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戻らない日常  作者: リンダ


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彼氏という存在

戻らない日常』


第4話「彼氏という存在」


 江守一貴は、昔からあまり口数の多い人間ではなかった。

 必要なことは話す。冗談も言えないわけじゃない。けれど、自分からぺらぺらと気持ちを言葉にするのは、どうにも得意ではない。


 だから、高校二年の春、初めて加賀幸枝とちゃんと話した時も、最初はうまく言葉が出なかった。


 きっかけは、本当にどうでもいいことだった。



1 出会い


 調理実習室の前の廊下。

 授業が終わったあと、クラスメイトがぱらぱらと帰っていく中で、幸枝はひとり、教室の前でしゃがみ込んでいた。


 足元には、紙袋から転がり出た小さな包みがいくつか散らばっている。

 焼き菓子だった。家で練習してきたのか、それとも誰かに渡すつもりだったのか、一貴には分からなかった。


「あっ……最悪……」


 幸枝が小さくつぶやく。

 その声に、一貴は立ち止まった。


「……拾う?」

 自分でも驚くほどぶっきらぼうな言い方だった。


 幸枝は顔を上げる。

 少し困ったような顔のまま、それでも笑った。


「あ、うん。ありがとう」


 一貴は無言で屈み、散らばった包みを拾った。

 幸枝も慌てて手を動かす。ふたりの手が一度だけ同じ包みに触れて、どちらも一瞬止まる。


「ご、ごめん」

「いや」

「なんか、こういうの、めっちゃ恥ずかしいね」

「……まあ」

「“まあ”って何」

「恥ずかしいんじゃろ」

「そのまんま!」


 そのやり取りで、幸枝が先に笑った。

 一貴は、それにつられて少しだけ口元を緩めた。


 それが最初だった。



2 気づけば隣にいる人


 幸枝は、明るい。

 でも、誰にでも同じように明るいわけじゃない。

 空気を読んで、相手が緊張していたら少し声をやわらかくするし、落ち込んでいたら無理に笑わせようとはしない。そういう自然な優しさがあった。


 一貴は当時から整備士になりたくて、工業系の進路を考えていた。

 幸枝は菓子作りが好きで、実習の話をすると目がきらきらした。


「将来、自分で店とか持てたらええなあ」

「へえ」

「でもまずは修業せんとだめじゃし、全然先なんだけど」

「向いとるんじゃない」

「そうかな」

「うん」


 幸枝はその短い返事に、よく笑った。


「一貴ってさ、言葉少ないのに、たまにまっすぐ言うよね」

「そう?」

「そう。だから、ちょっとずるい」

「何が」

「こっちだけ照れるじゃん」

「……知らん」


 知らん、と答えながら、一貴のほうも少し照れていた。


 高校三年になる頃には、もう一緒に帰るのが当たり前になっていた。

 坂道の途中で他愛ない話をして、進路の不安を言い合って、時々くだらないことで笑う。

 告白らしい告白は、実は曖昧だった。


「これって、付き合っとるってことでええんかな」

 ある日、幸枝が半分冗談みたいに聞いた。


「……嫌なん?」

 一貴が聞き返す。


「嫌じゃない」

「じゃあ、ええんじゃない」


 幸枝は数秒黙って、それから吹き出した。


「なにそれ。もっとこう、ちゃんとした言い方あるじゃろ」

「そういうの得意じゃない」

「知っとる」

「でも、好きよ」

「……!」


 幸枝が固まる。

 一貴はそれ以上何も言えなくなって、視線をそらした。


「そういうのを不意打ちで言うの、ほんまよくない……」

 幸枝が真っ赤な顔でつぶやく。

「わざとじゃない」

「なお悪い!」


 その日から、ふたりはちゃんと恋人になった。



3 23歳の今


 それから何年も経って、二十三歳になった今も、一貴にとって幸枝は、やっぱり少し特別な緊張をくれる相手だった。


 付き合いが長くなれば、落ち着く。

 気を使わなくなる。

 空気みたいになる。


 そういう言い方もあるのかもしれない。

 けれど、一貴にとっての幸枝は、落ち着く相手であると同時に、今でもちゃんと“見てしまう”相手だった。


