兄妹の距離
第3話「兄妹の距離」
休日の翌朝。
加賀家の食卓には、焼いた食パンの匂いとコーヒーの香りが広がっていた。
今日子が台所でフライパンを振り、龍樹は朝刊を広げ、充は眠そうな顔でマグカップを持っている。幸枝はジャムを塗ったトーストをかじりながら、じっと兄の顔を見ていた。
「……なに」
充が嫌そうに言う。
「いやあ」
幸枝はにやにやしながら言った。
「お兄ちゃんもはやく星羅様と結婚、大丈夫なん?」
ぴたり、と空気が一瞬止まる。
今日子が振り返る。
龍樹が新聞を少し下げる。
充の眉がぴくっと動いた。
「朝から何言いよるん」
「いや、だってもう二十六じゃん」
「それ言うならお前も二十三じゃろ」
「うちはまだ修業中!」
「言い訳が早い」
「言い訳じゃないし!」
今日子が面白そうに口をはさむ。
「でも、星羅ちゃんほんまにええ子よね」
「ねー! 美人じゃし、しっかりしとるし、観光協会で働いとるけぇ尾道のことめっちゃ詳しいし」
幸枝は勢いよく乗っかった。
「お兄ちゃんにはもったいない」
「余計なお世話じゃ」
充がすぐ切り返す。
「いやほんまよ? 星羅様、あんなにできた人なのに、なんでこんな口うるさい男で妥協しとるんか不思議」
「妥協てなんじゃ」
「だってお兄ちゃん、家ではめっちゃうるさいもん。“幸枝、それちゃんと片づけろ”“幸枝、朝寝ぐせ直せ”“幸枝、遅刻するな”って」
「全部正しいことしか言うとらん」
「正しいけどうるさいんよ!」
「お前がだらしないだけじゃろ」
「はい出たー! すぐそうやって上から言うー!」
龍樹が新聞の向こうで肩を揺らしている。
今日子も、卵を返しながら笑いをこらえていた。
「父さんも母さんも笑わんでよ」
充が言う。
「いやあ、幸枝の言うことも分からんでもない」
龍樹がぼそっと言った。
「父さんまで!?」
「でも充、星羅ちゃんの前じゃちょっと優しいよね」
今日子が追撃する。
「うわ、それ分かる!」
幸枝がすぐ食いつく。
「声のトーン一段下がるよね。“ああ、うん”“そっか”みたいな」
「観察すな!」
加賀家の朝は、今日もにぎやかだった。
1 兄の威厳、ゼロ
食後、充が仕事へ行く準備を始めると、幸枝はまだにやにやしていた。
「なあお兄ちゃん」
「なに」
「もし星羅様と結婚したらさ」
「“様”やめろ」
「うち、めっちゃちゃんとした服着て式出るけぇ」
「まだ何も決まっとらん」
「で、スピーチで“兄は昔から口うるさくて”って話してええ?」
「やめろ」
「“でも妹のことは世界一心配しとりました”って」
「……」
「ほら、否定せん」
「お前、ほんま調子ええな」
充は鞄を持ち上げる。
幸枝はわざとらしく兄の前に立ちはだかった。
「でもさあ」
「なん」
「お兄ちゃん、星羅さんにはちゃんと言わんとだめよ?」
「何を」
「結婚したいとか、ちゃんと一緒にいたいとか」
「……朝からなんでそんな真面目な話になるん」
「いや、星羅さんかわいそうじゃん。ずっと待たされて」
「待たせとるとか、そういう話じゃない」
「でも大事なんじゃろ?」
「……大事よ」
充は少しだけ目をそらした。
幸枝は、その瞬間だけからかうのをやめて、にこっと笑った。
「なら、ちゃんとせんと」
兄は少し黙ってから、妹の額を軽く小突いた。
「お前に言われる筋合いない」
「いたっ!」
「自分のことだけ考えとけ」
「それがお兄ちゃんのよくないとこ! 照れたらすぐ物理!」
「物理言うほど強うない」
「いや地味に痛いし!」
また小さな笑いが起きる。
それは本当に、いつもの兄妹の距離だった。
2 昼下がり、星羅の話
その日の午後、幸枝は仕事が休みで家にいた。
