何でもない休日
『戻らない日常』
第6話「何でもない休日」
休日の尾道は、観光地らしい顔と、地元の町らしい顔を、同時に見せる。
商店街には観光客の笑い声が流れ、坂の途中には洗濯物が揺れ、猫が気まぐれに道の真ん中を横切る。
海の匂いがして、風は少しやさしい。
そんな日の朝、加賀家の玄関先はいつも以上ににぎやかだった。
「お待たせー!」
幸枝が靴を履きながら声を上げる。
「お前が一番最後じゃ」
充が腕時計を見ながら言う。
「いや、うちちゃんと時間内!」
「ぎりぎりは時間内でも落ち着かん」
「はい出た、充お兄ちゃんの“正論だけど若干うるさい”やつ」
「分類するな」
星羅がそこで吹き出す。
「その分類、めっちゃ分かる」
「星羅さんまで!」
「だってほんとなんじゃもん」
一貴はその横で、少しだけ笑っていた。
今日のメンバーは、加賀家の四人に、星羅、一貴。
家族ぐるみというには少し照れくさいが、もうほとんどそれに近い。
今日子が玄関の戸を閉めながら言った。
「じゃ、まずは商店街のほうから行こうか」
「お父さん、今日は道案内せんでええよ」
幸枝が言う。
「観光協会の星羅さんおるけぇ、今日の尾道ガイドは最強じゃろ」
「任せてください」
星羅が胸を張る。
「ただし、途中で雑貨屋と甘いもの休憩は強制です」
「それガイドじゃなくて私情入っとる」
充がすぐ言う。
「ええじゃん。尾道の魅力ってそういう寄り道込みじゃし」
「それは……まあ、そうかもしれん」
「お兄ちゃん、星羅さん相手だと折れるの早」
「黙っとけ」
そんな調子で、一行は坂を下り始めた。
⸻
1 尾道の坂道
千光寺のふもとへ続く細い道は、歩くだけで会話が増える。
ちょっとした段差。急な坂。石垣の上からのぞく緑。家の隙間から見える尾道水道。
「ほんま、尾道って歩く町よね」
星羅が言う。
「車でも回れるけど、歩いたほうが絶対ええ」
「分かる」
幸枝がすぐうなずく。
「空気の匂いとか、坂のしんどさとか、そういうの込みで尾道って感じ」
「観光協会っぽいコメントし始めた」
充がぼそっと言う。
「いやいや、今のは幸枝の感想!」
「でも星羅さんの影響は入っとる」
「そういう充くんも最近ちょっと尾道説明うまくなったよね」
「え?」
「この前、私が観光パンフ持っとったら“この寺は石段からの景色がええ”とか普通に言いよった」
「それくらい言うじゃろ」
「ほら、もう染まっとる」
幸枝が笑う。
「星羅様色に」
「“様”つけるなって」
星羅が笑って肩を軽く叩く。
龍樹はそんな若い四人を少し後ろから見ながら、口元を緩めていた。
今日子は今日子で、観光客に紛れて写真を撮る幸枝の姿を見て、小さく笑っている。
「ええねえ」
今日子が言う。
「みんな楽しそうで」
「そうじゃな」
龍樹が短く答える。
⸻
2 商店街での寄り道
尾道本通り商店街に入ると、一気に町の音が増えた。
観光客の話し声、店先の呼び込み、食べ歩きの匂い。
古い店と新しい店が混ざっていて、その雑多さがかえって心地いい。
「ちょっと見て、これかわいくない!?」
幸枝が雑貨屋の前で足を止める。
「どれ?」
星羅がすぐ横に並ぶ。
「この猫のしおり!」
「あー、尾道っぽい」
「しかも、なんかふてぶてしい顔しとるのがええ」
「ほんまじゃ」
もうその時点で、ふたりだけの世界ができている。
一貴がその様子を見て言った。
「やっぱ姉妹みたいだな」
「今さら?」
幸枝が振り返る。
「うちら、買い物始まったら止まらんよ」
「それは見てて分かる」
「一貴くん、もう慣れた?」
星羅が笑う。
「まあ、だいぶ」
「“だいぶ”ってまだ完全には慣れてないやつじゃん」
