表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戻らない日常  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/44

ありがとうの連鎖

 第39話「ありがとうの連鎖」


 人は、壊れたあとすぐに感謝なんてできない。


 支えられていることは分かっていても、

 それを“ありがたい”と思う前に、

 苦しい、つらい、しんどい、どうして、で胸がいっぱいになる。


 だから、ありがとうと言えるようになるのは、

 ほんの少しだけ、呼吸の仕方を思い出したあとだ。


 この回は、その小さな変化の話だった。


 1 位牌の前の言葉


 朝。

 今日子はいつものように位牌の前に座っていた。


 線香の煙が細く立ちのぼる。

 花の水を替え、少しだけ供え物の位置を直して、それから手を合わせる。


「幸枝」

 小さく呼ぶ。

「昨日ね、また店長さんから連絡があったんよ」

「みんな、まだあんたのこと気にかけてくれとる」


 少し前までは、こういう報告のたびに涙が先に出ていた。

 今も泣くことはある。

 でも最近は、それに加えて別の感情が混じるようになっていた。


「ありがたいねえ」


 その言葉を口にした瞬間、今日子自身が少しだけ驚く。

 悲しい。

 苦しい。

 悔しい。

 それは今も変わらない。


 でもその中で、

 支えてくれている人がいる

 と、ようやくちゃんと感じられるようになってきたのだ。


 幸枝の死が、ありがとうなんて言葉で包めるはずはない。

 でも、ありがとうと言わなければ伝わらないものもある。


 2 洋菓子店へ


 その日、加賀家と一貴は、久しぶりにパティスリー・ミズノを訪れた。


 店の前に立つだけで、みんな少し息を止める。

 幸枝が毎日通っていた場所。

 夢に向かって、懸命に働いていた場所。


 でも今日は、ただ苦しいだけではなかった。

 この店の人たちが、どれだけ加賀家と一貴を支えてくれたか、

 それをちゃんと伝えに来たのだ。


 店長が出てきて、少し照れたように笑う。


「どうぞ」

「ありがとうございます」

 今日子が頭を下げる。


 店の中には、幸枝がいた頃と同じ甘い匂いがしている。

 ショーケースには季節のケーキが並び、厨房の奥からは焼き菓子の香りが流れてくる。


 その空気の中で、今日子は深く頭を下げた。


「本当に……ありがとうございました」

「幸枝がいなくなってからも、ずっと支えてもらって」

「店のみなさんがおらんかったら、うちはもっと壊れとったと思います」


 店長はすぐに首を振る。


「こちらこそです」

「幸枝さんは、うちの大事なスタッフでした」

「今も、そう思ってます」


 先輩スタッフのひとりも言う。


「幸枝さん、ほんまによく頑張ってたんです」

「たまに抜けとるとこもあったけど、それがまた……」

 そこで少しだけ笑いが起きる。


 その笑いに、今日子の目に涙がにじむ。

 でもその涙は、ただ沈むだけの涙ではなかった。


 3 一貴のありがとう


 一貴は、店の厨房の入口をしばらく見つめていた。

 そこに幸枝が立っていた姿を、今でも簡単に思い出せる。


「……ありがとうございました」


 一貴がやっと言った。


「幸枝、ここで働けて幸せだったと思います」

「店のこと、よく話してたんで」

「先輩がこう言ってたとか、今日こういうケーキ作ったとか」

「ほんまに楽しそうでした」


 店長は、一貴の顔を見て静かにうなずく。


「幸枝さんのこと、こっちも忘れません」

「これからも、ちゃんと名前出します」


 その言葉に、一貴は少しだけ視線を落とした。

 “忘れない”と言ってくれる人がいる。

 そのことが、今はただありがたかった。


 4 石田家と江守家


 石田家にも、江守家にも、加賀家は少しずつありがとうを言えるようになってきていた。


 星羅に対して、充はある日、照れくさそうに言った。


「……ありがとな」

「何が?」

「いろいろ」

「ざっくりしすぎ」

「分かるじゃろ」


 星羅は少し笑って、それからちゃんと答えた。


「うん、分かる」


 百合愛も、今日子に抱きつくようにして言う。


「私も、幸枝さんのこと忘れんけぇ」

「うん……」

「で、今日子さんがしんどい時は、私、何回でも行くけぇね」


 江守家の小百合も、一也も、加賀家に来るたびに余計なことは言わず、でも必ずいてくれた。

 その“いる”ことの重さが、今の加賀家にはよく分かる。


 ありがとう。

 その言葉はまだうまく言えない時もある。

 でも、心の中ではもう、何度も繰り返していた。


 5 民事の法廷、親族たち


