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戻らない日常  作者: リンダ


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ちょっとした喧嘩

『戻らない日常』


第7話「ちょっとした喧嘩」


 その夜。

 石田家の自室に戻った星羅は、なんとなく落ち着かない気持ちのままベッドに腰を下ろしていた。


 今日一日、ずっと楽しかった。

 加賀家のみんなと歩いて、笑って、写真を撮って、喫茶店で休んで。

 その流れの中で、充はちゃんと「日曜に行く」と言った。


 うれしい。

 でも、うれしいだけじゃない。

 少し緊張して、少し怖くて、なぜか胸の奥がじんわりと騒がしい。


 星羅はスマホを手に取った。

 喫茶店で流れていた曲のことを思い出して、検索窓にタイトルを打ち込む。


 壊れかけのRADIO


 すぐに画面に表示された曲を、ストリーミングで再生する。


 静かなイントロが流れ始めた瞬間、喫茶店の空気がそのまま戻ってきた気がした。

 古い木の椅子。コーヒーの香り。窓の外のやわらかな光。

 今日子が遠くを見るような目で「懐かしいねえ」と言った声まで、一緒に蘇る。


 星羅はイヤホンを耳に入れたまま、ベッドの端に座っていた。

 最初はただ、“いい曲だな”と思っていた。

 でも、歌詞が胸に入ってくるほどに、少しずつ何かが揺れ始める。


 遠い時間。

 戻らない季節。

 もう二度とそのままでは戻ってこないものたち。

 それなのに、たしかに心の中には残っていて、ふとした瞬間にやさしく疼く。


「……だめだ」


 星羅は誰にともなく小さくつぶやいた。


 切ない。

 でも、ただ悲しいのではない。

 優しい。

 優しいのに、どうしようもなく胸が痛い。


 気づけば、目の奥が熱くなっていた。

 ぽろ、と涙がこぼれる。


「え……」


 自分でも驚いた。

 何か辛いことがあったわけじゃない。

 むしろ今日は、楽しくて、あたたかくて、幸せな一日だったはずなのに。


 それなのに、涙が止まらない。


 たぶん、歌が思い出させるのだ。

 今この瞬間も、いつか必ず過去になることを。

 今日笑ったことも、歩いた坂道も、喫茶店の窓の光も、みんな未来から見れば“懐かしい日”になるのだと。


 星羅は、そっと目を閉じた。


 加賀家のみんなの顔が浮かぶ。

 今日子の笑顔。

 龍樹の静かな目。

 幸枝の明るい声。

 一貴の不器用なやさしさ。

 そして、充の、あの少し照れたような、それでもまっすぐな声。


『中途半端なつもりじゃないから』


 その一言が、胸の奥にまたやさしく刺さる。


「……ずるい」


 星羅は泣き笑いみたいな顔でつぶやく。

 そんなふうに言われたら、うれしくないはずがない。

 なのに、うれしすぎる時ほど、人は少し泣きたくなるのかもしれなかった。



1 石田家の夜


 しばらくして、部屋のドアがこん、と軽く鳴る。


「星羅? 起きとる?」

 母・夏菜子の声だった。


「うん」


 星羅が返事をすると、ドアが少しだけ開く。

 夏菜子は顔をのぞかせて、娘の目元を見てすぐに気づいた。


「あら」

「……」

「泣いとった?」

「ちょっとだけ」

「どうしたん?」

「曲聴いとったら、なんか、急に」


 夏菜子は「そう」と言って、無理に深くは聞かなかった。

 それが母親らしいやさしさだった。


「いい曲って、そういうことあるよね」

「うん」

「昔のこと思い出した?」

「昔っていうか……今が、いつか懐かしくなるんかなって思ったら、なんか」

「……ああ」


 夏菜子は静かにうなずいた。


「なるよ」

「え?」

「今の星羅も、今の悩みも、今の嬉しさも、全部いつか懐かしくなる」

「それって、ちょっと寂しい」

「寂しいけど、悪いことじゃないよ」

 夏菜子はやわらかく笑った。

「ちゃんと大事に生きとる証拠じゃけぇ」


 星羅は、少しだけ肩の力が抜けた気がした。



2 充との電話


 そのあと、星羅は少し迷ってから、充に電話をかけた。


『もしもし』

 いつもの落ち着いた声が出る。


「……起きとった?」

『起きとるよ。どうしたん』

「いや……なんでもないって言ったら嘘なんじゃけど」

『何』

「喫茶店で流れとった曲、聴き返しとった」

『ああ』

「そしたら、なんか泣けてきて」

『……』

「変じゃない?」

『変じゃない』


 返事が即答で、星羅は少しだけ笑った。


「そう?」

『うん』

「今日子さんが言いよったこと、分かった気がして」

『懐かしいってやつ?』

「うん」

『母さん、ああいうの時々妙に刺さること言うけぇな』

「分かる」


 少し間があく。