幸枝がにやにやする。
「いや、慣れた」
「今ちょっと間があった」
「気のせい」
「気のせいじゃないね」
充が横から入る。
「こいつ、考えてから言う時はだいたい本音隠しとる」
「お兄ちゃん、なんで分かるん」
「付き合い長いけぇ」
「そこは彼氏より兄が先に見抜くんだ」
星羅が言って、みんなで笑った。
商店街の途中で、今日子が揚げたてのコロッケを買い、龍樹が「一個でええ」と言いながら幸枝に半分取られ、充が「歩きながら食べるな」と注意して、結局自分も一口もらっていた。
「これも写真撮ろう!」
幸枝がスマホを向ける。
「何を」
充が嫌そうに言う。
「お兄ちゃんがコロッケ取られて微妙な顔しとるとこ」
「いらんわ」
「いるいる。絶対あとで見返して笑える」
「そういうくだらん写真、だいたい後で宝物になるんよ」
星羅が言う。
「それ、なんか分かるな」
一貴が珍しくすぐに返した。
幸枝はぱっと一貴を見る。
「でしょ?」
「うん」
「今の、いいこと言った感じ出しとるけど、たぶん自分でもちょっと照れとる」
「うるさい」
「やっぱり」
「幸枝」
「はいはい」
そんなやり取りの最中、今日子がすっとスマホを構えた。
「はい、みんなそのまま」
「え?」
「今の自然な感じ、撮るけぇ」
ぱしゃ、と音がする。
撮れた写真には、充が少し嫌そうな顔をしつつ笑っていて、星羅がその横で楽しそうにしていて、幸枝は一貴の方を見て笑っていて、一貴も少しだけ口元を緩めていた。
龍樹と今日子は少し後ろから、それを見守るように立っている。
「めっちゃええじゃん!」
幸枝がすぐ覗き込む。
「これ送って!」
「後で家族グループに入れるよ」
今日子が言う。
「家族グループに俺入っとらんけど」
一貴がぼそっと言う。
「そのうち入るじゃろ」
幸枝が何気なく言った。
一貴はその一言に少しだけ黙った。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥が少しあたたかくなった。
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3 海辺での写真
商店街を抜けて、海辺のほうへ出る。
尾道水道を渡る風は心地よく、陽の光が水面にきらきら反射していた。
「ここ、やっぱりええねえ」
星羅が言う。
「尾道って感じする」
「観光協会の人が言うと説得力ある」
充が言う。
「でしょ」
「でもほんまに、好きなんよね」
星羅は海を見ながら少し真面目な声になる。
「ずっとこの町で働けるの、ありがたいなって思う」
「星羅さん、そういうとこほんまええよね」
幸枝が言う。
「町のこと本気で好きなの伝わる」
「幸枝もじゃろ。ケーキの話になると同じ顔しとる」
「え、どんな顔?」
「すごい好きなものの話しとる顔」
「それは……うれしい」
その横で、一貴は海を見ながらぼんやり考えていた。
幸枝とこうして並んでいる時間は、もうずいぶん自然になっている。
でも自然なのに、ちゃんと特別だ。
そこが不思議だった。
「一貴、写真撮ろうや」
幸枝が急に腕を引っ張る。
「え、俺?」
「なにその嫌そうな声」
「嫌じゃないけど」
「けど?」
「顔作るの苦手」
「作らんでええって。普通でええ」
結局、海を背景にふたりで並ぶ。
幸枝はにこにこしている。
一貴はちょっとぎこちない。
「硬い硬い!」
幸枝が笑う。
「もうちょい自然に!」
「無茶言うな」
「じゃあ、うちの方見て」
「ん?」
「ほら、その顔のほうがいい」
その瞬間、ぱしゃっと今日子が撮る。
撮れた写真には、一貴が幸枝を見る少しやわらかい表情と、嬉しそうに笑う幸枝がいた。
