ありがとうの連鎖
第39話「ありがとうの連鎖」
人は、壊れたあとすぐに感謝なんてできない。
支えられていることは分かっていても、
それを“ありがたい”と思う前に、
苦しい、つらい、しんどい、どうして、で胸がいっぱいになる。
だから、ありがとうと言えるようになるのは、
ほんの少しだけ、呼吸の仕方を思い出したあとだ。
この回は、その小さな変化の話だった。
1 位牌の前の言葉
朝。
今日子はいつものように位牌の前に座っていた。
線香の煙が細く立ちのぼる。
花の水を替え、少しだけ供え物の位置を直して、それから手を合わせる。
「幸枝」
小さく呼ぶ。
「昨日ね、また店長さんから連絡があったんよ」
「みんな、まだあんたのこと気にかけてくれとる」
少し前までは、こういう報告のたびに涙が先に出ていた。
今も泣くことはある。
でも最近は、それに加えて別の感情が混じるようになっていた。
「ありがたいねえ」
その言葉を口にした瞬間、今日子自身が少しだけ驚く。
悲しい。
苦しい。
悔しい。
それは今も変わらない。
でもその中で、
支えてくれている人がいる
と、ようやくちゃんと感じられるようになってきたのだ。
幸枝の死が、ありがとうなんて言葉で包めるはずはない。
でも、ありがとうと言わなければ伝わらないものもある。
2 洋菓子店へ
その日、加賀家と一貴は、久しぶりにパティスリー・ミズノを訪れた。
店の前に立つだけで、みんな少し息を止める。
幸枝が毎日通っていた場所。
夢に向かって、懸命に働いていた場所。
でも今日は、ただ苦しいだけではなかった。
この店の人たちが、どれだけ加賀家と一貴を支えてくれたか、
それをちゃんと伝えに来たのだ。
店長が出てきて、少し照れたように笑う。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
今日子が頭を下げる。
店の中には、幸枝がいた頃と同じ甘い匂いがしている。
ショーケースには季節のケーキが並び、厨房の奥からは焼き菓子の香りが流れてくる。
その空気の中で、今日子は深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました」
「幸枝がいなくなってからも、ずっと支えてもらって」
「店のみなさんがおらんかったら、うちはもっと壊れとったと思います」
店長はすぐに首を振る。
「こちらこそです」
「幸枝さんは、うちの大事なスタッフでした」
「今も、そう思ってます」
先輩スタッフのひとりも言う。
「幸枝さん、ほんまによく頑張ってたんです」
「たまに抜けとるとこもあったけど、それがまた……」
そこで少しだけ笑いが起きる。
その笑いに、今日子の目に涙がにじむ。
でもその涙は、ただ沈むだけの涙ではなかった。
3 一貴のありがとう
一貴は、店の厨房の入口をしばらく見つめていた。
そこに幸枝が立っていた姿を、今でも簡単に思い出せる。
「……ありがとうございました」
一貴がやっと言った。
「幸枝、ここで働けて幸せだったと思います」
「店のこと、よく話してたんで」
「先輩がこう言ってたとか、今日こういうケーキ作ったとか」
「ほんまに楽しそうでした」
店長は、一貴の顔を見て静かにうなずく。
「幸枝さんのこと、こっちも忘れません」
「これからも、ちゃんと名前出します」
その言葉に、一貴は少しだけ視線を落とした。
“忘れない”と言ってくれる人がいる。
そのことが、今はただありがたかった。
4 石田家と江守家
石田家にも、江守家にも、加賀家は少しずつありがとうを言えるようになってきていた。
星羅に対して、充はある日、照れくさそうに言った。
「……ありがとな」
「何が?」
「いろいろ」
「ざっくりしすぎ」
「分かるじゃろ」
星羅は少し笑って、それからちゃんと答えた。
「うん、分かる」
百合愛も、今日子に抱きつくようにして言う。
「私も、幸枝さんのこと忘れんけぇ」
「うん……」
「で、今日子さんがしんどい時は、私、何回でも行くけぇね」
江守家の小百合も、一也も、加賀家に来るたびに余計なことは言わず、でも必ずいてくれた。
その“いる”ことの重さが、今の加賀家にはよく分かる。
ありがとう。
その言葉はまだうまく言えない時もある。
でも、心の中ではもう、何度も繰り返していた。
5 民事の法廷、親族たち
一方で、太田大地の親族に対する民事裁判も、ようやく本格的に始まっていた。
