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戻らない日常  作者: リンダ


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生まれてくる命

 第48話「生まれてくる命」


 命は、失われる。

 そして同時に、別の場所で生まれてくる。


 その事実は、とても残酷で、

 でも、とてもやさしい。


 失ったものの大きさは消えない。

 取り返しもつかない。

 けれど、それでも人は、次に生まれてくる命を前にすると、

 少しだけ未来を信じたくなる。


 1 女の子


 病院での健診の帰り道。

 星羅は、診察結果の入った封筒を胸に抱えて歩いていた。

 隣には、どこか落ち着かない顔の充。


「……で?」

 充が聞く。

「で、何が?」

「いや、だから……分かっとるんじゃろ?」

 星羅が笑う。


 少し焦らすようにしてから、やさしく言った。


「女の子だって」


 その瞬間、充は足を止めた。


「……女の子」

「うん」

「ほんまに?」

「ほんまに」


 充はしばらく何も言えなかった。

 ただ、ゆっくりと笑う。


「そうか……」

「女の子か」


 その声には、驚きと、照れと、じんわり広がるうれしさが全部混ざっていた。


 星羅も笑う。

 その横顔は、以前より少しだけやわらかく、そして強く見えた。


 2 名前


 その夜、加賀家でも、石田家でも、その話で持ちきりになった。


「女の子かあ!」

 今日子が目を輝かせる。

「かわいかろうねえ」


 龍樹も、珍しくはっきりと笑った。


「充、泣くんじゃないか」

「泣かんし」

 充が言う。

「いや、絶対泣く」

 星羅が即答する。


 笑いが起きる。

 その笑いの中で、ふと今日子が聞いた。


「名前、どうするん?」


 その問いに、充と星羅が顔を見合わせる。

 そして、星羅が少しだけ静かになる。


「……実はね」

「うん?」

「もう、ずっと前から決めてた名前があるんよ」


 今日子も、龍樹も、充も、自然と姿勢を正す。


 星羅は、まっすぐ位牌のほうを見て言った。


「幸枝って書いて、ゆきえ」


 部屋の中の空気が、ふっと変わる。


 読みは違う。

 “さちえ”ではなく、“ゆきえ”。

 でも、漢字は同じ。


 星羅は静かに続ける。


「幸枝さんと、まったく同じにするんじゃなくて」

「でも、ちゃんとつながる名前にしたくて」

「漢字を見たら、すぐ分かるように」

「この子が、幸枝さんから受け取った愛情の中で生まれてくる子だって、ちゃんと残るように」


 今日子の目に、涙があふれる。

 龍樹も、深く息を吐く。

 充は、言葉を失ったままだった。


「幸枝も、喜んでると思うよ」

 星羅がそう言った時、

 もう誰も何も否定できなかった。


 3 位牌に向かって


 そのあと、二人は位牌の前に並んだ。


 線香の香り。

 小さな花。

 笑っている幸枝の遺影。


 星羅が、少し照れたように、でもまっすぐ話しかける。


「幸枝さん」

「女の子でした」

「それでね、名前……幸枝って書いて、ゆきえにしようと思う」


 充も、少し緊張したような顔で続ける。


「お前の名前、もらうことにした」

「読み方は違うけど」

「でも、ちゃんとつながっとる」


 今日子が後ろで泣いている。

 龍樹は、目を閉じて静かに聞いている。


「よろしくな」

 充が言う。

「見守ってやってくれ」


 その時、居間の空気がほんの少しだけやわらいだ気がした。


 4 天国の幸枝


 場所は変わり、天国。


 幸枝は、そのやりとりを見ながら、ぱっと顔を明るくした。


「いいやん!」


 ものすごく嬉しそうに両手をたたく。


「私はさっちゃん」

「お兄ちゃんの赤ちゃんは、ゆきちゃん!」


 その言い方が、あまりにも幸枝らしい。


「かわいい義妹ができてヨキヨキ!」

「しかも漢字一緒とか、めっちゃええやん!」


 幸枝は、下界の位牌の前で泣いてる今日子を見て、少しだけ目を細める。


「お母さん、泣きすぎ」

「でも、まあしゃあないか」


 そして、星羅のお腹のあたりへ目を向けて、そっと笑う。


「ゆきちゃん」

「待っとるよ」

「下でいっぱい愛されて、大きくなりんさい」