「うわ、これめっちゃええ!」
幸枝が声を上げる。
「ほんまじゃ」
今日子も笑う。
「なんか、ちゃんと恋人って感じ」
星羅が言う。
「ちゃんと恋人ですけど」
幸枝が言って、みんなが笑う。
一方、充と星羅も撮ることになった。
「充くん、もっとこっち寄って」
「寄っとる」
「寄ってない」
「これ以上寄ったら肩当たる」
「当たればええじゃろ」
「写真でそこまでせんでええ」
「そういうとこ!」
結局、星羅が充の腕をぐいっと引いた瞬間に撮られた。
充は少し驚いた顔、星羅はいたずらっぽい笑顔。
妙にそのふたりらしい写真だった。
「これもええね」
龍樹が珍しく言う。
「充、ちょっと間抜けな顔しとるけど」
「父さん!?」
「でも星羅ちゃんはええ顔しとる」
今日子が続ける。
「なんで俺だけ」
「日頃の行いやね」
幸枝が即答する。
「理不尽」
海辺には、ずっと笑い声が流れていた。
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4 それぞれの将来が見える瞬間
帰り道、坂をゆっくり上りながら、会話は少しだけ先の話になった。
「充くんと星羅さん、結婚したらどこ住むん?」
幸枝が聞く。
「まだちゃんとは決めとらんけど」
充が答える。
「お互い尾道で仕事しとるし、極端には離れんと思う」
「尾道のどこがええかなあ」
星羅が楽しそうに言う。
「坂の上も好きなんよね。景色きれいじゃし」
「でも買い物ちょっと大変じゃろ」
充が現実的に返す。
「出た、そこ」
「大事なとこじゃ」
「でもそういうの考えとる時点で、もう新婚さんじゃん」
幸枝がにやにやする。
「うるさい」
「否定せん」
「否定してもどうせ言うじゃろ」
「それはそう」
少し後ろでは、一貴と幸枝が並んで歩いていた。
「幸枝は?」
一貴が聞く。
「何が」
「店持つなら、どういう店がええん」
「えー……小さくていいんよ。あんまり気取ってないけど、入ったらちょっと幸せになる感じの」
「うん」
「ケーキだけじゃなくて、焼き菓子も置いて、季節ごとに新作あって」
「うん」
「で、近くに一貴の整備工場」
「だから俺は工場勤務」
「でも近くがええ」
「……うん」
「やっぱり?」
「やっぱり」
幸枝は少し照れながら笑った。
一貴は視線を前に向けたまま、でも口元だけ少しやわらかかった。
そのやり取りを、少し前から歩いていた今日子が聞いてしまって、こっそり龍樹の腕をつつく。
「聞いた?」
「聞こえた」
「もう完全に将来の話しとる」
「そうじゃな」
「……ええね」
「ええな」
それだけの会話だった。
でも親としては、それで十分だった。
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5 石田家
その日の夕方、星羅は実家へ顔を出していた。
石田家は尾道市内の住宅街にある、落ち着いた雰囲気の家だった。
「ただいまー」
玄関を開けると、母・夏菜子の明るい声が返ってくる。
「おかえり、星羅」
父・道隆も居間から顔を出した。
「今日は遅かったな」
「ちょっとみんなで出かけとったんよ」
その“みんな”の中身を聞く前に、別の声が続く。
「星羅ちゃん、おかえり」
兄・雄介の恋人、山田詩織が台所から現れた。
やわらかく上品な雰囲気のある女性で、石田家にはもうずいぶん自然に馴染んでいる。雄介との結婚も近く、家族の間でもほとんど“身内”のような扱いだった。
「ただいま、詩織さん」
星羅が笑う。
「また来とったん?」
「うん、お義母さんと夕飯の準備しよった」
「まだ義じゃないよ」
夏菜子が笑う。
