母の台所、父の背中
第5話「母の台所、父の背中」
夕方の加賀家には、独特の落ち着きがあった。
朝のような慌ただしさではなく、一日の終わりをゆっくり包みこむような空気だ。
台所では、今日子が包丁を動かしている。
まな板の上で、ねぎが小気味よく刻まれる音。
鍋から上がる湯気。
味噌の匂い、だしの香り、焼き魚の皮がぱちっと鳴る音。
その背中を、龍樹は食卓の椅子に腰かけて眺めていた。
仕事帰りの疲れを全部脱ぎきったわけではないが、この台所の匂いを吸うと、ようやく一日が終わる気がした。
「今日は何じゃ」
「鯖の塩焼きと、肉じゃがの残りちょっとと、あとほうれん草のおひたし」
今日子は手を止めずに答える。
「十分じゃ」
「十分じゃなくて、普通」
「普通が一番ええんよ」
今日子は少し笑った。
「お父さん、その台詞ほんま好きよね」
「ほんまじゃろ」
「でも、子どもらにはたまには豪華なんも食べさせてやりたいじゃない」
「今でも十分豪華じゃ」
「それはあんたが大したこだわりないだけ」
「そうかもしれん」
そんな何気ない会話が、鍋の音の合間に流れていく。
結婚して何十年も経っても、この夫婦の会話は気負いがない。
べったりしているわけではない。
けれど、言葉の端々に長い時間の積み重ねがある。
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1 母の台所
今日子は、子どもたちが小さいころから、台所で家族を見てきた。
朝、寝ぐせ頭で降りてくる幸枝。
学校の支度をしながら不機嫌そうな充。
仕事の話をあまり口にしない龍樹。
みんなの機嫌も、疲れ具合も、最近の悩みも、台所に立っていればなんとなく分かる。
鍋をかき混ぜながら、今日子はふと思った。
最近、子どもたちはよく笑う。
充は星羅の話になると隠しきれない顔をするし、幸枝は一貴の前では少しだけ声が弾む。
それが母親には、ちゃんと見えている。
「なあ、お父さん」
「ん?」
「うちの子ら、ちゃんと大人になってきとるね」
今日子がぽつりと言った。
龍樹は少し考えてから、ゆっくりうなずく。
「そうじゃな」
「ついこの前まで、充なんてランドセル投げて帰ってきよったのに」
「幸枝は泣きながら、兄ちゃんが宿題教えてくれん言うてな」
「そうそう。なのに今じゃ、結婚だの将来だのって話が出る年よ」
「早いな」
「ほんまに」
今日子は包丁を置いて、少しだけ遠くを見るような顔をした。
「うれしいんよ。うれしいんじゃけど」
「うん」
「なんか、ちょっと寂しいね」
「……ああ」
「親って勝手よねえ。ちゃんと育ってほしい思うくせに、育ったら育ったで寂しいんじゃもん」
「勝手いうより、普通なんじゃろ」
今日子は、龍樹のそういう言い方が好きだった。
大きなことは言わない。
でも、余計な飾りがないぶん、すっと胸に入る。
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2 父の背中
龍樹は、家ではあまり多くを語らない。
仕事のことも、愚痴も、自分から進んで話すことは少ない。
けれど子どもたちは、小さい頃からその背中を見て育ってきた。
朝早く家を出て、海沿いの造船所へ向かう背中。
帰ってくれば黙って風呂に入り、食卓では家族の話を聞いている背中。
困ったことがあれば表立って騒がず、でも気づけばちゃんと手を打っている背中。
派手な父親ではない。
だが、家の柱のような人だった。
「充は、わしより母さんに似とる」
龍樹が急に言った。
「え、そう?」
「真面目で、細かくて、でも根っこは世話焼き」
「後半はまあ、そうかも」
「幸枝は……」
「お父さんに似とる?」
「いや、お前じゃろ」
「えー?」
「明るいし、よう喋るし」
「そこだけ取ると私、だいぶ騒がしい人みたいじゃね」