呼び出しに応じなかった者たちも、内容証明郵便と正式な手続きによって、ついに出廷せざるを得なくなる。
法廷には、大地の叔父、叔母、親族の若者たちも並んでいた。
その表情にあるのは、怒り、困惑、疲弊、そしてどうにもならない巻き込まれ感だった。
最初に口火を切ったのは、叔父のひとりだった。
「なんで俺らまでなんですか」
「大地がやったことだろ?」
「俺たちの生活も、“死刑囚が身内にいる”ってだけで崩壊してるんだよ!」
その声には、本気の苦しさが混じっていた。
仕事先での視線。
近所の噂。
親族関係の崩壊。
それらが現実に起きているのはたしかだった。
しかし加賀家と一貴にとって、その訴えはまっすぐ受け取れるものではなかった。
充の顔が固くなる。
龍樹は一点を見つめたまま、口を開かない。
今日子はただ、胸の奥が重くなるのを感じていた。
そこで、若い女性が涙混じりに言った。
「私は、大学でやりたいことがあった」
「将来の夢もあった」
「でも、あいつのせいで全部壊れた」
「親族ってだけで見られて、避けられて、内定もだめになって……」
「これ以上、なんで私たちまで奪われなきゃいけないんですか?」
法廷の空気が揺れる。
その言葉もまた、ある意味では真実だった。
加害者の親族であるというだけで、人生を壊される者がいる。
その現実もまた、この事件が生んだ二次的な破壊のひとつだった。
6 怒号の飛ぶ法廷
だが、その苦しみがそのまま加賀家とぶつかると、法廷は一気に緊張した。
「こっちだって全部壊されとるんよ!」
充が思わず声を上げる。
裁判長が制止を促す。
でも、感情は簡単には止まらない。
「幸枝は帰ってこんのんよ」
「夢が壊れた? 将来が潰れた?」
「こっちは、命ごと奪われとるんじゃ!」
一貴も、顔を強張らせたまま言う。
「巻き込まれたって言うなら、幸枝はどうなる」
「何の関係もないのに、人生ごと奪われたんだぞ」
そこへ、今度は親族側からも感情的な反発が出る。
「だからって、俺らが全部背負うのかよ!」
「加害者本人のせいだろ!」
怒号が飛び交う。
法廷としては最悪に近い空気だった。
だが、その怒号にはそれぞれの“本当”が混じっている。
加賀家側の怒りも本当。
親族側の巻き込まれた苦しみも本当。
だからこそ、誰か一人を簡単に悪者にして終われない。
ただ、事件が起きたことで、複数の人生が同時に壊れているという現実だけが、そこにむき出しであった。
7 滝沢恵の整理
その混乱を、滝沢恵が冷静に整えた。
「感情のぶつかり合いで終わらせてはいけません」
「本件で最も重大な被害を受けたのは、命を奪われた加賀幸枝さんと、そのご遺族です」
「そのことは絶対に動きません」
そのうえで、親族側を見て続ける。
「ただし、親族の皆さんが“自分たちも人生を壊された”と感じていること自体は理解できます」
「問題は、その壊れた人生の責任を、誰がどこまで負うべきか、という法的整理です」
怒鳴り返すのではなく、
誰の苦しみを消すでもなく、
ひとつずつ位置を定めていく。
それが弁護士の仕事だった。
法廷の空気が、少しずつ元に戻っていく。
8 ありがとうの連鎖
その日の夜。
加賀家では、また位牌の前に集まった。
今日は、法廷でひどく疲れた。
怒りも、やるせなさも、消えない。
でも今日子は、ふと口にした。
「いろんな人がおるね」
「……」
「しんどい人も、怒っとる人も、でも、それでもうちを支えてくれる人もおる」
龍樹が静かにうなずく。
「支えられとるな」
充も言う。
「幸枝がおらんくなって、初めて分かったわ」
「助けてもらうって、こういうことなんやなって」
一貴は、少しだけ位牌に近づいて言う。
「幸枝」
「お前がおったから、こうやって人がつながっとるんやろうな」
それは、きれいごとではない。
事件がなければ、こんなつながり方は望まなかった。
でも、それでも今、自分たちが倒れ切らずにいられるのは、
確かに周囲の支えがあるからだった。
ありがとう。
その言葉が、今ようやく、少しずつ輪になり始めていた。
9 それでも続く
法廷も、生活も、感情も、まだ続く。
きれいには終わらない。
和解もしない。
許しにもたどり着かない。
それでも、人は誰かに支えられ、誰かへ感謝しながら、
壊れたままの人生を進めていくしかない。
それが、この回の静かな答えだった。




