夢のあと
『戻らない日常』
第47話「夢のあと」
夢は、目が覚めれば消える。
けれど時々、夢のあとにだけ残るものがある。
言葉にならない余韻。
誰かに背中を押されたような感覚。
もう少しだけ前へ歩いてもいいのかもしれない、という小さな許し。
その夢のあと、時間はちゃんと流れ始めた。
ゆっくりと。
でも、たしかに。
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1 チャペル
空は晴れていた。
海風の届く小さなチャペル。
真っ白な壁。
やわらかい光。
椅子に座る人たちの中には、笑顔と涙が同じように混じっている。
今日は、充と星羅の結婚式だった。
加賀家、石田家、江守家、パティスリー・ミズノの店長とスタッフたち。
そして、位牌ではなく、今日は小さな遺影立てに入れられた幸枝の写真も、そっと前のほうに置かれていた。
この日を、幸枝抜きで迎えることはできなかった。
でも同時に、幸枝のせいで止めることもできなかった。
だから、連れてきた。
ちゃんと一緒に。
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2 誓いの言葉
新郎新婦が前に立つ。
星羅はきれいだった。
少し緊張しているけれど、それでもまっすぐ前を見ている。
充はというと、普段よりさらに肩に力が入っていた。
そして、誓いの言葉。
司式者が問いかける。
「あなたは――」
充が答えようとする。
「は、はい……あの、えっと、ち、ちか……」
言葉がもつれる。
会場に、少しだけ空気が揺れる。
今日子がもう口元を押さえている。
百合愛は肩を震わせている。
星羅は、こらえきれず吹き出しそうになる。
充は真っ赤な顔で言い直す。
「ち、誓います!」
その必死さがあまりにも充らしくて、
チャペルには、張りつめた空気とは別の、やわらかな笑いが広がった。
もし幸枝がここにいたら、絶対にあとで言うだろう。
「お兄ちゃん、肝心なとこでカミカミやん!」
そんな声が聞こえた気がして、今日子は泣きながら笑った。
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3 ウェディングケーキ
披露の場に移ると、そこには大きな拍手と、もうひとつの主役が待っていた。
パティスリー・ミズノのスタッフ総出で作ったウェディングケーキ。
真っ白なクリームに、上品な花の細工。
華やかすぎず、でも温度のある意匠。
ところどころに、幸枝のレシピノートから引き継いだアイデアが散りばめられている。
店長が少し照れたように言う。
「幸枝さんがおったら、絶対この仕事やりたがったと思います」
「なので、今日はみんなで、幸枝さんの分まで作りました」
その言葉に、会場は静かになった。
ウェディングケーキは、祝いの象徴だ。
でも今日はそれだけじゃない。
ここにいない人の手も、たしかにこのケーキに重なっている。
そう感じられるものだった。
星羅が涙ぐみながら言う。
「ありがとうございます……」
充も、深く頭を下げる。
ケーキ入刀。
拍手。
笑い声。
そして試食。
「うまい」
充がいつものようにまず一言だけ言う。
「だからその一言だけじゃ伝わらんって」
星羅が笑う。
そのやり取りに、会場中がまたあたたかく笑った。
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4 挨拶
式の終盤。
充が挨拶のために立つ。
今度はカミカミではなかった。
いや、緊張はしていた。
でも、それ以上に、胸の中に言わなければならない言葉があった。
「今日は、本当にありがとうございます」
会場を見渡す。
両親。
星羅。
石田家。
江守家。
店の人たち。
友人たち。
そして、小さな遺影の中の幸枝。
「ここに来るまで、正直、結婚式なんてしていいのか、ずっと迷ってました」
「前に進むことが、幸枝を置いていくみたいな気がして」
「でも、違うって、ようやく思えるようになりました」
声が少し揺れる。
「俺たちは、幸枝のことを忘れません」
「これからも、たぶんずっと思い出します」
「でも、立ち止まるんじゃなくて」
「幸枝の分も、一緒に生きていきます」
その一言に、今日子はもう涙を止められなかった。
龍樹も、深く目を閉じる。
星羅は、まっすぐ充を見ていた。
“幸枝の分も生きる”。
それは簡単な言葉じゃない。
だからこそ、今日ここで口にする意味があった。
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5 両親の言葉
続いて、龍樹と今日子も挨拶をする。
今日子は涙をぬぐいながら、でもちゃんと笑おうとしていた。
「辛いことが続きました」
「ほんとうに、長く苦しい時間でした」
「でも、その中で、こうして支えてくださる方がいて、今日を迎えられました」
