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戻らない日常  作者: リンダ


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空白の席


第45話「空白の席」


 秋は、気づかないうちに深まっていく。


 夏の名残がまだ少しだけ残る日差しの中に、

 ふと冷たい風が混じる。

 空の高さが変わる。

 庭の色が変わる。


 幸枝がいないまま、季節だけが静かに進んでいく。

 そのことに、加賀家の誰もが、まだ完全には慣れていなかった。



1 キバナコスモス


 九月の終わり。

 加賀家の庭に、キバナコスモスが花を咲かせていた。


 鮮やかな黄色。

 秋の光を受けて、やわらかく揺れている。


 今日子は朝、庭に出て、その花を見つめた。


「咲いたねえ……」


 その声に、龍樹も縁側へ出てくる。

 少し遅れて充も顔を出した。


「これ、幸枝が植えたやつよね」

 今日子が言う。


「うん」

 充が答える。

「“黄色い花、元気出るけん好き”って言うてたやつ」


 今日子は、花の前にしゃがみこむ。


 黄色い花が好きだった幸枝。

 ひまわりも好きだった。

 キバナコスモスも、きっとこの色が好きで植えたのだろう。


「ちゃんと咲くんやね」

 今日子が、泣くでもなく笑うでもない顔で言う。

「幸枝がおらんでも」


 その言葉は、どこか寂しくて、でもやさしかった。


 花は咲く。

 季節が来れば、咲く。

 それは残酷でもあり、救いでもある。



2 パティスリー・ミズノの来訪


 昼過ぎ、また加賀家のチャイムが鳴った。


 玄関を開けると、そこにはパティスリー・ミズノの店長とスタッフたちがいた。

 みんな、どこか少し誇らしそうな顔をしている。

 手には、大事そうに包んだ箱。


「こんにちは」

 店長が言う。

「また、新作ができました」


 今日子が目を丸くする。


「新作?」

「はい」

 先輩スタッフがうなずく。

「今回は、幸枝さんのレシピノートをかなり忠実に再現しました」


 居間へ通す。

 遺影と位牌の前に、自然とみんなが頭を下げる。

 そして箱が開かれる。


「……まあ」


 今日子の口から、思わず声が漏れた。


 そこに並んでいたのは、

 どら焼きだった。



3 幸枝どら焼き


 ただのどら焼きではない。


 ふっくら焼かれた皮の中に、上品なこし餡。

 そこへ、栗の甘みと香り。

 さらに、甘さを抑えたホイップクリームが静かに添えられている。


 和菓子の落ち着きと、洋菓子のやわらかさ。

 どちらにも寄りすぎず、でもちゃんと“おやつの幸せ”がある。


「これ……」

 一貴が箱をのぞき込む。

「どら焼き?」

「はい」

 店長が答える。

「幸枝さんのノートに、“和菓子と洋菓子のあいだにあるおやつが作りたい”って書いてあって」

「その中でも、かなり具体的に残っていたのがこれでした」


 スタッフがノートのコピーを見せる。


* こし餡がいい

* 栗を入れる

* でも重たすぎないように

* 生クリームじゃなくて、甘さを引いたホイップ

* お茶にもコーヒーにも合うやつ


 その言葉を見ただけで、そこに幸枝がいる気がする。


「うわあ……」

 充が息をつく。

「めっちゃ言いそう」

「“お茶にもコーヒーにも合うやつ”って、そのまんまやん」

 星羅が笑う。


 店長は静かに言った。


「名前、もう決めてます」

「幸枝どら焼きです」


 今日子の目が、また潤む。



4 試食会


 いつものように、試食会が始まる。


 皮を割る。

 あんこのきめ細かさ。

 栗のほくりとした甘み。

 ホイップの軽さ。


 口に入れた瞬間、今日子がすぐに言った。


「……ああ、幸枝や」


 みんな少し笑う。

 でも、その言葉がいちばん正確だった。


