なんでもない休日 後編
商店街を歩き回って少し足が疲れたころ、六人は海の見える小さな喫茶店に入った。
古い木のテーブル、少し色あせたメニュー表、窓際に置かれた小さな観葉植物。観光客も地元の人も気負わず入れる、尾道らしい落ち着いた店だった。
「はぁー、生き返る」
幸枝が椅子に腰を下ろして言う。
「まだそんな歩いてないじゃろ」
充がすぐ返す。
「坂があるけぇ、普通の“歩く”とは違うんよ」
「それはそう」
星羅がすぐ味方をする。
「尾道の坂は、見た目より地味に脚に来る」
「観光協会公認なん?」
一貴が言うと、星羅が笑った。
「公認です」
今日子はアイスコーヒー、龍樹はブレンド、充はホット、星羅はレモンソーダ、幸枝はプリンセット、一貴はアイスティー。
それぞれの注文が運ばれてきて、ようやく一息ついた時だった。
店のスピーカーから、やわらかなイントロが流れ始めた。
「あ……」
今日子がふと顔を上げる。
聞き覚えのある、少しかすれたような、それでいてまっすぐ胸に入ってくる声。
徳永英明の「壊れかけのRADIO」だった。
窓の外には、午後のやわらかい光。
店の中にはコーヒーの香り。
その空気の中で流れるその曲は、妙に人の記憶を静かに揺らした。
「懐かしい……」
今日子がぽつりと言った。
幸枝が顔を上げる。
「お母さん、この曲好きなん?」
「好きというかねえ……」
今日子は少し遠くを見るように笑った。
「思春期の頃の懐かしい思い出も、何もかも優しいね、って思うんよ」
その言い方に、星羅がやわらかく反応する。
「分かる気がします。昔の曲って、その頃の空気まで一緒に戻ってくる感じありますよね」
「そうなんよ」
今日子はうなずく。
「遠い夏祭りの夜とかね。浴衣着て、ちょっと背伸びして出かけた感じとか。友達と笑いながら帰った帰り道とか」
「うわ、なんかええな」
幸枝が言う。
「ええんよ。もう二度と戻ることのない青春時代の、甘酸っぱい思い出もね」
今日子は少し笑いながら続けた。
「遠く離れた故郷の景色も、あの頃の空気も、何もかもみんな懐かしい」
龍樹はコーヒーカップを持ったまま、今日子の横顔を見ていた。
「母さんにも、そういう時代があったんじゃな」
充が言う。
「失礼じゃね」
今日子がすぐ返す。
「今でもあるわ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「でも分かるよ」
星羅がくすっと笑う。
「今日子さんって、今でもなんか青春の空気あるもん」
「それ褒めとる?」
「褒めてます」
「なら受け取っとく」
幸枝はプリンをひと口食べながら、母の顔を見つめていた。
「お母さんにも、夏祭りとか、そういう思い出いっぱいあるん?」
「あるよ」
「お父さんと出会う前?」
その一言で、今日子が「そりゃそうじゃ」と笑い、龍樹が少しだけ咳払いした。
「なんでそこで父さんが照れるん」
充が言う。
「照れてない」
「今ちょっと照れたじゃん」
幸枝が乗っかる。
「照れてない言うとる」
「怪しい」
「怪しいね」
星羅まで笑う。
今日子は、そんな家族のやりとりを見ながら、また少しだけ目を細めた。
「でもね」
静かに言う。
「昔のことって、当時はただ必死に生きとるだけなんよ。学校行って、友達と笑って、ちょっと悩んで、ちょっと背伸びして」
「うん」
幸枝がうなずく。
「でも、あとになって振り返ると、全部がやさしく見えるんよね。不思議なことに」
「……そういうもんか」
一貴がぽつりと言った。
今日子は、その言葉にやわらかくうなずく。
「そういうもんよ。しんどかったことも、恥ずかしかったことも、泣いたことも、あとになったら全部ひっくるめて懐かしい、になることがある」
「なんか、ちょっと分かる気がする」
星羅が窓の外を見ながら言った。
「今こうしてる時間も、何年かしたらそんなふうに思い出すんかな」
「思い出すじゃろ」
龍樹が短く答える。
「こういう何でもない日が、いちばん残る」
その言葉に、みんな少しだけ黙った。
何でもない休日。
坂を歩いて、写真を撮って、喫茶店で休んで、懐かしい曲を聴く。
その程度の一日だ。
けれど、その“その程度”の時間こそが、あとになって胸の奥に残るのかもしれなかった。
