第23章:暴かれた動機
銃口を向けられたまま、私は両手を上げ、ゆっくりと歩み寄った。恵那の目には、長年抑え込んできた狂気が、隠すこともなく滲み出ていた。
「あなたが無自覚に振りまいた善意が、私のすべてを奪ったのよ」
恵那の声が、倉庫の暗がりに低く反響した。私はもう、その言葉をただの狂気として聞くことができなかった。彼女が何年もかけて、その言葉を自分の中で真実にしてきたことを知っていたからだ。
「最初は、あなたの口座に流れた金を横領に見せかけて、夫にも社会にも見放されれば、それで終わると思っていた。あなたが、自分には何も残っていないと思うところを見たかった」
「駅前の罠も、そのためだったのね」
「ええ。玲奈にあなたの行動を調べさせ、警察があなたを疑うだけの材料を置いた。全部を説明する必要なんてなかった。疑わせれば十分だったのよ」
「でも、あの鞄まで警察に押収させて、組織は平気だったの?」
玲奈は、抑揚のない声で答えた。「あれは全部、あなたを犯人に見せるための使い捨て。警察が追っても、本体には届かないようにしてあった」
「少し捨てれば、あなたの人生を壊せる。そう思っていたのよ」恵那が静かに言った。
背筋が冷えた。けれど、恐ろしかったのは仕掛けの緻密さではない。そこまでして恵那が奪おうとしていたものが、ようやく分かり始めていた。
私は、あの日の駅の雑踏を思い出した。誰もが自分を見ているように感じ、何が真実なのかさえ分からなくなっていた。恵那が壊そうとしていたのは、私の立場だけではない。私自身が、自分を信じる力だったのだ。
「家に入ったのも、玲奈さん?」
「そうよ」玲奈が答えた。「合鍵は康彦さんに用意させた。家の中まで安全じゃないと思わせる必要があったから」
最後の聖域だと思っていた家まで、最初から内側に通路を作られていた。その事実に寒気がした。けれど以前のように、恐怖だけに呑まれることはなかった。
「でも、私は神崎さんのところへ逃げた」
「それが予定外だった」恵那の声が硬くなった。「あなたは、もっと早く折れるはずだった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに反転した。恵那が憎んでいたのは、私の幸福だけではない。自分の描いた筋書きから私が外れ、自分で選び始めたことなのだ。
「だから美羽を使ったのね。私をもう一度、あなたの言う通りに動かすために」
恵那は答えなかった。その沈黙が、何より雄弁だった。
十年以上かけて私の人生を支配しようとした人間が、今、目の前にいる。けれど私はもう、あの匿名の手紙を受け取った朝の私ではなかった。
「三年前、城島という刑事を殺したのも、あなたたちの仕業なの......?」
問いかけると、恵那は薄く笑った。「その刑事、誠竜会の資金洗浄ルートに近づきすぎたのよ。あなたの口座の存在にも、あと少しで辿り着くところだった。だから、康彦さんと玲奈さんに、消してもらったわ」
その一言が、頭の中で何度も反響した。康彦が――人を殺した。保身のために私を切り捨てた、あの臆病な男が、誰かの命を実際に奪う現場に立ち会っていた。
「......本当なの? 康彦さん」
倉庫の入り口の方角、私が連れてきていない康彦の姿はそこにない。それでも、私は誰へともなく問わずにはいられなかった。頭の中で、これまでの八年間の記憶が、次々と塗り替えられていく。休日に美羽を抱いて笑っていた顔。結婚記念日に少しだけ気恥ずかしそうにプレゼントを渡してきた手。あの手が、誰かの命を奪う手伝いをしていたのだ。
同じ布団で、同じ食卓で、何百回、何千回と隣り合ってきた相手が、実は人殺しだった。その事実の重みに、膝から崩れ落ちそうになる。吐き気と眩暈が同時に襲ってきて、私は倉庫の冷たい空気を、何度も肺の奥まで吸い込んで堪えた。
「驚いた? でも、康彦さんは実行犯じゃないわ」恵那は、私の反応を楽しむように目を細めた。「玲奈さんが車を運転して、城島の車を川へ押し出した。康彦さんの役目は、その夜のアリバイ作りと、事後の証拠隠滅。それだけで、彼は共犯者としての罪を一生背負うことになったの」
