幹部が一斉に摘発され、長年摑ませなかった資金洗浄の全容が明るみに出たと、ニュースで報じられていた。指定暴力団としての組織そのものが、ほぼ機能を失ったという。城島刑事の死も、ようやく正式に「事故」ではなく「殺人」として扱われることになったと、神崎が静かに教えてくれた。
美羽を保育園に送り届けた後、私は近所のスーパーでパートとして働いている。品出しやレジ打ちといった、決して華やかな仕事ではないけれど、自分の手で稼いだお金で、娘と二人分の生活を支えているという実感が、何よりも私を支えてくれていた。誰かの顔色を窺いながら生きていた、あの頃の自分は、もうどこにもいない。同僚の女性たちとの何気ない雑談さえ、今の私には得難い日常の一部だった。
仕事帰り、私はふと足を伸ばして、神崎の事務所を訪ねた。手には、近所の和菓子屋で買った菓子折りを提げている。
錆びた看板は、相変わらず同じ場所で点滅していた。二階への階段を、今度はゆっくりと、自分の足で上っていく。あの夜、泥だらけで這うようにして上った同じ階段が、今はもう恐怖の記憶だけではない、別の意味を帯びて感じられた。
「よう」
すりガラスのドアを開けると、神崎はデスクに向かって、いつも通り煙草をくゆらせていた。脇腹の傷はすっかり癒えたようで、動きにも以前の力強さが戻っている。壁のホワイトボードからは、あの日の相関図がすべて取り払われ、代わりに新しい依頼のメモが貼られていた。彼の日常も、また静かに動き出しているようだった。
「これ、お礼です。この前は、本当にありがとうございました」
菓子折りを差し出すと、神崎は珍しく、少しだけ照れくさそうな顔をした。「別に、俺は自分の目的のために動いただけだ。礼を言われる筋合いはない」
「それでも」
神崎はしばらく私の顔を見つめると、ふっと小さく笑った。「顔つきが変わったな。前に会った時とは、別人みたいだ」
「そうですか?」
「ああ。あの頃のお前は、いつも誰かの顔色を窺うような目をしてた。今は――ちゃんと、自分の足で立ってる目をしてる」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。「何かあったら、いつでも来い」
その素っ気ない優しさに、私は自然と笑みがこぼれた。事務所を後にし、階段を下りていく足取りは、以前よりもずっと軽かった。
春の心地よい風が、街路樹の若葉を揺らしていた。保育園まで美羽を迎えに行く道すがら、私は空を見上げた。抜けるような青空が、どこまでも広がっている。
あの日、あの脅迫状が届いた朝も、こんなふうに晴れ渡った空だった。あの頃の私は、ただ怯えながら、自分の日常が壊れないようにと、必死に息を潜めて生きていた。今はもう違う。何が起きても、自分の足でしっかりと立ち、前に進んでいける。そう思えるだけの強さを、私はあの絶望の底で手に入れたのだ。
保育園の門を出てきた美羽が、私を見つけて満面の笑みで駆け寄ってくる。「ママ!」
その小さな体を抱き上げ、私は娘の待つ、光に満ちた未来へ向かって、自分の足で、しっかりと歩き出した。




