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戻らない日常  作者: リンダ


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新しい朝

第40話「新しい朝」


 朝は来る。


 それがうれしい日もあれば、

 来てほしくない日もある。


 幸枝を失ってからの加賀家にとって、朝は長いあいだ“つらいもの”だった。

 起きても幸枝はいない。

 階段を下りる足音は聞こえない。

 「おはよう」と言っても、その明るい返事はもう返ってこない。


 それでも、人は朝を迎え続ける。

 悲しみを抱えたままでも、眠れぬ夜のあとでも、朝だけは必ずやってくる。


 そしてその朝が、ほんの少しだけ、別の意味を持つ日がある。



1 呼び鈴の朝


 その日、加賀家の朝は少しだけ慌ただしかった。


 インターホンが鳴る。

 まだ午前の早い時間だった。


 玄関を開けた今日子は、思わず目を見開く。


「まあ……!」


 そこに立っていたのは、パティスリー・ミズノの店長とスタッフたちだった。

 手には大きな箱や紙袋。

 そして、どこか緊張したような、それでいてやさしい顔。


「朝早くにすみません」

 店長が頭を下げる。

「でも、どうしても今日、お届けしたいものがありまして」


 今日子は慌てて中へ招き入れる。

 龍樹も、充も、一貴も、何事かと居間に集まってくる。


 そこに並べられたのは、いくつもの箱と、慎重に包まれた大きめのケーキ箱だった。



2 幸枝が残したレシピ


 店長は、箱を前にしてゆっくりと言う。


「幸枝さんが残していたレシピと、幸枝さんが使っていた道具、材料の記録をもとに、ひとつのケーキを仕上げました」


 今日子が息を呑む。

 充も、一貴も、自然と背筋を伸ばす。


 スタッフのひとりが、そっと箱を開けた。


 中には、モンブランがあった。


 でも、それはただのモンブランではなかった。

 和栗の香りを軸に、甘さを抑えた小豆の餡子を合わせた、やわらかな和モダンの一品。

 土台は軽く、けれど芯のある生地。

 栗の風味を立てるために甘みは引き算され、代わりにあんこのやさしい深みが全体を包んでいる。


 秋の気配を先取りしたような、静かで上品なケーキだった。


「……これ」

 今日子の目が潤む。


 店長がうなずく。


「幸枝さんが、何度も試行錯誤していたレシピです」

「“和菓子みたいな落ち着きもあるのに、ちゃんと洋菓子としてときめくものを作りたい”って、そう言っていました」


 一貴が、少し前に聞いたことを思い出す。

 幸枝がモンブランの話をしていた日。

 栗は濃いほうがいいか、あんこは重すぎるか、でも甘さを抑えたら大人っぽくなるかもしれない――

 そんなことを、目を輝かせながら話していた。


「……幸枝らしい」

 一貴が小さく言う。



3 幸枝モンブラン


 店長は、静かに続ける。


「このケーキ、名前をつけました」

「幸枝モンブランです」


 部屋の空気が一瞬止まる。


 その名前の響きだけで、今日子はもう耐えきれず涙を流した。

 龍樹も目を閉じる。

 充は唇を噛む。

 一貴は、まっすぐケーキを見つめたまま動けない。


「幸枝さんがここまで考えて、ここまで形にしていた」

「だったら、これはもう、幸枝さんのケーキだと思いました」

 店長はそう言った。


 それは勝手な美談ではない。

 幸枝が本当に残していた手書きのメモ、試作の記録、分量の修正、味の感想。

 それら全部が積み重なって、このケーキになっている。


 幸枝はもういない。

 でも、幸枝の手はここに残っている。



4 辞令


 そこで店長が、もうひとつ封筒を取り出した。


 白い封筒。

 きちんと整えられた紙。


「もうひとつ、お渡ししたいものがあります」


 店長は立ち上がる。

 自然と、みんなも姿勢を正した。


 店長は封筒から紙を取り出し、はっきりと読み上げる。


「辞令」

「加賀幸枝、貴殿をパティスリー・ミズノのパティシエに任命する」


