それぞれの春
『戻らない日常』
第49話「それぞれの春」
春は、誰にでも来る。
生まれたばかりの命にも、
長い悲しみを抱えた家にも、
そして、終わりを待つしかない人間にも。
同じ春なのに、
その意味は、いる場所によってあまりにも違っていた。
⸻
1 ゆきちゃんのいる春
春の光は、やわらかかった。
加賀家には、赤ちゃんのいる空気が少しずつ馴染んできていた。
ゆきちゃん。
小さな手。
小さな泣き声。
眠っているだけで、部屋の中の時間が変わるような存在。
今日子は、抱っこしながら何度も笑った。
「この子、よう寝るねえ」
「今のところはね」
星羅が笑う。
「たぶんそのうち、夜中に本気出す」
充は最初こそ抱っこもぎこちなかったが、今ではだいぶ手つきがましになっていた。
それでも、少し泣かれただけで慌てる。
「なんで泣くん」
「知らんよ」
星羅が言う。
「赤ちゃんやもん」
「今の顔、絶対幸枝に笑われる」
充が言う。
そのひとことで、みんな少し笑う。
ゆきちゃんを囲む時間の中には、もう“幸枝のいない痛み”だけではないものが生まれていた。
もちろん悲しみは消えていない。
でも、それと一緒に、新しい家族の時間も動き始めている。
⸻
2 一貴と恵の春
一貴と滝沢恵にも、少しずつ新しい日常ができていた。
派手ではない。
劇的でもない。
でも、静かに隣にいることに慣れていく春だった。
休日に一緒に買い物へ行く。
帰りにコーヒーを買う。
言葉がなくても苦しくない時間がある。
恵は、幸枝のことを無理に話題から消そうとはしない。
一貴もまた、必要以上に説明しようとしない。
その距離感が、今の二人にはちょうどよかった。
ある日、一貴がふと言った。
「春って、前はそんな好きじゃなかったんです」
「そうなんですか?」
「始まる感じが、ちょっと苦手で」
「……今は?」
「今も少し苦手です」
一貴が少し笑う。
「でも、前ほど嫌いじゃなくなりました」
恵も、その笑いにやわらかく笑い返した。
失った時間は戻らない。
でも、だからといって春まで止めることはできない。
それを受け入れ始めた人の顔だった。
⸻
3 春の庭
加賀家の庭にも、春が来ていた。
パンジー。
やわらかな葉。
新しい土。
そして、幸枝が好きだった花の名残が、季節の端々に残っている。
今日子は水やりをしながら、ゆっくり言う。
「幸枝、こういうの好きやったよね」
「うん」
星羅が答える。
「ゆきちゃんも好きになるかも」
その言葉に、今日子は少しだけ目を細める。
好きな花。
好きな色。
そういうものは、血とは違う形で受け継がれていくのかもしれない。
誰かが話し、誰かが覚え、誰かがまた植えることで。
⸻
4 その朝
一方で、その朝が来た。
太田大地の名前が呼ばれる。
拘置の中では、いつもの朝と同じように始まるようでいて、
どこか空気が違う。
足音。
扉の開く気配。
呼ばれる声。
その瞬間、大地の心臓は激しく脈打った。
ついに来た。
そう理解した時には、もう遅い。
これまで、何度も想像していた。
明日かもしれない。
来週かもしれない。
ずっと先かもしれない。
でも、実際にその時が来ると、想像していたよりもずっと身体の反応のほうが早かった。
喉が渇く。
手が冷える。
足に力が入らない。
教誨師の声が聞こえる。
懺悔。
祈り。
最後に向き合うべきこと。
だが大地の中でいちばん大きかったのは、
理屈ではなく、
死への恐怖
だった。
⸻
5 今さらの感覚
連れて行かれる。
歩く。
足音がやけに響く。
その途中で、大地の頭の中に、ふいに浮かぶものがあった。
幸枝は、死ぬ間際、どんな気持ちだったのか。
どれだけ怖かったのか。
どれだけ苦しかったのか。
どれだけ生きたかったのか。
今さらだった。
本当に今さらだった。
でも、初めてその感覚が、頭ではなく身体に近いところまで落ちてきた。
あの女も、この恐怖を味わったのか。
その思いがよぎる。
そして同時に、自分がしたことの重さが、ほんのわずかでも輪郭を持つ。
だが、それは遅すぎた。
あまりにも遅すぎた。
⸻
6 最後の問い
最後に、伝えたいことはあるかと問われる。
その問いに、大地は何か言おうとした。
言い訳か。
謝罪か。
親への言葉か。
それとも何もかも違うものか。
でも、口を開いたところで、結局まともな言葉は出てこなかった。
これまでいくらでも機会はあった。
法廷でも、接見でも、取り調べでも。
なのに、必要な言葉を一度も持てなかった人間が、
最後の最後だけ急に本物の言葉を持てるはずがない。
沈黙だけが残る。
⸻
7 執行
そして、刑は執行される。
詳細は語らない。
語る必要もない。
ただ、それは静かに、制度として、国家の手によって行われた。
幸枝の命を奪った男の命が、ここで終わる。
それは復讐の達成ではない。
失われたものの回復でもない。
ただ、法が出した最終的な結論が、現実の出来事になるというだけだ。
⸻
8 同じ春の下で
そのころ、下界ではゆきちゃんが泣いていた。
今日子があやし、星羅が笑い、充が少し慌てる。
一貴と恵は、少し遅れて顔を出す約束をしている。
春の光。
小さな命。
台所の匂い。
庭の花。
同じ春の下で、
ひとつの命が終わり、
ひとつの命が育っていく。
その対比は、あまりにも残酷で、でもあまりにも自然だった。
⸻
9 終わらないもの、続くもの
太田大地の死によって、何かが戻るわけではない。
幸枝は帰ってこない。
食卓の空席も消えない。
今日子の痛みも、龍樹の沈黙も、充の悔しさも、一貴の喪失も、全部そのまま残る。
でも一方で、続いていくものもある。
ゆきちゃん。
一貴と恵の春。
庭の花。
パティスリー・ミズノの新作。
そして、幸枝を思い出して笑えるようになった人たちの時間。
それが、この物語の“それぞれの春”だった。




