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私の足で歩く朝  作者: 久遠 睦


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第24章:母の爪痕

玲奈の指がポケットに触れた、その刹那。

指先に走った緊張を振り切るように、私はコート越しにスタンガンを押し当て、迷わず放電させた。

「ぎゃっ......!」

短い悲鳴とともに、玲奈の体が弾かれるように痙攣し、拳銃を取り落とす。金属が床に落ちる甲高い音が、倉庫の中に反響した。私はすかさず、体重を乗せて彼女の体を突き飛ばすと、ポケットに隠していた発煙筒の紐を思い切り引いた。シュッという鋭い音とともに、白い煙が瞬く間に噴き出し、倉庫内を満たしていく。

「な――!」

視界を煙に奪われた恵那が、何かを叫んでいるのが聞こえたが、もう聞いている余裕はなかった。煙で息苦しさを覚えながら、私は美羽のいる方向へ、記憶を頼りに突き進んだ。

「美羽、大丈夫、ママよ!」

煙の中から輪郭を頼りに美羽を探り当て、震える手で、口に貼られたガムテープを剥がす。「ンーッ......! ママァ......!」くぐもった悲鳴が、はっきりとした叫びに変わった。結束バンドを、爪が割れるのも構わず必死に引きちぎる。美羽が「ママぁ......!」と声を上げて泣き出すのを、抱きしめてやりたい衝動を必死に抑え、私は椅子の座面に自分の体重をねじ込んだ。圧力センサーの作動を一時的に抑え込むためだった。座面に伝わる緊張感に、指先まで冷たくなる。

「美羽、よく聞いて。ママは今、この椅子から離れられないの。だから、前へ跳んで、外へ走って逃げなさい。振り返らないで、まっすぐ、早く!!」

「やだ、ママも一緒に......!」

「大丈夫だから! お願い、ママを信じて、走って!」

震える娘の背中を、力の限り押し出す。美羽は煙の中を、よちよちと必死に駆け出していった。その小さな後ろ姿が、白い煙の向こうに消えていく。一秒が、まるで一分にも感じられるほど長く引き伸ばされた。安堵の涙が込み上げたが、油断は一瞬たりとも許されなかった。

煙の切れ間から、ナイフを構えた玲奈が、憎悪の形相で襲いかかってきた。折れた腕を庇いながらも、その目には、なおも消えない殺意が燃えていた。座面から手を離せない私は、とっさに左腕を突き出し、その刃を受け止めた。焼けるような鋭い痛みとともに、腕から鮮血が散り、床に赤い点を散らした。

「あなたなんかのために、私たちの人生を壊す価値なんてなかったのに」玲奈が、憎々しげに吐き捨てた。ナイフの切っ先が、次の一撃を狙って揺れる。私は座面に体重をかけたまま、必死に上体をひねって間合いを外した。逃げ場のない椅子の上で、できることはあまりにも限られていた。

「っ......!」

歯を食いしばり、痛みに耐えながらも、私は椅子から離れなかった。もし今、美羽が完全に逃げ切る前に爆発が起きたら――その恐怖だけが、私を椅子に縛りつけていた。

「大人しく死になさいよ!」

玲奈が二撃目のナイフを振り上げた、その瞬間だった。

轟音とともに、正面の鉄扉を突き破って、一台のステーションワゴンが倉庫内へと突入してきた。ヘッドライトが煙を切り裂き、金属の悲鳴のような音とともに、砕けた扉の破片が四方に飛び散る。神崎だった。傷だらけの体で、なんとかハンドルを握ってきたのだろう。フロントガラスには蜘蛛の巣状のひびが走り、助手席側のドアは半分ひしゃげていた。ここまでどれほど無茶な運転をしてきたのか、想像するだけで胸が痛んだ。

運転席から転がるように飛び出した神崎の警棒が、玲奈の腕を容赦なく叩き折った。

「ぎゃあああっ!」

骨の折れる鈍い音とともに、玲奈がナイフを取り落として崩れ落ちる。その隙に、煙の向こうで、恵那が咳き込みながらも起爆スイッチに手をかけるのが見えた。

「――やめて!」

私の叫びと同時に、一発の銃声が倉庫内に轟いた。恵那の肩が撃ち抜かれ、大きくよろめいて木箱に倒れ込む。彼女の手から起爆端末が転がり落ち、コンクリートの床の上を滑っていった。倉庫の入り口から、防弾ベストを着た警視庁の捜査員たちが、次々となだれ込んでくる。先頭を切る男の顔に、見覚えがあった。皆川だった。神崎が繋いだ回線から送られた情報を受け取り、上を説得して部隊を動かしたのは、この男に違いなかった。

「爆発物処理班を早く!! お願い!!」

私は座面から離れられないまま、声を限りに叫んだ。座り込んだ視界の隅で、美羽が捜査員に抱きかかえられ、煙の外へと連れ出されていくのが見えた。その光景を確認して、ようやく私の中に張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ。

だが、まだ終わっていない。椅子の下で、赤いランプが点滅を続けている。腕の傷から流れる血が、座面の端からぽたぽたと滴り落ちていった。痛みはもう、感覚の彼方にあった。ただ、この体重を預け続けることだけが、今の私に許された唯一の役目だった。

「動かないでください! 今、処理班が向かっています!」

拳銃を構えたまま近づいてきた捜査員の一人が、鋭い声で叫んだ。私は小さく頷くことしかできなかった。腕の力は、もう限界に近かった。それでも、座面から尻を浮かせるわけにはいかない。あと少し。あと少しだけ、持ちこたえなければならなかった。


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