 でも、静かなその間が嫌じゃない。


「ねえ、充くん」

『ん?』

「日曜、緊張する?」

『……ちょっと』

「ちょっとなんじゃ」

『だいぶ、かも』

「ふふ」

『笑うな』

「だって、なんか安心した」

『何が』

「私だけじゃないんじゃなって」

『そりゃそうじゃろ』


 星羅は少しだけ沈黙して、それからぽつりと言った。


「今日ね」

『うん』

「すごく幸せだったんよ」

『うん』

「みんなで歩いて、笑って、写真撮って。なんでもないのに、すごく幸せだった」

『……うん』

「そういう日がちゃんとあるって、いいね」

『いいな』


 その短い相槌の中に、充の本音がちゃんとあった。


「ありがと」

 星羅が言う。


『何が』

「今日、一緒におってくれて」

『当たり前じゃろ』

「うん」

『日曜も行くし』

「うん」

『その先も、ちゃんと考えとる』

「……うん」


 また、星羅の目に涙がにじむ。

 でも今度の涙は、さっきより少しだけやさしかった。



3 ほんの少しのすれ違い


 翌日。

 星羅は観光協会で少し忙しい一日を過ごしていた。

 日曜のことも頭にある。仕事も立て込む。そんな中で、充から短いメッセージが来た。


《日曜、14時ごろで大丈夫そう》


 それだけ。

 いつもの充なら普通だ。

 でも昨日の夜の余韻をまだ引きずっていた星羅には、その短さが少しだけ引っかかった。


「……短」


 思わず口に出る。


 本当は仕事中なのだから、連絡が簡潔なのは当然だ。

 分かっている。

 でも、もう少し何か、気持ちのある一言があってもいいのに、と思ってしまう。


 その夜、会った時も、充はどこか忙しそうで、少し余裕がなかった。


「ごめん、今日ちょっと立て込んどって」

「うん、分かっとる」

「日曜のことも、父さん母さんに失礼ないように整理しときたくて」

「……うん」


 分かっている。

 分かっているのに、星羅の返事は少しだけ固くなる。


「何」

 充が気づく。

「別に」

「別に、じゃないじゃろ」

「別にってば」


 少し空気がこわばる。


「またそうやって、“別に”で閉じる」

 充が言う。

「充くんだって、言葉足りん」

 星羅が返す。

「仕事忙しいのは分かるけど、なんか今日ずっと事務連絡みたいじゃった」

「……」

「昨日あんな話したあとじゃけぇ、余計にそう感じたんかもしれんけど」

「それは、ごめん」

「……」

「でも、雑にしたつもりじゃない」

「分かっとる」

「なら」

「分かっとるけど、ちょっとさみしかったんよ」


 その一言で、充は黙った。

 そして数秒後、観念したみたいに息を吐く。


「……それ、先に言えん?」

「今言った」

「“別に”の前に」

「それは、まあ……」

「俺も分かりにくいけど、お前も大概分かりにくい」

「お互いさまじゃん」

「それはそう」


 少しだけ空気がゆるむ。

 星羅も、充も、同時に少し笑った。


「ごめん」

 今度は星羅が言う。

「私も、ちょっと感情先走っとった」

「俺も、言葉足りんかった」

「うん」

「日曜のこと、緊張しすぎて余裕なかった」

「……そういうの、ちゃんと言って」

「努力する」

「“努力する”じゃなくて」

「善処します」

「公務員みたいな返しやめて」

「公務員じゃけぇ」


 そこで、星羅が吹き出した。

 もうだめだった。

 真面目な顔を保てない。


「充くん、ほんまそういうとこよ」

「何」

「腹立つけど、安心する」

「意味分からん」

「分からんでええ」


 ふたりは結局、ちゃんと仲直りした。

 大きな喧嘩ではない。

 でも、こういう小さなすれ違いがあるからこそ、関係は本物になっていくのかもしれなかった。



4 何でもない喧嘩、何でもない夜


 その夜、星羅はもう一度だけ「壊れかけのRADIO」を流した。

 今度は泣かなかった。

 でもやっぱり、胸の奥は少しだけきゅっとした。


 切なくて、やさしい歌だった。

 人の時間が、どれほどかけがえのないものでできているかを、静かに教えてくるような歌だった。


 窓の外には、尾道の夜の気配。

 家の中には家族の声。

 スマホには、充からさっき届いた短いメッセージ。


《今日はごめん。日曜、ちゃんと行く》


 やっぱり短い。

 でもその短さの中に、充らしい誠実さがあるのを、星羅はもう知っていた。


「……うん」


 小さくつぶやいて、画面をそっと閉じる。


 何でもない喧嘩をして、何でもない言葉で仲直りして、何でもない夜が更けていく。

 でも、そういう一つひとつが、あとから思えばきっと、人生そのものなのだろう。

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