 その声は届かない。

 でも、確かに何かがつながったように、天国の光が少しやわらいだ。


 5 失ったものと、待つもの


 充と星羅は、失ったものがあまりにも大きすぎたことを、忘れたわけではない。


 幸枝がいれば、どんな顔で笑っただろう。

 どんなふうに名前にツッコミを入れただろう。

 どんなプレゼントを用意しただろう。


 それを考えるたび、今でも胸は痛む。


 でもその一方で、二人は確かに、新しい命を迎えることを楽しみにしていた。


 ベビー服を見に行く。

 小さな靴下を手に取る。

 名前の字画を調べる。

 寝床をどうするか話す。

 夜中にふと起きて、「ちゃんと父親になれるかな」と不安になる。


 そういう、ありふれた未来の準備が、二人の毎日に少しずつ増えていく。


 今日子も、時々ふわっと笑うようになった。


「ゆきちゃん、どんな顔かねえ」

「絶対かわいい」

 星羅が言う。

「そりゃそうじゃ」

 龍樹が珍しく即答する。


 そのやりとりに、みんな少しずつ笑う。


 6 出産の日


 やがて、その日が来た。


 病院。

 夜をまたぐような時間。

 明るい廊下。

 長く感じる時計の針。


 充は、星羅に付き添っていた。

 何も代わってやれない。

 できるのは手を握ることと、声をかけることだけ。


「大丈夫」

 と言いながら、自分がいちばん大丈夫じゃない顔をしている。


「大丈夫じゃない顔しとる」

 陣痛の合間に、星羅が言う。


 それでも二人とも、少しだけ笑った。


「ちゃんとここおるけぇ」

 充が言う。

「うん……」


 時間が流れる。

 長い。

 苦しい。

 でも、止まらない。


 7 天国からの応援


 天国では、幸枝がもう落ち着かない。


「お兄ちゃん、しっかり!」

「星羅さん、がんばれー!」


 誰にも聞こえないのに、めちゃくちゃ大きな声で応援している。


「ゆきちゃん、もうちょい!」

「こっちじゃなくて下に行くんよー!」


 その様子は、もし見えたらみんな吹き出すくらい必死だった。


 でも幸枝にとっては、本気だった。

 だってこれは、お兄ちゃんの子どもで、星羅の子どもで、

 そして自分の名前を分けてもらった子なのだから。


 8 生まれる


 そして――

 小さな泣き声が響いた。


 産声。


 その音を聞いた瞬間、充は、何かが胸の奥でほどけるのを感じた。

 気づけば、涙が出ていた。


「……生まれた」

 声が震える。

「生まれた……」


 星羅も、汗と涙の混じった顔で、やっと少し笑った。


「うん……」

「生まれたね」


 看護師が、そっと赤ちゃんを見せる。


 小さい。

 やわらかい。

 でも、たしかに生きている。


 その命の重さに、充はもう言葉を失うしかなかった。


「ゆきちゃん……」

 今日子があとでその話を聞いて、泣きながらそう呼ぶことになる名前。

 その子は、ちゃんとこの世界へやって来た。


 9 新しい命


 病室に静けさが戻ったあと、充は星羅の額に手を当てながら、小さく言った。


「ありがとう」

「……うん」

「幸枝も、たぶん今めっちゃ騒いどる」

 星羅が笑う。

「絶対騒いどる」

「“お兄ちゃん泣きすぎ!”って言われるな」

「言われるね」


 二人とも、泣きながら少し笑った。


 失ったものは戻らない。

 でも、新しい命は、ちゃんと生まれてくる。


 そのことが、ただただまぶしかった。


 10 つながっていくもの


 翌日、加賀家にもその知らせが届く。


 今日子は位牌の前で手を合わせる。


「幸枝」

「ゆきちゃん、生まれたよ」


 その声は、泣いていて、でも明るかった。


 龍樹も、遺影に向かって言う。


「お前、叔母さんになったな」


 充から送られてきた写真。

 小さな手。

 やわらかな頬。

 まだ何も知らない、でも確かに未来を持った命。


 その写真を見ながら、今日子は思う。


 幸枝はもういない。

 でも、幸枝から受け取ったものは、次の世代へ渡っていく。


 名前。

 愛情。

 笑い方。

 花が好きな気持ち。

 やさしさ。

 そういうものが、少しずつつながっていく。


 それが、この物語に残された希望だった。

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