「実際そうじゃろ」
「失礼な」
今日子が笑う。
龍樹も、ごく薄く笑った。
「でも、ええ子らに育った」
「うん」
「それで十分じゃ」
今日子は、その「十分」にいろんな思いが入っているのを分かっていた。
龍樹は不器用だが、子どもたちのことを本当に誇りに思っている。
それが、毎日の何気ない目線や一言に出ている。
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3 充の報告
その夜、家族がそろって夕食を食べ終えたあとだった。
食卓に湯飲みが置かれ、今日子が後片づけを始めようとした時、充が妙に静かな声で言った。
「ちょっとええ?」
その言い方に、今日子は手を止めた。
龍樹も、新聞を取ろうとしていた手を止める。
幸枝は「あ、なんか改まっとる」とすぐ表情を変えた。
「なに、お兄ちゃん」
幸枝が言う。
充は一度だけ息を吸って、それからまっすぐ両親を見た。
「俺、星羅と結婚しようと思う」
一瞬、家の中の時間が止まったようだった。
「……え?」
幸枝が最初に声を出す。
「ほんまに?」
今日子の目が丸くなる。
龍樹は黙ったまま、充の顔をじっと見ていた。
「まだ正式に日取りとか決めたわけじゃないけど」
充は少しだけ照れたように言う。
「でも、ちゃんと話して、進めようと思う」
今日子の目に、じわっと涙が浮いた。
「……そう」
声が少し震える。
「そうなんじゃね」
「泣くほど?」
充が少し困ったように言う。
「泣くよ、そりゃあ!」
今日子は笑いながら涙をぬぐった。
「だって、あんたが……あの充が……」
「“あの充”ってなん」
幸枝が笑いながら口をはさむ。
「いや、でも分かる。お兄ちゃん、そういうの一番最後まで言わんタイプかと思っとった」
「俺をなんだと思っとるん」
「生真面目すぎてタイミング逃す男」
「だいたい合っとる」
龍樹がぼそっと言って、幸枝が吹き出した。
「父さん!」
「いや、でも、ちゃんと決めたんじゃろ」
龍樹は静かに言った。
「ならええ」
短い言葉だった。
でも、その声には、父親としての大きな信頼があった。
充は少しだけ背筋を伸ばして、うなずいた。
「うん」
「星羅さん、絶対喜ぶじゃん!」
幸枝が目を輝かせる。
「ていうか、もう半分家族みたいなもんじゃし!」
「ほんまよねえ」
今日子が笑う。
「いやでも、ちゃんとけじめはつけんと」
充が言う。
「うわー、出た、そういう真面目なとこ」
幸枝がにやにやする。
「星羅さん、そこで“そういうとこ好き”って言いそう」
「言いそうじゃな」
龍樹まで乗る。
「父さんまでなんなん」
それでまた、食卓に笑いが起きた。
けれどその笑いの底には、あたたかくて静かな感動が流れていた。
今日子は、まだ少し泣きながら思う。
ああ、この子たちは本当に、ちゃんと前へ進んでいるんだなと。
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4 一貴の家
そのころ、一貴もまた、自分の家へ帰っていた。
「ただいま」
玄関を開けると、母・小百合の明るい声がすぐ返ってくる。
「おかえり」
奥から父・一也の声もした。
「おう、おかえり」
江守家は加賀家ほど騒がしくはないが、帰ってくればちゃんと「おかえり」がある家だった。
一也は穏やかで、口数は多くないが人の話をよく聞く父親。
小百合は親しみやすく、相手の懐に入るのが上手な母親だ。
そして妹の百合愛は、高校生らしい明るさと好奇心をそのまま形にしたような女の子だった。
「幸枝さん、元気にしてたか?」
靴を脱ぎながら一也が聞く。
「うん。元気」
一貴が答える。
「またこっちにも連れてきてよ」
小百合が台所から顔を出す。
「私も幸枝さんと色々話もしたいし」
「母さん、この前もめっちゃ話しとったじゃろ」