 笑う時、少しだけ目が細くなること。

 本気で悔しい時、口をぎゅっと結ぶこと。

 ケーキの話をすると、早口になること。

 家族のことを話す時、声の温度が一段上がること。


 全部、好きだった。


 休日の夕方、加賀家へ向かう坂道を上りながら、一貴はぼんやり考える。

 もしこのままうまくいけば、あと少しだと思っていた。


 焦っているわけではない。

 でも、なんとなく、もう遠い話ではなかった。


 整備士としての仕事も少しずつ任されるようになった。

 幸枝も店での試作を任され始めている。

 お互い、まだ修業の途中だけれど、それでも“将来”を口にしていいところまで来ている気がした。


 実際、幸枝は時々、平気な顔で言う。


「もしうちが店持ったら、一貴の車屋さんの近くがええな」

「車屋さんじゃない。整備工場」

「でも近くがええ」

「なんで」

「なんか安心じゃん」

「……そう」

「一貴は?」

「近いほうがええ」

「えへへ」


 そうやって笑う幸枝を見るたび、

 一貴の中では、もうだいぶ先まで決まっていた。


 ちゃんと落ち着いたら。

 もう少し仕事が安定したら。

 ちゃんと、言おうと思っていた。



4 充と星羅という、もう一組


 加賀家に行けば、自然と顔を合わせる人がいる。

 加賀充の恋人、石田星羅だ。


 尾道市観光協会に勤める星羅は、初めて会った時から不思議なくらい自然体だった。

 明るいけれど押しつけがましくなく、誰とでも話せるのに軽く見えない。

 そして何より、充相手だと妙にテンポがいい。


 ある日、一貴が加賀家に行くと、ちょうど星羅も来ていた。


「こんにちは」

 一貴が頭を下げると、

「こんにちは、一貴くん。ちょうどえかった、今ね、充くんがまた変な真面目発揮しとる」

 星羅が笑う。


「変な真面目ってなん」

 充がすぐ不満そうに言う。


「だって、尾道観光パンフの写真見ながら“この説明文、階段の勾配についてもう少し正確に書いたほうがええんじゃないか”とか言い出したんよ?」

「実際そうじゃろ。遠方から来る人が想像より坂きつかったら困る」

「そこが真面目すぎるんよ」

「大事なことじゃ」

「そういうとこは好き」

「……」

「でも今のは細かい」

「どっちなん」


 それを見ていた幸枝がすぐ吹き出す。


「出た出た、充お兄ちゃんと言い負かされん星羅様の黄金パターン」

「“様”やめんさい」

 星羅が笑う。

「いや、でもほんまに星羅さん強い」

 一貴も少しだけ笑った。

「一貴くんまで」

「充くん、理屈っぽいけど押し切ろうとするとこあるじゃろ?」

 星羅が言う。

「うん」

 一貴が短くうなずく。

「そこをね、ちょっとだけ曲げさせるのが私の役目」

「何その役目」

 充がため息をつく。

「ええじゃん。ぴったりじゃん」

 幸枝がにやにやする。

「お兄ちゃん単体だと固いけど、星羅さんおるとちょうど人間味出るし」

「お前、兄をなんだと思っとる」

「公務員型生真面目ロボ」

「失礼すぎる」


 星羅が腹を抱えて笑う。

 充も不服そうな顔をしつつ、結局は笑ってしまう。


 ふたりはよく似ていない。

 むしろ違う。

 でも違うからこそ、絶妙に噛み合っていた。


 充が慎重に考えすぎる時、星羅が軽やかに背中を押す。

 星羅が勢いで突っ走りそうな時、充が現実的に支える。

 見ていて少し騒がしくて、でも安心できるカップルだった。



5 星羅と幸枝


 そして、一貴がひそかにすごいと思っていたのは、星羅と幸枝の距離感だった。


 恋人の妹と、兄の恋人。

 気を使ってもおかしくない関係なのに、このふたりは最初から妙に仲がよかった。


 ある日、商店街を歩いていると、少し先にそのふたりがいた。

 幸枝が星羅の腕に半分ぶら下がるみたいに歩きながら、何かを熱弁している。


「じゃけぇね、レモンの香りって、強すぎると薬っぽくなるんよ!」

「分かる分かる。観光土産のお菓子でも、たまに“さわやか”通り越して“消毒液寄り”あるもん」

「そう! それそれ!」

「でも幸枝のは絶対おしゃれになる」

「星羅さん好き〜!」

「私も好き〜!」


