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戻らない日常  作者: リンダ


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それでも季節は進む



『戻らない日常』


第38話「それでも季節は進む」


 夏は、いつの間にか終わりかけていた。


 あれほど強かった陽射しも、夕方になると少しやわらぐ。

 空の色が高くなり、風の匂いにもほんの少しだけ秋が混じり始める。


 季節は進む。

 何もなかったように。

 誰かを待つこともなく。


 加賀家も、江守家も、そのことを思い知っていた。

 幸枝がいなくても、時間は止まらない。

 止まらないまま、秋へ向かってしまう。



1 幸枝のいない時間


 加賀家では、以前ほど大きく泣き崩れることは少なくなっていた。

 けれど、それは悲しみが軽くなったわけではない。


 悲しみが、生活の中へ沈んでいったのだ。


 今日子は、朝に位牌へ手を合わせる。

 龍樹は仕事へ行き、帰ってきて、仏前の線香を見つめる。

 充は、妹の部屋の前を通るたびに、やっぱり少しだけ足を止める。

 一貴も、以前よりは話せるようになったが、幸枝の名前が出るたびに胸の奥が痛むのは変わらない。


 ただ、みんなもう、

 “この痛みを抱えたまま生きていく”

 ことを少しずつ覚え始めていた。



2 民事裁判の現実


 太田大地を相手にした民事裁判では、資産調査の結果が出ていた。


 預貯金、名義財産、換価可能な資産。

 関連する範囲まで洗っても、

 すべてを合わせて約二億円程度。


 四億円の請求には、到底足りない。


 滝沢恵が、加賀家と一貴に資料を見せながら説明する。


「現実に回収可能な範囲としては、かなり限界があります」

「それでも、法的責任の全体額は崩しません」

「支払えるかどうかと、負うべき責任の大きさは別です」


 充が資料を見たまま言う。


「二億でも足りん」

「うん」

 今日子が小さく答える。

「何億あっても、足りん」


 その言葉に、誰も反論しない。

 命は戻らない。

 幸枝の未来も、家族の壊れた時間も、数字で回収なんてできない。

 でも、それでも数字にしなければならない。

 それが民事裁判の冷たさだった。



3 大地の両親の決断


 太田大地の両親は、可能な限りの資産を売却して支払うことに同意した。


 父親名義の土地。

 母親の貯蓄。

 保険の解約返戻金。

 老後のために取っていたものまで、切り崩す話になる。


 それでも、加賀家も一貴も、

 「それで足りる」

 とは誰も思わない。


 ただ、大地の両親が初めて、

 謝罪を言葉ではなく、自分たちの生活を削る形で示した

 という意味はあった。


 だが、親族や兄弟姉妹の側は簡単には応じなかった。


「なぜ自分たちまで」

「法的に関係ない」

「巻き込まれたくない」


 そうした態度が相次ぎ、裁判はさらに複雑になる。


 滝沢恵は淡々と対応した。


「では、内容証明で正式に出廷を求めます」

「応じないなら、その姿勢自体も法廷で整理されます」


 内容証明郵便が送られていく。

 事態は、血縁全体に“逃げられない現実”として広がっていく。



4 SNS訴訟の判決


 一方、SNSで幸枝の名誉を毀損し、侮辱し、虚偽の情報を流布した者たちに対する裁判も、判決が出始めていた。


 悪質性の高い投稿者には、

禁錮刑から懲役3年までの実刑、

そして

100万円から1000万円までの罰金・損害賠償支払い

が命じられる。


 法廷が言ったのは明確だった。


 被害者は命を奪われた。

 にもかかわらず、その後さらに人格を傷つけ、遺族に二次被害を与えた行為は、軽いものではない。

 「ネットだから」で済む話ではない。


 判決文が読み上げられた時、充は少しだけ目を閉じた。


「……ようやく、か」


 一貴も静かにうなずく。


「幸枝のこと、好き勝手に言った連中が、やっと裁かれる」


 それは完全な救いではない。

 でも、少なくとも

 “死んだあとまで何を言われても泣き寝入りするしかない”

