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戻らない日常  作者: リンダ


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戻れない夏

 第37話「戻れない夏」


 夏は戻ってくる。


 蝉の声も、強い日差しも、坂道に立ちのぼる熱も、去年と同じようにやってくる。

 でも、その夏の中にいる人間は、もう去年とは同じではない。


 幸枝がいない夏。

 死刑判決が確定したあとの、最初の夏。

 それは、加賀家にも、江守家にも、石田家にも、まだうまく名前のつけられない季節だった。


 1 星羅の提案


 ある日、星羅が加賀家を訪ねてきた。


 玄関を開けた充は、以前より少し痩せて見えた。

 今日子の顔にも、まだ深い疲れが残っている。

 龍樹は変わらず寡黙だ。

 一貴も、最近は加賀家に顔を出すことが少し増えていたが、それでも笑顔は簡単には戻らない。


 星羅は、その全員の顔を見たうえで、少しだけ明るい声を出した。


「ねえ」

「今度、みんなで出かけん?」


 今日子が少しだけ驚いた顔をする。


「出かける?」

「うん」

「どこへ?」

「この前……じゃなくて、あの時みんなで行った喫茶店」

「あ……」

 今日子が小さく息を呑む。


 海の見える、小さな喫茶店。

 あの日、徳永英明の「壊れかけのRADIO」が流れて、今日子が昔の思い出を話した場所。

 幸枝も一緒にいた。

 笑って、しゃべって、コーヒーの匂いの中で過ごした、何でもない休日の午後。


「急にごめん」

 星羅が言う。

「でも、あそこ、またみんなで行きたいなって思って」

「……」

「幸枝がおった場所、もう一回ちゃんとみんなで行けたらなって」


 その提案に、すぐ返事は出なかった。

 行きたい気持ちもある。

 でも、行ったら壊れてしまいそうでもある。


 最初に口を開いたのは一貴だった。


「……行こう」

 その声は静かだった。

「行きたい」


 今日子は少しだけ目を伏せ、それからうなずく。


「うん」

「行こうか」


 龍樹も短く言う。


「ええと思う」


 充は、星羅の顔を見て少しだけ分かった。

 何か考えている。

 でも、それをあえて聞かないでおくことにした。


 2 星羅の内緒


 その喫茶店には、星羅が事前に連絡を入れていた。


 以前、みんなで来たこと。

 幸枝がその場にいたこと。

 そして今、またみんなで行きたいと思っていること。


 店主は事情を聞いて、すぐに言った。


「分かりました」

「その日は貸切にしましょう」

「ゆっくり使ってください」


 星羅は何度も頭を下げた。


 そしてもうひとつ、お願いをしていた。


 徳永英明の「壊れかけのRADIO」を流したい。


 去年の夏、ここでBGMとして流れていたあの曲。

 今日子が

「懐かしいねえ」

 と目を細めたあの時間。

 その時はまだ、誰も想像していなかった。

 あんなにも早く、“戻らない時間”になるなんて。


 星羅は、その曲をみんなで歌いたいと思っていた。

 サプライズで。

 今はまだ、誰にも言わない。


 3 喫茶店へ


 当日。

 空はきれいに晴れていた。


 加賀家、江守家、石田家の面々は、少し緊張したような顔でその喫茶店へ集まった。

 以前来た時と同じ、海の見える窓。

 木のテーブル。

 落ち着いた店内。

 観葉植物。

 変わらない空気。


 でも、やっぱりひとつだけ違う。

 幸枝がいない。


 その不在は、店に入った瞬間に全員の胸へ落ちた。

 ここで笑っていたのに。

 ここでプリンを食べていたのに。

 ここで、何気ない会話の中に未来が混じっていたのに。


 店の計らいで、今日は貸切だった。

 他の客の気配がない分、みんなは無理に平静を装わずにいられた。


 最初は少しぎこちなかった。

 でも、コーヒーや紅茶が運ばれ、プリンやケーキが並び、少しずつ会話が戻り始める。


「これ……幸枝、絶対好きだったよね」

 百合愛がクッキーを見て言う。