「でももうそういう気分になっとる」
雄介も奥から出てくる。
「今日、加賀家のみんなと?」
「そうそう。一貴くんも一緒に、みんなで尾道ぶらぶらしてきた」
「楽しそうじゃん」
詩織が言う。
「めっちゃ楽しかったよ。幸枝と写真いっぱい撮った」
「幸枝ちゃん、ほんまかわいいよね」
夏菜子が言う。
「前この家来た時も、変に遠慮せんで話してくれて、感じよかったわあ」
「うん、詩織さんともすぐ仲良くなりそう」
星羅が言う。
「なりたいなあ。私、幸枝ちゃんとお菓子の話もっとしたい」
詩織が笑う。
石田家にも、未来へ向かう空気がちゃんと流れていた。
兄の結婚話が現実になり、娘の恋人の存在も自然に受け止められている。
そんな家だった。
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6 大事な話
その時、星羅のスマホが鳴った。
画面を見ると、充からだった。
「充くん?」
星羅は少しだけ姿勢を正して電話に出る。
「もしもし?」
受話口の向こうの充は、いつも通り少し落ち着いた声だった。
『今、家?』
「うん、実家」
『そっか』
一瞬だけ間がある。
星羅は、その沈黙で少し察した。
「どうしたん?」
『……今度の日曜日、石田家に行こうと思う』
「え」
『大事な話をしにいくから』
星羅は、言葉を失った。
たぶん意味は分かっている。
でも、ちゃんと耳にすると、急に胸がいっぱいになる。
「……うん」
やっとそれだけ返す。
『急に言ってごめん』
「ううん」
『ちゃんと話そうと思って』
「……うん。ありがとう」
その声が少し震えていた。
充はそれに気づいたのか、少しだけやわらかい声になる。
『大丈夫?』
「大丈夫じゃないかも」
『なんで』
「びっくりしとる」
『そりゃそうか』
「でも、うれしい」
『……ならよかった』
短い。
相変わらず、長い甘い言葉なんてない。
でも星羅には、それで十分伝わった。
「待っとるね」
『うん』
「日曜」
『うん』
電話が切れたあとも、星羅はしばらくスマホを見つめていた。
「……どうしたの?」
夏菜子が聞く。
星羅はゆっくり顔を上げて、少し照れたように笑う。
「充くんが」
「うん」
「今度の日曜日、うちに大事な話しに来るって」
一瞬の静寂のあと、石田家の空気がふわっと明るくなる。
「えっ、それって……!」
詩織が目を輝かせる。
「ついに?」
雄介も笑う。
「まあまあ、まだ本人が言う前よ」
道隆は落ち着いた声ながら、どこか嬉しそうだ。
「でも……そうか」
夏菜子はじんわりと笑った。
「そういう日が来たんじゃねえ」
星羅は、嬉しいような、恥ずかしいような、落ち着かない気持ちで笑う。
「……なんか、急に緊張してきた」
「日曜までずっとそわそわするやつじゃん」
雄介が言う。
「絶対する」
「じゃあ今日はもう、お祝い前祝いでちょっといいお茶淹れようか」
詩織が言って、夏菜子も笑った。
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7 何でもない休日の光
加賀家のみんなで歩いた尾道の坂。
商店街の雑貨屋。
海辺で撮ったくだらない写真。
恋人たちの何気ない会話。
親たちの静かなまなざし。
そして、次の段階へ進もうとする電話。
何でもない休日だった。
けれど、その中にはちゃんと未来が入っていた。
誰かと歩く道。
誰かと笑う写真。
誰かの家に向かう覚悟。
そういう一つひとつが、確かに明日へつながっていた。
この日みんなが見ていたのは、壊れるはずのない日常の続きだった。
少なくとも、その時は、誰ひとり疑っていなかった。