 という状況ではなくなった。



5 全国ニュースと再燃する批判


 だが、その判決が全国ニュースになると、

 また別の批判が湧き上がる。


* 厳しすぎるのではないか

* たかがSNSでここまでやるのか

* 金が欲しいだけだろ

* 遺族側もやりすぎでは

* 表現の自由を潰している


 また始まった。

 そう思うしかないほど、同じ構造の無責任さだった。


 今日子は、もう以前のようにいちいち画面を見て崩れはしなかった。

 その代わり、静かに言った。


「また、言うんやね」


 その静けさのほうが、かえって深かった。


 滝沢恵はすぐにコメントを出す。


「判決に対して虚偽に基づく誹謗中傷や、再び被害者および遺族の名誉を毀損する行為があれば、追加的な法的措置を躊躇なく取ります」

「すでに判決で示された通り、匿名の発信であっても責任は免れません」


 その文言は短い。

 でも強かった。


 もう、“好き勝手に言って逃げる時代ではない”

 という線を、法廷と弁護士が明確に引き始めていた。



6 それでも季節は進む


 そんな法の動きとは別に、季節は進んでいく。


 庭先では、夏の花が終わりかけていた。

 コスモスのつぼみが少しずつ増え、空は高くなり、朝晩の風がほんの少しだけ冷たくなる。


 今日子がある日、小さく言う。


「幸枝、コスモス好きじゃったね」


 龍樹がうなずく。


「ひまわりが終わったら、次はこれじゃ言うてな」


 その会話は、もう涙だけでは終わらなかった。

 悲しい。

 でも、ちゃんと話せる。

 それはほんのわずかな変化だった。


 一貴もまた、道端で咲き始めた花を見るたびに、

 幸枝なら何て言うだろうと考えるようになっていた。


 “いない”ことに慣れたわけではない。

 でも、“いないまま思い出す”ことが、少しだけ自然になってきていた。



7 警察官たちの訪問


 ある日、捜査と取り調べにあたっていた警察官たちが、加賀家を訪れた。


 村上誠司。

 佐伯真由。

 黒田雅史。

 水野しの。


 事件の捜査が一区切りつき、判決も確定し、彼らなりに“報告”をしに来たのだった。


 居間に通されると、四人は位牌の前で静かに頭を下げた。


 村上が言う。


「加賀幸枝さんの件について、判決が確定しました」

「私たちが担当した事件として、ひとつの区切りになります」


 そして、仏前に向かって深く頭を下げる。


「遅くなりました」

「ご報告に来ました」


 佐伯真由も、まっすぐ位牌を見て言う。


「幸枝さん」

「あなたのことは、忘れません」


 黒田雅史は短く、しかしはっきり言った。


「必ず裁く、という約束は果たせたと思っています」

「……でも、それで足りるとは思っていません」


 水野しのは、少し目を赤くしながら手を合わせていた。

 彼女にとっても、幸枝は単なる事件番号ではなくなっていた。


 今日子は、その姿を見て、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」

「……ほんとに」


 龍樹も言う。


「皆さんがおらんかったら、ここまで来れんかった」


 村上は静かに首を振る。


「それでも、戻ってくるわけではないですから」


 その言葉は、きれいごとを避けた、誠実な言葉だった。

 だからこそ、加賀家にも真っ直ぐ届いた。



8 仏前の報告


 警察官たちが帰ったあと、居間にはまた静かな空気が戻る。


 でも、その静けさは少しだけ違っていた。

 捜査にあたった人たちも、幸枝をただの事件として終わらせなかった。

 そのことが、ほんの少しだけ心を温めた。


 今日子は位牌の前に座り、言う。


「幸枝」

「ちゃんと報告しに来てくれたよ」

「みんな、あんたのこと忘れてなかったよ」


 充も隣で言う。


「お前、ちゃんと人の中に残っとる」


 一貴は少し遅れて位牌の前に立ち、静かに手を合わせた。


「幸枝」

「俺も、まだちゃんとおるけぇな」

「置いていかれたまんまじゃ終わらん」


 それは誓いというより、確認だった。

 幸枝がいなくても、残された側は時間を進めるしかない。

 でも、進むことは忘れることではない。



9 秋へ向かう


 夏の終わりから秋へ向かう風の中で、

 加賀家も、一貴も、江守家も、石田家も、少しずつ“幸枝のいない時間”を生きる形を覚え始めていた。


 法廷は続く。

 民事も終わっていない。

 SNSの対応もまだ残る。

 完全な終わりなどどこにもない。


 それでも季節は進む。


 幸枝のいない秋が来る。

 そのことを、少しずつ受け止めながら、

 みんなはまた次の朝を迎えていく。



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