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戻らない日常  作者: リンダ


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くだらないことで笑う家族

『戻らない日常』


第2話「くだらないことで笑う家」


 休日の朝の加賀家は、平日より少しだけゆっくりしている。

 それでも、静かではない。


「お母さん、牛乳もうないよー」

 二階から幸枝の声が飛んだ。


「昨日あんたがホットミルクにして飲みきったんじゃろ!」

 台所で今日子が言い返す。


「え、そうじゃったっけ?」

「そうよ。しかも“ちょっとだけ甘めにしよ”言うて、はちみつ山ほど入れとった」

「いや、あれは疲れを取るための必要経費!」

「必要経費で牛乳なくすな」


 居間では龍樹が新聞を広げ、充がソファにだらっと座ってスマホを見ていた。


「幸枝、休日まで朝から騒がしいな」

 龍樹がぼそっと言う。


「父さん、それお互いさま」

 充が視線を上げずに返す。

「父さんもさっき、テレビのリモコンない言うて五分探して、自分の尻の下に敷いとったじゃろ」

「……あれは見えにくかったんじゃ」

「見えにくい問題じゃない」

「お兄ちゃん、朝から切れ味えぐ」

 階段を下りてきた幸枝が笑う。


 今日は幸枝が店の試作で持ち帰ったケーキを家族に食べてもらう日だった。

 冷蔵庫の中には、小さめのホールケーキが大事そうに入っている。レモンのムースをベースにした新作で、表面には透明感のあるジュレ、上には薄く削ったホワイトチョコとレモンピールが飾られていた。