「それだけ......? それだけで、人の命を奪う片棒を担いだの」
声が震えた。恐怖のためではなく、抑えきれない怒りのためだった。あの男は、自分のキャリアと保身のために、私の人生を利用しただけでなく、殺人の隠蔽にまで手を貸していた。これまで感じてきたどんな軽蔑よりも、深く、冷たい嫌悪感が胸の底に沈んだ。
もう、あの男に対して抱くべき感情は、何一つ残っていないのだと、はっきりと理解した。
「玲奈さん......あなたは、康彦さんを本当に好きだったの? それとも、最初から全部、仕事だったの」
玲奈は、初めて感情らしきものを瞳に浮かべた。それは苛立ちにも、憐れみにも見えた。「好き嫌いなんて、関係ないわ。恵那さんに『この男に近づけ』と言われたから、近づいただけ」
「なぜ康彦さんだったの」
「見栄っ張りで、会社での評判を何より恐れる小心者。経理に手が届く立場で、脅せばいくらでも従う――それだけの条件が揃っていたからよ。特別な理由なんて、何もない」
あまりにも即物的な言い方に、めまいがした。康彦は、恋愛の相手としてではなく、道具としての適性だけで選び抜かれていたのだ。
「康彦さんは、離婚が成立したら、あなたと一緒に暮らせると思ってる」
その言葉に、玲奈は薄く笑った。「ええ、知ってるわ。何度もそう言われた。『咲良と別れたら、お前と所帯を持つ』って。真に受けて、随分と都合よく動いてくれたわよ」
「じゃあ、その約束は――」
「最初から、守るつもりなんてない。あの人は、最後まで気づかなかったけどね」
その冷酷さに、背筋が凍った。康彦は、私を裏切り、家族を売り渡してまで縋りついた相手からも、道具としてしか見られていなかったのだ。同情する気持ちなど微塵もなかったが、それでも、人間の愚かさと悲しさが、同時に胸を締めつけた。
視界の端で、康彦の顔をした恐怖が過ったが、それも一瞬のことだった。神崎の相棒を奪ったのも、この女たちだったのだ。神崎がこの数年間抱え続けてきた、あの冷めた執念の正体が、今、ようやく腑に落ちた。彼は、恵那にとってただの邪魔者ではなく、私と同じように、この復讐劇に巻き込まれた被害者の一人だったのだ。
「あなたは、何人の人生を壊せば気が済むの」
恵那の表情から笑みが消えた。「気が済むかどうかなんて、もう分からない。ただ、あなたに私と同じ絶望を味わわせるまでは、終われないのよ」
その言葉を聞いて、私は初めて、恵那と自分がまったく別の場所にいるのではないことに気づいた。私も、夫に裏切られ、家を失い、娘を奪われかけた。誰かを憎み、その人間さえいなければと思う気持ちなら、もう知っている。だからこそ分かった。ここから先は、選ぶしかないのだ。傷つけられたことを、自分が誰かを傷つける理由にするのか。それとも、そこで止めるのか。端末のタイマーは、残り三分を切っていた。
「恵那さん」私は彼女をまっすぐ見た。「私も、あなたと同じように、人生を壊されたと思ってる。でも――私は、あなたにはならない」
「……何ですって?」
「私を傷つけた人たちに、この先の私まで決めさせない。あなたにも決めさせない。美羽と生きる。自分で決めて、自分の足で」
恵那の指が、起爆端末の上でわずかに強張った。「なら、その覚悟を見せなさい。あなたが椅子に座って体重を預けた瞬間、タイマーは三十秒に短縮される。娘を逃す時間を、その命で稼ぎなさい」
そして、傍らの玲奈に向かって顎をしゃくった。「身体検査して。武器を持ち込んでいるかもしれない」
拳銃を構えたままの玲奈が、ゆっくりと間合いを詰めてくる。冷ややかな目で私を見据えながら、コートのポケットへと手を伸ばしてきた。私は必死に、平静を装った。心臓は今にも飛び出しそうなほど脈打っていたが、表情にだけは出すまいと、歯を食いしばった。
――康彦を殺人の共犯者にまで仕立てた女。私の家に侵入し、家族の平穏を内側から食い荒らした女。今、この手が届く距離にいる。
その指先が、ポケットの中のスタンガンの感触に触れた、まさにその瞬間だった。