 一方で、太田大地の親族に対する民事裁判も、ようやく本格的に始まっていた。


 呼び出しに応じなかった者たちも、内容証明郵便と正式な手続きによって、ついに出廷せざるを得なくなる。


 法廷には、大地の叔父、叔母、親族の若者たちも並んでいた。

 その表情にあるのは、怒り、困惑、疲弊、そしてどうにもならない巻き込まれ感だった。


 最初に口火を切ったのは、叔父のひとりだった。


「なんで俺らまでなんですか」

「大地がやったことだろ?」

「俺たちの生活も、“死刑囚が身内にいる”ってだけで崩壊してるんだよ!」


 その声には、本気の苦しさが混じっていた。

 仕事先での視線。

 近所の噂。

 親族関係の崩壊。

 それらが現実に起きているのはたしかだった。


 しかし加賀家と一貴にとって、その訴えはまっすぐ受け取れるものではなかった。


 充の顔が固くなる。

 龍樹は一点を見つめたまま、口を開かない。

 今日子はただ、胸の奥が重くなるのを感じていた。


 そこで、若い女性が涙混じりに言った。


「私は、大学でやりたいことがあった」

「将来の夢もあった」

「でも、あいつのせいで全部壊れた」

「親族ってだけで見られて、避けられて、内定もだめになって……」

「これ以上、なんで私たちまで奪われなきゃいけないんですか?」


 法廷の空気が揺れる。


 その言葉もまた、ある意味では真実だった。

 加害者の親族であるというだけで、人生を壊される者がいる。

 その現実もまた、この事件が生んだ二次的な破壊のひとつだった。


 6 怒号の飛ぶ法廷


 だが、その苦しみがそのまま加賀家とぶつかると、法廷は一気に緊張した。


「こっちだって全部壊されとるんよ!」

 充が思わず声を上げる。


 裁判長が制止を促す。

 でも、感情は簡単には止まらない。


「幸枝は帰ってこんのんよ」

「夢が壊れた? 将来が潰れた?」

「こっちは、命ごと奪われとるんじゃ!」


 一貴も、顔を強張らせたまま言う。


「巻き込まれたって言うなら、幸枝はどうなる」

「何の関係もないのに、人生ごと奪われたんだぞ」


 そこへ、今度は親族側からも感情的な反発が出る。


「だからって、俺らが全部背負うのかよ!」

「加害者本人のせいだろ!」


 怒号が飛び交う。

 法廷としては最悪に近い空気だった。


 だが、その怒号にはそれぞれの“本当”が混じっている。

 加賀家側の怒りも本当。

 親族側の巻き込まれた苦しみも本当。


 だからこそ、誰か一人を簡単に悪者にして終われない。

 ただ、事件が起きたことで、複数の人生が同時に壊れているという現実だけが、そこにむき出しであった。


 7 滝沢恵の整理


 その混乱を、滝沢恵が冷静に整えた。


「感情のぶつかり合いで終わらせてはいけません」

「本件で最も重大な被害を受けたのは、命を奪われた加賀幸枝さんと、そのご遺族です」

「そのことは絶対に動きません」


 そのうえで、親族側を見て続ける。


「ただし、親族の皆さんが“自分たちも人生を壊された”と感じていること自体は理解できます」

「問題は、その壊れた人生の責任を、誰がどこまで負うべきか、という法的整理です」


 怒鳴り返すのではなく、

 誰の苦しみを消すでもなく、

 ひとつずつ位置を定めていく。


 それが弁護士の仕事だった。


 法廷の空気が、少しずつ元に戻っていく。


 8 ありがとうの連鎖


 その日の夜。

 加賀家では、また位牌の前に集まった。


 今日は、法廷でひどく疲れた。

 怒りも、やるせなさも、消えない。


 でも今日子は、ふと口にした。


「いろんな人がおるね」

「……」

「しんどい人も、怒っとる人も、でも、それでもうちを支えてくれる人もおる」


 龍樹が静かにうなずく。


「支えられとるな」


 充も言う。


「幸枝がおらんくなって、初めて分かったわ」

「助けてもらうって、こういうことなんやなって」


 一貴は、少しだけ位牌に近づいて言う。


「幸枝」

「お前がおったから、こうやって人がつながっとるんやろうな」


 それは、きれいごとではない。

 事件がなければ、こんなつながり方は望まなかった。

 でも、それでも今、自分たちが倒れ切らずにいられるのは、

 確かに周囲の支えがあるからだった。


 ありがとう。

 その言葉が、今ようやく、少しずつ輪になり始めていた。


 9 それでも続く


 法廷も、生活も、感情も、まだ続く。


 きれいには終わらない。

 和解もしない。

 許しにもたどり着かない。


 それでも、人は誰かに支えられ、誰かへ感謝しながら、

 壊れたままの人生を進めていくしかない。


 それが、この回の静かな答えだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