「触らんでよ、絶対まだ触らんでよ」

 幸枝が冷蔵庫の前で念を押す。

「誰もつまみ食いせんよ」

 今日子が言う。

「お父さんが怪しい」

「なんでわしなん」

「顔」

「顔で決めるな」


 加賀家の休日は、こういう、どうでもいい会話でできている。



1 昼の加賀家


 午前中、今日子は洗濯物を干し、龍樹は家の外回りを少し片づけ、充は渋々ながら掃除機をかけさせられ、幸枝は台所でケーキの最終調整をしていた。


「充、そのへん適当すぎん?」

 今日子が後ろから言う。


「ちゃんとやっとる」

「全然ちゃんとじゃない。角のほこり残っとる」

「母さん、ほこりと戦いすぎ」

「ほこりに負ける家は嫌なんよ」

「名言っぽく言わんで」


 一方、幸枝は真剣な顔でケーキの表面を見ていた。

 冷蔵庫から出したばかりのケーキは、光を受けてつやつやと輝いている。


「どう?」

 今日子が横から覗く。


「うーん……昨日よりジュレの感じはいいけど、レモンピールちょっと乗せすぎたかも」

「十分きれいじゃん」

 充が掃除機を止めて言う。

「いや、まだ詰められる」

「職人だなあ」

 龍樹が感心したように言う。


 幸枝は少し照れたように笑った。


「夕方、一貴も来るけぇ」

「聞いとるよ」

 今日子が言う。

「ほんで、また緊張しとるんじゃろ」

「してないし」

「しとる顔しとる」

「してないって!」


 その反応だけで、家族はもう少し笑える。



2 午後のだらだら時間


 昼食のあと、加賀家には休日特有のゆるい空気が流れた。

 龍樹は居間でうとうとし、今日子はアイロンがけをしながらテレビを見ている。充はコーヒーを飲みながら本を読み、幸枝は何度もスマホを見ていた。


「何回時間確認するん」

 充がページをめくりながら言う。


「別に」

「一貴が来る時間、三分おきに見よる」

「見てない!」

「見よる」

「見てないってば!」


 今日子がくすっと笑う。


「まあ、ええじゃない。彼氏が来るんじゃけぇ」

「お母さんまで……」

「そりゃそわそわもするわ」

 龍樹も半分眠そうなまま口をはさんだ。

「若いってええな」

「お父さん、その言い方急に年寄りくさい」

「五十一はもう若くはない」

「開き直るな」


 そんなくだらない会話が、途切れそうで途切れず続いていく。

 笑いの種なんて、本当に小さい。

 でも、その小ささがこの家にはちょうどよかった。



3 一貴がやって来る


 夕方。

 坂道の向こうがやわらかい橙色に染まり始めたころ、玄関のチャイムが鳴った。


「来た!」

 幸枝が勢いよく立ち上がる。


「はいはい、走らんの」

 今日子が笑う。


 玄関を開けると、作業帰りではなく私服姿の江守一貴が立っていた。白いシャツに落ち着いた色のジャケット、少しだけ照れたような顔。


「こんにちは」

「いらっしゃい、一貴くん」

 今日子が明るく迎える。

「こんにちは、お邪魔します」

 一貴はきちんと頭を下げた。


「なんか他人行儀じゃね?」

 充が後ろから言う。

「いや、家入る時はちゃんとするじゃろ」

「それもそうか」


 龍樹も居間から顔を出した。


「よう来たな」

「こんにちは、お父さん……じゃなくて、加賀さん」

「どっちでもええよ」

「いや、まだ緊張するけぇ……」

「一貴、父さん相手に敬語固すぎ」

 幸枝が笑う。

「お前はお前で慣れすぎ」

 充がすぐ返す。


 そのやりとりに、一貴も少し肩の力を抜いたようだった。



4 ケーキの試食会


 テーブルの中央に、幸枝の新作ケーキが置かれる。

 家族と一貴の視線が自然と集まった。


「じゃーん」

 幸枝が少し誇らしげに言う。

「おお……」

 今日子が目を丸くする。

「きれいじゃな」

 龍樹が感心する。

「普通に店で売っとるやつじゃん」

 充も素直に見入った。

 一貴は、しばらく本気で見つめてから言った。

「すごいな」


 幸枝はその一言だけでもうれしそうだった。


「食べてみて。まだ試作じゃけど」

「いただきます」


 切り分けられたケーキを、それぞれがフォークで口に運ぶ。

 ほんの少し、間が空く。


 最初に声を上げたのは一貴だった。


「うまっ」

 思わず出た声だった。

「これ、めっちゃうまい」


 幸枝の顔がぱっと明るくなる。


「ほんと!?」

「ほんと。レモンの感じちょうどいいし、後味が重くない」

「そうそう、それ狙ったんよ!」

「上の透明なやつも食感いい」

「ジュレ! そこ昨日ちょっと悩んだんよ」

「いや、かなりいいと思う」


 今日子も続ける。


「さっぱりしとって、でもちゃんと満足感あるね」

「うん。夏にぴったりって感じ」

 充が言う。

「……うまいな」

 龍樹も短くうなずいた。


「お父さん、それ毎回“うまい”しか言わん」

 幸枝が笑う。

「うまいもんはうまい」

「でもそれ、感想としては幅が狭すぎる」

