残る声
第50話「残る声」
声は、不思議なものだ。
姿は見えなくなる。
手は触れられなくなる。
同じ部屋に座ることも、同じ道を歩くことも、もうできない。
それでも声だけは、思いがけない場所に残る。
動画の中。
メッセージの文面の向こう。
レシピノートの言い回し。
誰かの口を借りたツッコミ。
台所での何気ない会話の続き。
幸枝の声も、そんなふうに、少しずつ家族の中や周りの人たちの中へ残り続けていた。
1 動画の整理
ある休日、加賀家の居間にまた人が集まっていた。
今日子、龍樹、充、星羅、ゆきちゃん、一貴、滝沢恵。
少し遅れて、百合愛もやって来る。
テーブルの上には、幸枝のスマホと、ノートパソコン。
「今日は、ちゃんと整理しようかって」
充が言う。
「動画とか写真とか」
「うん」
今日子がうなずく。
「消すんじゃなくて、残すためにね」
そう。
これは“片づけ”ではない。
残すための整理だった。
一貴がパソコンにデータを移しながら、小さく言う。
「これ、ちゃんとバックアップしとかな」
「うん」
星羅が答える。
「幸枝の声、消えたら嫌やもん」
その一言に、部屋の空気が少しだけ静かになる。
2 幸枝の笑い声
動画のひとつが再生される。
カラオケ。
例の満点動画。
画面の向こうで、幸枝が大笑いしている。
「やったあああ!」
「見て見て見て!」
その声が部屋に響く。
何度聞いても、やっぱり“幸枝だ”と思う。
声の高さ。
笑い方。
勢い。
ちょっと調子に乗ってる感じまで全部、そのままだ。
百合愛が、笑いながら泣く。
「この言い方、ほんとに幸枝お姉ちゃん」
「しかも絶対、あと三回は見せてくる」
充が言う。
「見せてくるねえ」
今日子も笑う。
「“もういい”って言っても、“えー、もっかい!”って」
「一貴にも無理やり見せる」
星羅が言う。
「で、“すごいな”って言うまで終わらん」
「言うしかなくなる」
一貴が苦笑する。
笑い声が重なる。
動画の中の幸枝の笑いと、今ここにいるみんなの笑い。
時間は違うのに、声はつながる。
3 レシピノートの言葉
店長とスタッフも、あとから合流した。
手にはコピーしたレシピノート。
「今日、新作の試作してたんですけど」
店長が言う。
「また、幸枝さんの言い回しが出てきて」
ノートの一文を読む。
甘いだけじゃなくて、ちゃんと“また食べたい”にすること
きれいだけじゃなくて、テンション上がるやつ
お母さんはこれ好き
お兄ちゃんは、たぶん“うまい”しか言わん
そこでみんな吹き出す。
「ほんまに、ずっと言うとる」
充が笑う。
「俺のこと何やと思っとったん」
「いや、でも当たっとる」
一貴が真顔で言う。
「うるさい」
スタッフも笑いながら、少しだけ目を赤くしている。
「ノート読んでると、まだ厨房のどこかでしゃべってるみたいなんです」
「“それちょっと重いんよね”とか、“もっと香りほしい”とか」
「そんなふうに言われる気がして」
それは感傷ではなく、たぶん本当にそうなのだ。
レシピには、味だけじゃなく、その人の“声”が残る。
幸枝のノートには、それが濃く残っていた。
4 日常の中に出る声
最近では、加賀家の日常の中にも、自然と幸枝の口調が入り込むようになっていた。
充が一気にどら焼きを食べれば、
「ちょっと、お兄ちゃん味わって食べり」
と今日子が言う。
それはもう、今日子自身の言葉でもあり、幸枝の言葉でもある。
一貴が料理をひと口で済ませそうになれば、
「一貴、それ幸枝さんに怒られるやつ」
と星羅が言う。
ゆきちゃんが泣けば、
「おーおー、主張強いねえ」
と百合愛が笑う。
すると今日子が、
「その言い方、幸枝みたいやね」