「言うね」

 一貴が、小さく笑う。

「“これ持って帰っていい?”って」


 その言い方があまりにも幸枝らしくて、みんな少しだけ笑った。


 今日子も涙ぐみながら言う。


「言う言う」

「しかも一個じゃなくて、ちゃっかり二個持って帰る」


 充もそこで、ようやく少し口元をゆるめた。


「で、“お兄ちゃんの分は?”って聞いたら、“知らん”って返すやつ」

「それ!」

 星羅が笑う。

「めっちゃ想像つく」


 ほんの少し。

 ほんとうに少しだけ。

 みんな、笑えた。


 それは事件前の笑い方とは違う。

 底に痛みを抱えたままの笑いだった。

 でも、それでも笑えたことは、たしかに意味があった。


 4 歌おう


 しばらくして、星羅がそっと立ち上がった。


「みんな」

「ん?」

 今日子が顔を上げる。


 星羅は、少しだけ照れたように笑う。


「今日、ひとつだけ、サプライズがあります」

「え?」

「店の方にも協力してもらいました」


 そこで店主が、控えめに音響の方へ手を伸ばす。


 イントロが流れ始める。


 やわらかくて、少し切なくて、でもどこか温かい旋律。


「壊れかけのRADIO」


 その曲が流れた瞬間、今日子が息を呑んだ。

 一貴も、充も、龍樹も、みんなすぐに分かった。


「あの時の……」

 今日子が小さく言う。


 星羅はうなずく。


「みんなで一緒に歌おう」

「幸枝のこと思いながら」


 誰もすぐには声を出せなかった。

 でも、曲は待ってくれない。

 イントロが進み、最初の歌い出しが近づいてくる。


 そして、今日子が最初に口を開いた。

 少し震える声で。

 次に星羅。

 百合愛。

 小百合。

 充。

 一貴。

 龍樹も、決して上手ではないけれど、低く声を重ねた。


 みんな、涙声だった。

 声が詰まるところもあった。

 歌えなくなる瞬間もあった。

 でも、そのたびにまた誰かが歌い始める。


 幸枝を思いながら。

 あの夏の喫茶店を思いながら。

 壊れてしまった日常と、それでも残っている記憶を思いながら。


 歌いながら、今日子は心の中で呼びかけていた。


 幸枝、聴いてる?


 一貴も同じだった。

 星羅も、百合愛も、みんなそれぞれに、

 歌の向こうに幸枝を思い浮かべていた。


 5 声がしたような気がした


 曲が終わりに近づいた頃だった。


 誰かが、本当にほんの一瞬だけ、

 あの明るい声で笑ったような気がした。


 気のせいかもしれない。

 思い込みかもしれない。

 でも、その場にいたみんなが、同じように顔を上げた。


 今日子が泣きながら笑う。


「……今」

「うん」

 星羅も涙を拭く。

「聞こえた気がした」


 百合愛は泣きながらうなずいた。


「幸枝さん、絶対“下手くそー!”って言ってる」

「言うな」

 充が、涙声のまま少しだけ笑う。

「めっちゃ言う」


 一貴も目を赤くしたまま、初めて少しだけ自然に笑った。


「“もっとちゃんと歌いんさい”ってな」

「そうそう」

 今日子が答える。

「で、自分がいちばん大きい声で歌うんよ」


 その会話の中に、幸枝はちゃんといた。


 もちろん、本当に声がしたわけではない。

 でも、たしかにそこにいる気がした。

 そう思えるほど、みんなの中で幸枝はまだ生きていた。


 6 戻れない夏、でも


 喫茶店を出る頃には、海の光が少しやわらかくなっていた。


 夏は戻ってきた。

 でも、去年の夏には戻れない。


 幸枝はもういない。

 死刑判決が確定しても、それは変わらない。

 痛みも、喪失も、消えてはいない。


 それでも今日、みんなは少しだけ笑った。

 少しだけ、一緒に歌えた。

 それは“立ち直った”ということではない。

 ただ、悲しみと一緒に息をすることを、少しだけ覚え始めたということだった。


 星羅は帰り際、心の中でそっと言う。


 幸枝、また来るけぇね。


 返事はない。

 でも、今日はそれでもよかった。

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