「幅いらんじゃろ、うまいんじゃけぇ」

「頑固!」


 家族がまた笑う。

 幸枝は照れくさそうにしながらも、たしかな手応えを感じていた。



5 高校時代の爆笑ネタ


 ケーキを食べながら、会話は自然と高校時代の話になった。


「そういや幸枝」

 一貴がふと思い出したように言う。

「高校の実習で、砂糖と間違えて塩入れたことあったよな」


 一瞬、幸枝の動きが止まる。


「……は?」


 充がすぐに食いついた。


「なにそれ」

「聞きたい」

 今日子も目を輝かせる。

 龍樹も無言で興味津々の顔をしていた。


「いや、あれは……!」

 幸枝が慌てる。

「やめてやめてやめて、一貴、それはもう封印した話じゃけぇ!」


 一貴は珍しく少し楽しそうに笑っていた。


「ケーキの実習で、シフォン作っとった時」

「うわああああ、言わんでって!」

「材料、砂糖って書いてある容器と塩の容器、似とって」

「似とったんよ! ほんまに似とったん!」

「で、思いっきり塩入れた」

「ちょっとだけじゃし!」

「ちょっとどころじゃなかった」

「一貴ぃ!」


 充が腹を抱え始める。


「しょっぱいシフォンケーキ!?」

「すごいな、それ」

「え、どんな味なん?」

 今日子も笑いながら聞く。

「最初ふわって甘そうな匂いするのに、食べた瞬間“海”が来る」

 一貴が真顔で言った。


 その瞬間、加賀家の居間に大爆笑が起きた。


「海が来るて!」

 充がテーブルを叩いて笑う。

「尾道水道シフォンじゃん!」

「やめてええええ!」

 幸枝は顔を真っ赤にした。

「もう恥ずい! やめて〜!」


「しかも先生、一口食べて固まっとったよな」

 一貴が追い打ちをかける。

「“これは……新しいね”って」

「フォロー苦しすぎる!」

「幸枝ちゃん、その頃から伝説持ちだったんじゃね」

 充がにやにやする。

「持ってないし!」

「いや持っとる」

 龍樹がぼそっと言う。

「お父さんまで!?」

「でも、そういう失敗があるけぇ今があるんじゃろ」

 今日子が笑いながら言う。

「なんかちょっといい話みたいにまとめんで!」


 幸枝は本気で恥ずかしがっているのに、家族も一貴も笑いが止まらない。

 けれど、その笑いには意地悪さはなかった。

 失敗すら笑い話にして、一緒に抱えられる空気が、この家にはあった。


 一貴がふと、少しやわらかい声で言う。


「でも、そのあとちゃんと作り直して、今度は先生に褒められとったじゃろ」

「……まあ、それは、そうじゃけど」

「その時から、向いとるんだろうなと思った」

「……」


 幸枝は言葉に詰まる。

 恥ずかしさの中に、少しだけうれしさが混じった顔になる。


「なにその空気」

 充がすかさず言う。

「急にええ話で締めようとしよる」

「いや、事実だし」

 一貴が淡々と返す。

「それがまた腹立つ」

「お兄ちゃん、やかましい」

「妹に言われたくない」



6 夕暮れの余韻


 外はもうすっかり夕方だった。

 窓の向こうに見える尾道の町が、やわらかな光に包まれている。


 テーブルの上には、食べ終えた皿と、まだ笑いの余韻が残っていた。

 幸枝は少しふくれながらも、どこか幸せそうだった。


「でも」

 今日子が最後のひと口を食べて言う。

「ほんまにおいしかったよ、幸枝」

「うん。店に出たら絶対買う」

 充も続く。

「また持って帰ってこい」

 龍樹も言う。

「……ありがとう」


 幸枝は小さく笑った。


 一貴も皿を見ながら、もう一度だけ言った。


「ほんとにうまかった」

「……そっか」

「うん」

「……よかった」


 そのやり取りは短い。

 でも、幸枝にとっては十分すぎるほどだった。



7 この家の笑い


 一貴が帰ったあとも、加賀家の中にはまだ笑いの名残が残っていた。


「しょっぱいシフォンは反則じゃろ」

 充が思い出し笑いする。

「もうやめてってば!」

「でも“海が来る”は名表現だったねえ」

 今日子も笑う。

「一貴くん、ああ見えてちょいちょい面白いんよね」

「そうなんよ……普段静かなのに、ああいう時だけ的確なんよ……」

「そこがええんじゃろ?」

 今日子に言われて、幸枝はまた顔を赤くした。

「お母さん!」


 龍樹はそんなやりとりを眺めながら、静かに口元を緩めていた。


 くだらないことで笑える家だった。

 誰かの失敗も、照れも、ちょっとした昔話も、全部ひっくるめて笑い合える家だった。


 大事件なんて起きない。

 劇的な何かがあるわけでもない。

 でも、こういう時間こそが、たぶんいちばん尊い。


 この時の加賀家は、まだ誰も知らなかった。

 こんなふうに、くだらないことでみんな揃って笑える時間が、どれほどかけがえのないものだったのかを。



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