店長やスタッフたちへ。
石田家へ。
江守家へ。
星羅へ。
そして、ここに来てくれた人たち全員へ。
「ありがとうございます」
「今日、こうして“おめでとう”と言えることが、ありがたいです」
龍樹は短く、しかし深く言う。
「家族は壊れました」
「でも、みなさんに支えられて、ここまで来ました」
「これからも、幸枝のことを胸に置いたまま、前へ進んでいきます」
その言葉は飾っていない。
だからこそ、会場にいる全員の胸へ真っ直ぐ届いた。
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6 三年
そして、三年の月日が流れる。
季節は巡る。
春が来て、夏が過ぎ、秋が深まり、また冬が来る。
それを三度繰り返すうちに、悲しみの形も少しずつ変わっていった。
消えたわけではない。
でも、日常の中に沈んでいった。
充と星羅は結婚して、新しい暮らしを始めていた。
笑い合う日もある。
喧嘩する日もある。
そして今、星羅のお腹には新しい命が宿っている。
今日子がそのお腹に手を当てながら、泣き笑いの顔で言う。
「幸枝、びっくりしとるやろうね」
「お兄ちゃんが、ちゃんと父親になるんよ」
星羅も笑う。
「絶対、天国でツッコんでますよ」
「“お兄ちゃん、ちゃんとしんさいよ!”って」
「言うねえ」
充が苦笑する。
その苦笑いも、今ではあたたかい。
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7 一貴と滝沢恵
一方で、一貴にも新しい時間が訪れていた。
最初は、ただ裁判を支えてくれた弁護士だった。
冷静で、言葉を選べて、人の痛みを分かった上で法の話ができる人。
裁判が終わったあとも、民事やSNS対応で顔を合わせることが続いた。
そこから、少しずつ会話が増えた。
仕事の話だけじゃなくなる瞬間ができた。
沈黙が苦じゃない時間ができた。
それは急な恋ではなかった。
むしろ、かなり慎重で、遠回りで、ぎこちない始まりだった。
でも、その慎重さが一貴にはちょうどよかったのかもしれない。
滝沢恵もまた、幸枝の存在を消そうとしなかった。
思い出を「過去だから」と切り離させることもしなかった。
だから一貴は、ようやく誰かと並んで歩いてもいいのかもしれないと思えた。
そして、三年後。
一貴と滝沢恵は、晴れて結ばれることになった。
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8 挙式の日
挙式の日。
加賀家のみんなも参加していた。
そして、一貴は式場へ入る前、
小さな幸枝の遺影をそっと抱いていた。
それを見た今日子は、一瞬泣きそうになり、それからやわらかく笑った。
「連れてきてくれたんやね」
「うん」
一貴が答える。
「今日だけは、絶対」
幸枝を置いていくのではない。
幸枝を消すのでもない。
ただ、自分の新しい時間の中へ、ちゃんと一緒に連れていく。
それが、一貴なりの答えだった。
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9 夢の話
式の前、控室で滝沢恵が加賀家へ静かに話し始めた。
「……実は、ずっと話そうか迷ってたことがあるんです」
今日子も、龍樹も、充も、一貴も顔を上げる。
恵は少しだけためらってから言った。
「裁判が終わる少し前に、不思議な夢を見たんです」
一貴の表情が、わずかに変わる。
「夢の中で、幸枝さんが出てきました」
「写真で見ていたより、ずっと生き生きしていて……」
「それで、私に言ったんです」
「“一貴のこと、お願いします”って」
部屋の空気が変わる。
今日子の目に涙が浮かぶ。
充も、息を止めるようにして聞いている。
龍樹は静かに目を閉じた。
恵は続ける。
「“私のことを覚えていてくれるのは嬉しい。でも、いつまでも一人でいてほしくない”って」
「“ちゃんと幸せになってほしい”って」
一貴は、しばらく何も言えなかった。
やがて、遺影へ視線を落として、小さく笑った。
「……幸枝らしい」
それしか言えなかった。
でも、その一言の中に、全部があった。
今日子も、泣きながら笑う。
「ほんまに、あの子らしいねえ」
「余計なお世話まで焼いて」
控室に、小さな、あたたかい笑いが広がる。
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10 夢のあと
こうして、失われた未来と、続いていく未来が、同じ場所に並んだ。
幸枝はもういない。
その事実は一生変わらない。
でも、幸枝が愛した人たちは、生きていく。
結婚し、子どもを授かり、新しい朝を迎える。
それは裏切りではない。
むしろ、幸枝がいちばん望んでいたことなのかもしれない。
夢のあと。
そこから始まるのは、忘却ではなく、
覚えているまま生きる未来だった。