「この子、こういうの好きそう」

 龍樹が言う。

「好き、じゃなくて、作りそう」

 一貴が訂正する。

「たしかに」

 充がうなずく。

「しかも、絶対“どら焼きって地味に見えるけど、舐めたらいかんのよ”とか言う」


 スタッフが涙ぐみながら笑った。


「それ、ほんとに言ってそうです」

「言うなあ」

 百合愛まで笑う。


 そうしてみんなで食べているのに、

 やっぱりひとつ、空白の席がある。


 食卓の端。

 以前ならそこから、

 「ちょっと、一貴食べるの早い!」

 とか、

 「お兄ちゃん、もっと味わって食べり!」

 とか、

 いちばん先にツッコミが飛んできたはずの場所。


 今日子がその空席を見て、でも今度は泣かなかった。


「ここにおる気はするんやけどねえ」


 その言葉に、みんなが静かにうなずいた。



5 空白の席


 空席は、もう消えない。


 それはもう、加賀家の食卓の一部になっていた。

 誰かが無理に埋めるものではない。

 埋められるものでもない。


 でも最近、少しだけ変わったことがある。


 その席を見ても、もうただ絶望するだけではなくなった。

 そこに座っていた人が何を言ったか、どう笑ったか、何が好きだったかを、自然に話せるようになってきたのだ。


 空白の席は、喪失の証であると同時に、

 幸枝の記憶が集まる場所にもなり始めていた。


 一貴がどら焼きを食べながら、いつものように一口が大きかった。


「ちょい待て」

 充が言う。

「え?」

「今、幸枝なら絶対ツッコんどる」

「何て?」

「“一貴、ちょい食べすぎ!もっと味わって食べんかい!”」

 星羅が、すぐその口調を真似る。


 みんなが吹き出す。

 一貴も、苦笑しながら言う。


「……言うな」

「めっちゃ言う」

 百合愛がうなずく。

「“お兄ちゃんも、なんで一気に食べるかなぁ”って絶対言う」


 そして、その笑いの中で、空席は空席のまま、でも少しだけあたたかくなっていた。



6 天獄


 場所は変わる。


 高く、やわらかな光の中。

 天獄。


 幸枝は、下界をのぞき込むようにしていた。


 加賀家の居間。

 テーブルの上のどら焼き。

 一貴の食べ方。

 充のツッコミ。

 星羅の笑い声。

 百合愛のうなずき。


 それを見て、幸枝は思わず吹き出す。


「一貴、ちょい食べすぎ!」

「もっと味わって食べんかい!」


 その言い方が、あまりにも“そのまま”だった。


「お兄ちゃんもさあ、なんで一気に食べるかなぁ」

「もー、二人とも落ち着いて食べりって」


 そして視線は星羅へ向く。


「早く星羅さんと結婚しなさいよ、もう」

「星羅さんを待たすんじゃなーい!」


 そのツッコミを聞いたら、充は絶対真っ赤になるだろう。

 一貴も、苦笑いしてごまかすに違いない。

 幸枝はそう思って、少しだけ得意げに笑う。


 悲しみは、下界にまだたくさんある。

 でも、こうしてみんなが笑えていることが、幸枝には何よりうれしかった。


「うん」

 小さくつぶやく。

「ちゃんと、生きとるね」


 その声は、誰にも届かない。

 でも、不思議と、下界のみんなの胸の奥には、ほんの少しだけやさしく響いたような気がした。



7 秋の光


 夕方、パティスリー・ミズノの面々が帰ったあと。

 加賀家の庭では、キバナコスモスが揺れていた。


 黄色い花。

 幸枝が好きだった色。

 その向こうには、少しずつ深まる秋の光。


 今日子は、庭先で小さく言う。


「幸枝」

「また新しいの、届いたよ」


 返事はない。

 でも、今はそれでいい気がした。


 空白の席は残っている。

 それでも、そこへ集まる言葉も、味も、笑いも、少しずつ増えている。


 それが、遺された者たちの秋だった。



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