「全然足りんよ。あの子、かわいいし、ちゃんと話聞いてくれるし、ケーキの話してる時ほんま楽しそうで」
「それは分かる」
一也もうなずく。
「礼儀正しいしな」
「そうそう。なのに変にかしこまりすぎんし、自然でええ子よねえ」
そこへ、百合愛がぱたぱたとやって来る。
「お兄ちゃん!」
「なに」
「わたしもこんど、幸枝さんとショッピングしたいなぁ」
「急だな」
「だってこの前、服の話めっちゃ楽しかったもん。あと、ケーキ屋さんのかわいいラッピングの話とかも!」
「百合愛、お前ほんま懐いとるな」
「だって優しいし、話しやすいし、なんかお姉ちゃんいたらこんな感じかなって思う!」
一貴は、その言葉に少しだけ黙った。
家族みんなが、もう幸枝を自然に受け入れている。
「彼女」ではあるけれど、それ以上に、いつかこの家にもっと近い存在になることを、どこかで当たり前みたいに思っている。
それが、一貴には少しだけうれしく、少しだけくすぐったかった。
「今度、休み合えば連れてくる」
そう言うと、小百合がすぐ笑顔になる。
「ほんと? じゃあ何作ろうかな。幸枝さん甘いの作る人じゃけぇ、逆にうちではご飯もののほうがええかしら」
「お母さん、張り切りすぎ」
百合愛が笑う。
「わたし、尾道の新しい雑貨屋さん一緒に行きたい!」
「気ぃ早いなあ」
一也が言う。
「でもまあ、また来てもらえたらええな」
一貴は、その何気ない会話を聞きながら思う。
やっぱり、あと少しなのだと。
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5 親たちの願い
夜。
加賀家では、今日子が台所を片づけながらまだ少し浮き足立っていた。
「ねえお父さん、充が結婚て……なんかまだ実感わかん」
「そのうちわくじゃろ」
「星羅ちゃん、きっといいお嫁さんになるよね」
「お嫁さん、いう時代でもないじゃろ」
「分かっとるけど、言いたくなるんよ」
「まあ、ええ人じゃ」
龍樹は湯飲みを持ちながら、静かに言った。
「幸枝も、いつかそうなるんじゃろうな」
「……うん」
今日子がやわらかく答える。
「一貴くん、ほんまにええ子じゃしね」
その言葉に、ふたりはしばらく黙った。
子どもたちがそれぞれの未来へ向かっていく。
嬉しい。
少し寂しい。
でも、何より安心する。
子どもたちが自分の選んだ相手と笑っている。
それが親にとって、どれだけありがたいことか。
一方、一貴の家でも、小百合が嬉しそうに言っていた。
「ほんま、幸枝さんまた来てくれたらええねえ」
「うん」
一也がうなずく。
「一貴も、ちゃんと大事にせんとだめよ」
「……しとる」
「言い方が短い」
「でも分かるよ、お兄ちゃん本気だもん」
百合愛が言う。
「見とったら分かる」
「お前に何が分かるん」
「分かるよー。幸枝さんの話してる時だけ、ちょっと顔違うもん」
「……」
「図星」
「百合愛、あんまりいじるな」
一也が笑う。
「でも、まあ、ええことじゃ」
家族の輪の中で、未来はまだ穏やかにそこにあった。
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6 静かな幸福
母の台所。
父の背中。
兄の結婚話。
恋人の家族の歓迎。
大きな事件なんて何も起きていない。
ただ、ちゃんと生きて、ちゃんと働いて、ちゃんと誰かを好きになって、ちゃんと未来の話をしているだけだ。
けれど、こういう普通の積み重ねこそが、人生だった。
加賀家も、江守家も、みんながそれぞれに思っていた。
この先もたぶん、こうやって少しずつ家族の形が広がっていくのだろうと。
結婚して、仕事が変わって、子どもが生まれて、また新しい食卓ができていくのだろうと。
誰も疑っていなかった。
この穏やかな続きが、ちゃんとあると思っていた。