今日子が買い物から帰ってくると、幸枝は台所で冷たい麦茶を飲みながら、ふと思い出したように言う。
「お母さん」
「なに」
「星羅さんってさ、ほんまにお兄ちゃんのこと好きなんかな」
「好きじゃろ」
今日子は即答した。
「でもお兄ちゃん、あんな感じよ?」
「どんな感じ」
「真面目すぎるし、ちょっと堅いし、たまに説教くさいし」
「それでも好きなんじゃろ」
「ふーん……」
今日子は買ってきた野菜を冷蔵庫に入れながら笑う。
「幸枝、あんた星羅ちゃん好きじゃろ」
「好きよ。めっちゃ好き」
「じゃけぇ気になるんじゃね」
「うん。だって星羅さん、ほんまいい人なんじゃもん」
石田星羅。二十五歳。
尾道市観光協会勤務。明るくて、話しやすくて、でも浮ついたところがなく、町のことが大好きな女性だった。坂道、寺、猫、商店街、港。尾道の魅力を人に伝えることに誇りを持っている。加賀家にも何度か遊びに来ていて、今日子ともすっかり仲がいい。
「星羅ちゃん、お兄ちゃんにはもったいないくらいしっかりしとる」
「またそういうこと言う」
「だってほんまじゃし」
「でもね」
今日子がふとやわらかい声になる。
「星羅ちゃんが充のどこを好きか、前にちょっと聞いたことあるんよ」
「え、なになに!?」
幸枝が食いつく。
「“口数は多くないけど、困っとる人を見たら絶対そのままにせんところ”って」
「……ああ」
「“あと、家族の話する時だけちょっと顔がやわらかくなるところ”って」
「……うわ、なんか悔しい」
「なんで」
「お兄ちゃん、外ではちゃんといい男みたいな評価されとるんじゃなって」
「みたい、じゃなくて、そうなんよ」
「家ではただの小言お兄ちゃんじゃのに」
「それは家族じゃけぇよ」
幸枝は麦茶のグラスを持ったまま、少しだけ笑った。
「まあでも」
「うん?」
「お兄ちゃん、根は優しいんよね」
「根どころか、表にも出とるよ」
「家じゃ分かりにくい!」
「分かりにくいくらいでちょうどええんよ」
3 夕方の口喧嘩
夕方、仕事を終えた充が帰ってきた。
ネクタイをゆるめ、鞄を置いて、ひと息つく。そこへ幸枝が、待ってましたと言わんばかりに声をかけた。
「おかえりー」
「ただいま」
「今日も星羅様のこと考えながら働いた?」
「なんで毎日その話なん」
「気になるもん」
「暇なんか」
「今日は休みじゃけぇ暇ですー」
「堂々と言うな」
幸枝はソファの背に寄りかかりながら、じっと兄を見る。
「ねえ」
「まだあるんか」
「お兄ちゃんってさ」
「うん」
「もし星羅さんと喧嘩したら、絶対自分から謝れんタイプじゃろ」
「……」
「ほら黙った」
「謝るわ」
「いや怪しい」
「謝るって」
「でも理屈で押し返しそう。“そういうつもりじゃなかった”“言い方が悪かったなら悪かった”みたいな」
「何その細かい再現」
「似とる似とる」
「お前、ほんま人のことよう見とるな」
「兄妹じゃけぇね」
充はため息をついた。
けれど、本気で怒っているわけではない。
「お前も人のこと言えんじゃろ」
「なにが」
「自分が悪くても、最初に“でも”って言う」
「言わんし」
「言う」
「言わん」
「今も言いそうな顔しとる」
「してない!」
幸枝がむっとする。
充もやや挑発気味に続けた。
「この前も母さんに、洗面所びしゃびしゃにしたの注意されて、“でも急いどったし”って」
「それは事実じゃもん」
「ほら、出た“でも”」
「うっ……」
「な?」
「……うるさい」
「図星じゃろ」
「お兄ちゃんも星羅さんに“でも”って言うくせに!」
「言わん」
「絶対言う!」
「言わん」
「言うって!」
「言わんって!」
子どもみたいな応酬に、台所から今日子の声が飛ぶ。
