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戻らない日常  作者: リンダ


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それでも生きていく

 第41話「それでも生きていく」


 長い戦いだった。


 刑事裁判。

 民事裁判。

 SNSでの誹謗中傷への対応。

 内容証明。

 証言。

 写真。

 書類。

 位牌の前で泣いた夜。

 法廷へ向かう朝。

 何度も開かれた傷口。


 それがようやく、一応の区切りを迎えていた。


 完全に納得した者は、誰もいない。

 納得できるはずもない。

 でも、法の上では、ひとつずつ決着がついていく。


 加賀家も、一貴も、石田家も、江守家も、

 長く張りつめていた糸が少しだけゆるんだような、

 そんな疲労の深い日々の中にいた。


 1 民事の決着


 太田大地本人に対する民事裁判。

 親族をめぐる訴訟。

 支払い能力の調査。

 SNSの投稿者たちへの責任追及。


 全部が、きれいな形ではないにせよ、ようやく一応の決着を見た。


 大地側の関係者たちも、最後には支払いに応じる形になった。

 それは“心から納得して”ではない。

 不満も、怒りも、巻き込まれた感覚も残っている。

 それでも、裁判で確定した責任からは逃れられないと、最終的には受け入れざるを得なかった。


 滝沢恵が、最後の整理書面を閉じて言う。


「これで、法的な意味では大きな山は越えました」

「……そうですか」

 今日子が小さく答える。


 山を越えた。

 そう言われても、晴れ晴れとはしない。

 ただ、長い長い坂道を、ようやく少しだけ下り始めたような感覚だった。


 充が低く言う。


「終わった、って言うより」

「やっと止まった、って感じやな」


 一貴もうなずく。


「うん」

「ずっと殴られ続けてたのが、ようやく一回止まったみたいな」


 その表現が、いちばん近かった。


 2 死刑囚・太田大地


 一方で、太田大地の時間も変わっていた。


 死刑が確定した当初、大地の中には、どこか現実感の薄いところがあった。

 どうせすぐには執行されない。

 恩赦だってあるかもしれない。

 自分だけは何となく先へ延びる。

 そんな根拠のない感覚が、まだ残っていた。


 だが、拘置所での時間は、その甘さを少しずつ削っていく。


 朝が来る。

 食事が出る。

 決まった時間が流れる。

 何も起きない日が続く。

 だからこそ逆に、

 いつ来るか分からない“その日”