 一貴は少し離れた場所で、それを見て笑ってしまった。

 姉妹か、と思う。

 血はつながっていないのに、雰囲気だけで言えば本当にそうだった。


 星羅は幸枝の夢を本気で応援していた。

 幸枝もまた、星羅の仕事の話を聞くのが好きだった。


「尾道って、ただ“景色がきれい”だけじゃなくて、そこに人の暮らしがあるのがええんよ」

 星羅が言う。

「分かる。うちもそこ好き」

「観光で来た人に、その“暮らしの空気”まで伝えたいんよね」

「星羅さん、絶対向いとる」

「ありがと。幸枝もね、ケーキ作っとる時ほんま向いとる顔しとる」


 そうやって、お互いの仕事も、夢も、ちゃんと尊重し合っていた。


 加賀家に星羅が来れば、幸枝はすぐ横に座る。

 買い物に行けば、ふたりでああでもないこうでもないと話し続ける。

 服の話、店の話、尾道の新しいカフェの話、将来の話。

 止まらない。


「いや、ほんま姉妹みたいじゃね」

 一貴がぽつりと言うと、

「今ごろ気づいたん?」

 幸枝が言う。

「うちら、もうとっくにそういう感じよ」

 星羅も笑った。

「どっちが姉なん?」

 一貴が聞く。

「私」

「いや星羅さん」

 ふたり同時に言って、今度は同時に吹き出す。

「ほらね」

「そこ被るのもすごいな」


 その横で、充が呆れたように言う。


「ふたりとも、ほんまよう喋る」

「充くんが喋らんぶん、こっちが補っとるんよ」

 星羅が即答する。

「帳尻合わせるな」

「でも助かっとるじゃろ?」

 幸枝も言う。

「……否定はせん」

「ほらー!」

「今の、だいぶ素直だったね」

 星羅がにやっとする。

「お兄ちゃん成長しとる」

「なんでお前らに育てられとる前提なん」


 また笑いが起きる。



6 一貴から見た幸せ


 一貴は、加賀家にいる時間が好きだった。

 自分の家が嫌いなわけではない。けれど加賀家には、誰かが帰ってくるたびにちゃんと空気が動く温かさがあった。


「ただいま」

「おかえり」

「おなかすいた」

「手ぇ洗って」

「それ先言う?」


 そういう何気ない会話が、途切れない。

 その中に幸枝がいる。笑っている。少し怒っている。照れている。ふくれている。

 全部ひっくるめて、一貴には愛しかった。


 そして思う。

 もしこの先、自分がこの家族ともっと深く関わることになったら。

 もし本当に、幸枝と結婚することになったら。

 それはきっと、怖さよりも先に、うれしさのほうが勝つだろうと。


 帰り道、坂を下りながら幸枝が言った。


「今日、一貴ちょっと静かじゃったね」

「いつも静か」

「そうなんじゃけど、なんか今日の静かは“考えごとしとる静か”」

「……」

「当たった?」

「まあ」

「なになに」

「言わん」

「えー」

「今はまだ」

「今はまだ、って何」

「そのまま」

「気になる!」


 幸枝はむっとした顔をしながら、でもすぐ笑った。

 その横顔を見て、一貴は思う。


 あと少し。

 あと少しだけ、ちゃんと形にできるところまで行ったら。

 その時は、きちんと言おう。


 幸枝は、自分にとって“彼女”という言葉だけでは足りない存在になっていた。

 たぶん、もうとっくに。



7 この人たちの未来


 充と星羅。

 幸枝と一貴。

 笑い方は違う。空気も少し違う。

 けれど、どちらも確かに未来へ向かっていた。


 派手な約束があるわけじゃない。

 大げさな愛の言葉を毎日交わすわけでもない。

 でも、一緒にいることが自然で、少し先の時間を当たり前のように想像できる。

 それはもう十分に、深い関係だった。


 加賀家の居間では、今日もまた誰かが笑っている。

 星羅と幸枝の声が重なり、充がため息をつき、一貴が小さく笑う。

 龍樹と今日子は、それを見ながらどこか安心したような顔をしている。


 みんなが、少しずつ未来のほうを向いていた。

 結婚。仕事。夢。暮らし。

 それぞれの足元にちゃんと続いていると思っていた。


 その未来が、まだ何ひとつ疑われていなかった頃の話だ。

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