と言って、みんな少しだけ笑う。
誰かが誰かの言葉を真似しているわけじゃない。
ただ、一緒にいた時間が長かったから、自然と残ってしまっているのだ。
声は、そうやって人の中へ移っていく。
5 パティスリー・ミズノの新作
店では、幸枝の名前を冠した商品が少しずつ増えていた。
幸枝モンブラン。
幸枝どら焼き。
そして、その次の候補もまた、ノートの中から見つかり始めている。
ある日、店長が言った。
「“幸枝シリーズ”って、店の中でもちゃんと根づいてきました」
「常連さんも、これ幸枝さんのやつ?って聞いてくれるんです」
その言葉を聞いて、今日子の顔が少しやわらかくなる。
「そうなんですね」
「はい」
「味と一緒に、名前も残ってます」
声が残る。
味が残る。
名前が残る。
人が本当にいなくなるって、もしかしたら、
こういうものまで全部消えてしまった時なのかもしれない。
でも幸枝は、まだどれも消えていない。
6 ゆきちゃんと声
ゆきちゃんは、まだ言葉にならない声しか出せない。
でも最近、機嫌のいい時に「あー」「うー」とよくしゃべるようになっていた。
その声を聞いて、今日子が笑う。
「この子、ようしゃべるねえ」
「星羅に似たかな」
充が言う。
「何で私なん」
「じゃあ、俺?」
「それはない」
一貴が即答する。
みんな笑う。
その時、ゆきちゃんが急に高い声で「あー!」と叫んだ。
部屋が一瞬静かになって、それから百合愛が言う。
「……今の、ちょっと幸枝お姉ちゃんっぽかった」
全員が、ほんの一瞬だけ顔を見合わせる。
もちろん似ているはずなんてない。
でも、そう言いたくなるくらい、その声には妙な明るさがあった。
今日子は、ゆきちゃんを抱きながら笑う。
「そっかあ」
「幸枝、ちょっと遊びに来たんかね」
その言葉は、冗談みたいでいて、
でも本気でそう思いたい気持ちも含んでいた。
7 一貴の中に残る声
一貴にとっても、幸枝の声はまだ消えていなかった。
むしろ、前よりもはっきり思い出せる時がある。
仕事帰りにコンビニで甘いものを見れば、
「それ、食べるなら絶対こっちやろ」
と、勝手に頭の中で幸枝が言う。
食べ方が雑だと、
「ちょっと、一気にいかんで!」
と聞こえる。
悲しいだけじゃない。
むしろ、日常のあちこちに、あのちょっと勝気で明るい声が割り込んでくる。
恵はそれを、邪魔しなかった。
「また聞こえた?」
と聞いてくれる。
一貴が
「うん」
と答えると、
「どんなこと言ってた?」
と続ける。
それが、一貴にはありがたかった。
幸枝の声を、今の時間の中でちゃんと話していいのだと思えるからだ。
8 位牌の前で
夜。
みんなが帰ったあと、今日子はいつものように位牌の前に座った。
「幸枝」
「今日は、あんたの声だらけやったよ」
動画。
レシピ。
ツッコミ。
笑い声。
ゆきちゃんの「あー」。
それら全部の中に、幸枝が少しずついた。
「おらんのにねえ」
今日子は、少し笑って言う。
「でも、おるんよね」
矛盾している。
でも、それが今の正直な気持ちだった。
いない。
でも、残っている。
いない。
でも、聞こえる。
声というものは、そうやって人の心に住み続けるのかもしれない。
9 残る声
第50話「残る声」は、
亡くなった人が“いなくなる”だけではないことを描く回だった。
幸枝はもう、この家の階段を下りてこない。
店の厨房にも立たない。
花を見て足を止めることもない。
それでも、声は残る。
笑い声として。
レシピの言い回しとして。
家族の会話の中のツッコミとして。
名前を呼ぶ時のあたたかさとして。
それが、残された者たちの中で、これからも続いていく。