 が、日ごとに大きくなっていく。


 ある朝、大地は食堂で、隣の列にいた死刑囚の顔を見た。

 何度か同じ時間帯で見かけた男だった。

 別に親しかったわけではない。

 言葉を交わしたこともない。

 それでも、“そこにいた顔”として覚えていた。


 翌日、その男の姿がなかった。


 その翌日も、いない。

 そして職員たちの空気と、収容区のざらついた静けさの中で、大地は知る。


 執行された。


 その事実が、初めて、大地の胸の奥へ本物の恐怖として落ちた。


「……俺は、いつだ」


 明日か。

 一か月後か。

 一年後か。

 五年後か。

 それとももっと先か。


 分からない。

 だから怖い。


 死刑とは、判決そのものよりも、

 いつ来るか分からない死を、自分のすぐ近くに置かれ続ける刑

 なのだと、大地はようやく体で知り始める。


 夜、眠ろうとすると、ふいにその男の空いた場所が浮かぶ。

 朝、職員の足音が近づくたび、喉がひりつく。

 呼ばれたら終わりだ。

 でも今日は違う。

 じゃあ次か。

 その次か。


 死の恐怖が、ようやく、じわじわと頭を侵し始めていた。


 3 少しずつ戻る家


 加賀家では、ほんの少しずつだが、日常が戻りつつあった。


 今日子は台所に立つ時間が増えた。

 毎日ではない。

 でも、味噌汁を作って、煮物を煮て、時々はちゃんと焼き魚を並べる日もある。


 龍樹も、以前より少しだけ食卓で言葉を発するようになった。

 充も、無理にではなく、自然に星羅と話せる時間が増えてきた。

 一貴もまた、加賀家へ来た時、以前ほど体を固くしなくなっていた。


 もちろん、元通りではない。

 笑い方は変わった。

 沈黙の意味も変わった。

 食卓の空席も、完全に消えたわけではない。


 でも、それでも生活は少しずつ形を取り戻し始めていた。


 それは“乗り越えた”のではなく、

 壊れたまま、暮らす方法を覚え始めた

 ということだった。


 4 幸枝のスマホ


 そんなある日だった。


 今日子が、これまでほとんど触れられずにいた幸枝のスマホを、久しぶりに手に取った。

 ロック解除の方法は家族も知っている。

 でも、開けばいろんなものが流れ込んでくる気がして、ずっと避けていたのだ。


「……見てみようか」

 今日子が言う。


 充も、一貴も、龍樹も、自然と近くへ寄る。

 画面を開く。

 写真。

 メモ。

 店のレシピ写真。

 花壇。

 空。

 カフェのケーキ。

 百合愛との買い物のスナップ。

 一貴との何気ないやりとり。


 どれも、幸枝の生活そのものだった。


 そして、その中に一本の動画があった。


「これ……」

 充が小さく言う。


 再生する。


 カラオケ店の画面。

 曲の最後。

 採点の結果が表示されて、

 100点。


 その瞬間、幸枝が思いきり笑い声をあげる。


「やったあああ!」


 あの明るい声。

 あの屈託のない笑い方。

 画面の向こうで、満点の表示を指さしながら、ピースして、

「見て見て!」

 と騒いでいる。


 その顔が、あまりにも“幸枝そのもの”だった。


 今日子が、泣きながら笑う。


「この顔……」

「ほんまに、幸枝やねえ……」


 充も、顔をくしゃくしゃにしながら笑った。


「めっちゃ自慢しとるやん」

「するよ」

 一貴が、目を赤くしたまま答える。

「絶対する」


 龍樹まで、ほんの少し口元をゆるめた。


「調子に乗っとる顔しとる」


 その言い方があまりにも龍樹らしくて、

 みんな少しだけ、ちゃんと笑った。


 5 試写会


 その動画は、一回だけで終わらなかった。


「みんなにも見てもらおうか」

 星羅が言う。


「うん」

 今日子が答える。

「試写会みたいにして」


 そうして、数日後。

 加賀家に、江守家、石田家、洋菓子店の面々まで集まって、

 小さな“幸枝スマホ動画試写会”が開かれることになった。


 テレビにつなぎ、スマホの映像を映す。

 写真や動画が順番に流れる。


 店での試作。

 ひまわり。

 コスモス。

 百合愛との買い物。

 星羅とのおしゃべり。

 一貴とのふざけたやりとり。

 そして、カラオケで満点を取って大笑いしている動画。


 笑い声が部屋に響く。


 今度は“聞こえた気がした”ではない。

 たしかにそこに、幸枝の声がある。


 今日子は、涙を拭きながら言う。


「この笑い方、家でも同じやったよね」

「うん」

 百合愛が答える。

「ほんとに同じ」

「しかも、満点出たあと絶対しばらく引っ張るやつ」

 充が言う。

「“見て見て、もっかい見て”って」

 星羅が笑う。


 一貴は画面の中の幸枝を見ながら、静かに言う。


「こういうの、残っとってよかった」


 悲しい。

 でも、うれしい。

 苦しい。

 でも、ありがたい。


 そういう、ひとつにできない感情が、部屋の中に満ちていた。


 6 それでも生きていく


 試写会が終わったあと、誰もすぐには帰らなかった。

 幸枝の笑い声の余韻が、部屋にまだ残っている気がしたからだ。


 今日子が、位牌の前で小さく言う。


「幸枝」

「今日は、めっちゃ笑わせてもらったよ」


 それはもう、罪悪感のある笑いではなかった。

 もちろん、痛みが消えたわけじゃない。

 喪失はそのままある。

 でも、幸枝を思い出して笑うことは、もう裏切りではないのかもしれない。

 そう、少しだけ思えた。


 龍樹も、位牌の前に立って言う。


「お前の声、よう響いとった」


 充も、一貴も、星羅も、百合愛も、みんなそれぞれに幸枝へ話しかける。

 もう直接返事はない。

 でも、確かに何かは残っている。


 声。

 味。

 花の名前。

 好きだった歌。

 笑い方。

 夢。


 それらを抱えたまま、みんなは次の朝を迎えていく。


 完全な再生じゃない。

 きれいな回復でもない。

 でも、それでも生きていく。


 それが、幸枝を失った人たちの“新しい朝”だった。

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