「二人とも! 言う言わんで小学生みたいな喧嘩せんの!」
しん、と一瞬だけ静かになる。
次の瞬間、龍樹が新聞の向こうでぼそっと言った。
「仲ええなあ」
それで終わりだった。
幸枝が先に吹き出し、充もつられて笑ってしまう。
「……ほんま腹立つ」
幸枝が笑いながら言う。
「お互いさまじゃろ」
充も肩をすくめる。
こうして兄妹の小競り合いは、だいたい五分で終わる。
4 でも、ちゃんと見ている
夕食のあと、幸枝は自室で翌日の持ち物をまとめていた。
そこへ、ドアを軽くノックする音がした。
「なに」
「入るぞ」
充だった。
「珍し。どうしたん」
兄は部屋に入るなり、机の端に置いてあったレシピノートをちらっと見た。
「明日、朝早いんじゃろ」
「うん。店長が新作の最終確認するって」
「ふーん」
少し沈黙がある。
幸枝は兄の顔を見て、にやっとした。
「なに、さっきの喧嘩の続き?」
「違う」
「じゃあ星羅さんの惚気?」
「違うわ」
充は少しだけ言いにくそうにしてから、机の上に小さな紙袋を置いた。
「これ」
「なに?」
「市役所の近くの店でやっとった。お前、レモンの焼き菓子好きじゃろ」
「……え」
「新作の参考になるかもと思って」
幸枝は目を丸くした。
紙袋を開けると、小さなレモンケーキが入っている。
「え、なにこれ、買ってきてくれたん?」
「ついで」
「絶対ついでじゃないやつじゃん」
「ついでじゃ」
「うわ、やさし……」
「気持ち悪い言い方すな」
「お兄ちゃん、そういうとこあるよね」
「どういう」
「昼間はうるさいくせに、こういう時だけ急に兄らしいことする」
「兄らしいってなん」
「……うちのこと、ちゃんと見とる」
その言葉に、充は少しだけ目をそらした。
「まあ、妹じゃけぇ」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃろ」
「……うん」
幸枝は小さく笑った。
「ありがと」
「おう」
「あとさ」
「なに」
「星羅さんにはもっと素直にしたほうがいいよ」
「まだ言うんか」
「だって絶対そっちのほうが喜ぶし」
「……考えとく」
「おっ、珍しく否定せん」
「今日はもう相手するの疲れた」
「ひど」
充は部屋を出る前に、くるっと振り返った。
「明日、寝坊すんなよ」
「またそれ!」
「あと寝ぐせ」
「もう言わんでええ!」
「言っとかんとまた鳥の巣になる」
「お兄ちゃん!」
廊下の向こうで、充が少し笑った気配がした。
幸枝も、むっとしながら結局笑っていた。
5 兄妹の距離
夜。
加賀家が静かになったあとも、幸枝は机の上の小さな紙袋を見ていた。
口うるさい。
いちいち細かい。
すぐ注意してくる。
子ども扱いする。
でも、誰よりもちゃんと見ている。
自分がどんなことで喜ぶか、どんな時に落ち込むか、どんなふうに頑張っているかを、いちばん当たり前みたいに分かっている。
兄妹というのは、変な距離だ。
近すぎて、素直に感謝なんてしにくい。
優しさも、心配も、そのままではなかなか届かない。
だからつい、口喧嘩みたいな形になる。
けれど、それでもちゃんと伝わっているものがある。
廊下の向こう、自分の部屋に戻った充もまた、ベッドに腰を下ろしながらぼんやり思っていた。
幸枝はまだ危なっかしい。
でも前に進もうとしている。
夢を持って、ちゃんと頑張っている。
そのことを、兄として少し誇らしく思っていた。
言わないけれど。
たぶんこれからも、面と向かっては言えないけれど。
それでも、この家では分かるのだ。
口喧嘩の裏にあるものを。
不器用な優しさを。
家族だからこその、離れすぎず近すぎずの距離を。
それが、加賀充と加賀幸枝の兄妹だった。