 部屋の中に、その言葉が静かに響く。


「貴殿は在籍中、真摯に菓子作りへ向き合い、懸命な試行錯誤を重ね、当店に多くの学びと誠実さを残した」

「よってここに、その努力と志を称え、正式にパティシエとして任命する」


 読み上げ終えたあと、店長はその辞令書を、遺影の前へそっと差し出した。


「……幸枝さん」

「遅くなってしまいましたが、受け取ってください」


 今日子はその場で泣き崩れそうになった。

 でも今回は、ただ壊れるだけではなかった。

 涙の中に、誇らしさが混じっていた。


「よかったねえ、幸枝……」

 そう言う声は、泣きながらなのに、どこか笑っていた。


 龍樹も、遺影に向かって小さくうなずく。


「よう頑張ったな」


 充は声を詰まらせながら言う。


「お前、ちゃんとパティシエになれたじゃんか」


 一貴は、遺影を見つめたまま、ようやく絞るように言った。


「おめでとう」

「ほんまに……おめでとう」



5 試食会


 そのあと、みんなで幸枝モンブランの試食会が始まった。


 今日子が最初のひと口を食べる。

 栗のやさしい香りが広がり、そのあとから小豆の餡子が静かに追いかけてくる。

 甘すぎない。

 でも、ちゃんと深い。

 和菓子の落ち着きと洋菓子の軽やかさが、ちょうどいいところで手をつないでいる。


「……おいしい」

 今日子が泣きながら言う。

「幸枝じゃ」

「この甘さ、幸枝じゃ……」


 充も食べる。

 一貴も。

 龍樹も。

 江守家、石田家の面々も、店のスタッフも。


 誰もが、味を通して幸枝を感じていた。


「これ、絶対“甘すぎるのは嫌なんよね”って言いながら調整したやつ」

 星羅が言う。


「うん」

 一貴が少しだけ笑う。

「言う」

「しかも“でも地味は嫌”って」

 充が続ける。


 その言い方があまりにも幸枝らしくて、スタッフたちも涙ぐみながら笑った。


 少しではあるが、みんな笑うことができた。


 悲しみはなくならない。

 でも、その悲しみの中に、たしかに幸枝の味があった。



6 加賀家での試作品会


 店長は、試食会のあとで提案した。


「これから、試作品の試食会を、時々この加賀家でやらせてもらえませんか」

「……え?」

 今日子が目を丸くする。


「幸枝さんが、この家に何度もケーキを持ち帰って、感想を聞いていたって話、よく聞いていました」

「だったら、その時間を途切れさせたくないんです」

「ここで、みんなで食べて、話して、笑って、時々泣いて」

「そういう試食会を続けたい」


 今日子はしばらく言葉を失った。

 でも、その提案の意味はすぐに分かった。


 幸枝がしていたことを、少しずつでもこの家に残していく。

 幸枝の不在を埋めるのではなく、

 幸枝のいた時間を、別の形で続けていく。


「……うれしい」

 今日子が泣きながら答える。

「ぜひ、そうしてください」


 龍樹も深くうなずいた。


「ここ、いつでも使ってください」

「幸枝も、たぶんそれ喜ぶ」


 一貴も言う。


「俺も来ていいですか」

「もちろん」

 店長が答える。

「幸枝さんの大事な人たちみんなで、続けていきましょう」



7 新しい朝


 その日が終わったあと、加賀家には不思議な静けさが残った。


 悲しみはまだある。

 涙も、怒りも、喪失も、消えていない。

 でも、その中にひとつだけ、以前にはなかったものがあった。


 続いていくもの。


 幸枝はもう帰ってこない。

 それは変わらない。

 けれど、幸枝が残した味や、言葉や、夢のかけらは、

 確かに誰かの手の中で続いていく。


 それは再生ではない。

 前みたいに戻ることでもない。

 でも、止まっていた朝に、ほんの少しだけ新しい光が差したような日だった。


 今日子は夜、位牌の前で辞令書を見ながら言う。


「幸枝」

「今日ね、あんた、ちゃんとパティシエになれたよ」


 返事はない。

 でも、今日はその沈黙が、少しだけあたたかく感じられた。

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