「うちもさ」
幸枝がふいに言う。
「おばあちゃんになった時、今日みたいな日思い出して、“あの時楽しかったなあ”って言うんかな」
「言うじゃろ」
今日子が笑う。
「その頃には、また寝ぐせの話されとるかもしれんけど」
「なんでそこ戻るん!」
「だって強いもん、あの話」
一貴がぼそっと言う。
「一貴まで!?」
「海のシフォンと寝ぐせ鳥の巣、どっちも強い」
充が真顔で言って、星羅が吹き出す。
「ちょっと、その二大やめて!」
幸枝が本気で抗議し、店の中にまた笑いが広がった。
その笑い声の上を、曲は静かに流れていく。
優しく、少し切なく、でもどこかあたたかく。
今日子はカップを両手で包みながら、もう一度だけ小さくつぶやいた。
「懐かしいねえ……」
それは昔を惜しむ声でもあり、
今この瞬間がいつか懐かしいものになると、どこかで分かっている声でもあった。
『戻らない日常』
第6話・終盤
「夕方の尾道水道」
喫茶店を出ると、外の光はもう夕方の色に変わり始めていた。
海の上に薄く橙が落ちて、尾道水道の水面がゆっくり揺れている。
店を出た六人はまた少し歩き出したが、雑貨屋の前で今日子と幸枝が立ち止まり、龍樹と一貴もその流れで少し先へ行った。
「ちょっと見てくるー!」
幸枝が手を振る。
「すぐ戻れよ」
充が言う。
「はいはい、保護者みたいなこと言わんの」
星羅が笑った。
結果として、充と星羅だけが、ほんの少し海辺の手すりの近くに残る形になった。
風がやわらかく吹いている。
観光船の小さな音が遠くで聞こえた。
「静かじゃね」
星羅が言う。
「さっきまで騒がしかったけぇな」
充が答える。
「でも、こういうの好き」
星羅は水面を見つめたまま言った。
「みんなでわいわいしとって、ちょっとだけ二人になる感じ」
充は隣で黙っていた。
その沈黙は気まずくない。
星羅は、充のこういう無理に言葉を足さないところも好きだった。
「今日」
星羅がふと笑う。
「充くん、ちょっとやわらかかったね」
「なにが」
「全部」
「ざっくりしとるな」
「だって今日、ちゃんと楽しそうじゃったもん」
「……楽しかったよ」
「うん」
「お前も」
「うん、めっちゃ」
夕方の光が、星羅の横顔を少しだけやさしく見せる。
充はその横顔を見て、やっぱりちゃんと言わなきゃな、と思った。
「星羅」
「ん?」
「今度の日曜」
「……うん」
「ちゃんと行くけぇ」
「うん」
「中途半端なつもりじゃないから」
星羅は少しだけ目を見開いて、それから、ふっと笑った。
でもその笑顔の奥が、少し震えているようにも見えた。
「分かっとるよ」
「……ならええ」
「でもさ」
「ん?」
「そういうの、もっと早う言ってくれてもええんよ」
「言っとるつもりじゃった」
「足りん」
「厳しいな」
「好きな人には厳しいんですー」
「なんだそれ」
充が少し困ったように笑う。
星羅はその顔を見て、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
「でもね」
星羅が言う。
「充くんがそうやって、ちゃんと考えて、ちゃんと決めて言ってくれるの、好きなんよ」
「……」
「軽く言わんとこも、勢いだけじゃないとこも」
「それ、重いだけじゃなくて?」
「そこを重いって思わん人が相手なんじゃろ、私は」
充は返事の代わりに、小さく息を吐いた。
照れている時の癖だと、星羅はもう知っている。
「何年かしたら」
星羅が尾道水道を見ながら言う。
「今日みたいな日、思い出すんかな」
「思い出すじゃろ」
充が答える。
「なんでもない日ほど、あとで残る」
それはさっき龍樹が言った言葉に少し似ていた。
やっぱり親子なのだと、星羅は思って、少しだけ笑った。
「じゃあ、ちゃんと覚えとこ」
「何を」
「今日の風とか、光とか、充くんがちょっと素直だったこととか」
「最後いらん」
「いる」
そのとき、向こうから幸枝の声が飛んできた。
「おーい! 二人だけでいい感じの空気出さんでー!」
「幸枝!」
星羅が思わず笑う。
「もう写真撮る準備できとるけぇ、はよ来てー!」
「行こっか」
星羅が言う。
「……うん」
並んで歩き出すふたりの背中を、夕方の尾道の光が静かに包んでいた。




