判決のあと
第35話「判決のあと」
判決が出ても、人生はきれいに区切れない。
死刑判決。
それは法廷が出せる最も重い答えだった。
けれど、その答えひとつで、喪失が終わるわけではない。
むしろ判決のあとに始まる苦しみもある。
控訴するのか。
判決は確定するのか。
民事はどうなるのか。
SNSで人を傷つけた者たちはどう裁かれるのか。
そして何より、裁かれたあとも残る、どうしようもない不在。
それが、この回の中心だった。
1 判決のあとの加賀家
死刑判決が出てから、少し時間が経った。
加賀家の空気は、一見すると以前より静かだった。
激しく泣き崩れる時間は減った。
法廷の前後の張りつめた時間も、ひとまず区切りがついた。
だが、それは癒えたという意味ではない。
むしろ、判決のあとだからこそ見えてくる喪失があった。
玄関には、やはり幸枝の気配がない。
台所には、やはり幸枝の声が戻らない。
食卓には、やはり幸枝の席が空いている。
今日子はある日、ふと位牌の前に座って言った。
「判決出たよ、幸枝」
「でもね」
「全然、終わった感じせんのよ」
それが本音だった。
龍樹も、仕事へ出て戻り、また位牌の前に立つ生活を続けていた。
充も、家に帰るたびに妹の部屋の前で一瞬足を止める。
一貴も、以前ほどではないにせよ、まだ日常へ戻りきれない。
判決は出た。
でも、幸枝がいないことだけは、毎日変わらなかった。
2 控訴の可能性
判決が出たあとも、加賀家と一貴を休ませるものはなかった。
「被告側に控訴の余地があります」
滝沢恵も、検察側も、それを隠さなかった。
法的には当然のことだ。
だが遺族にとっては、その“当然”がまた苦しい。
「まだ終わらんのんか」
充が言う。
「はい」
滝沢が静かに答える。
「判決が確定するまでは、終わりではありません」
今日子は、ただ目を閉じた。
やっとひとつの区切りがついたと思ったところに、
また“続くかもしれない”という現実を突きつけられる。
一貴も、低く言う。
「控訴されたら、また法廷か」
「……」
「また、幸枝のことを繰り返し聞かなきゃならんのか」
それが、遺族にとっての“判決のあと”だった。
安堵ではない。
ただ、次の不安が始まる時間。
3 大地のもとへ
その頃、拘置されている太田大地のもとへ、
弁護士の国分篤紀と、両親が面会に訪れていた。
判決後の接見。
テーマはひとつだった。
控訴するのか、しないのか。
面会室は以前よりさらに重い空気を帯びていた。
父も母も、もう以前のような「どうしてこんなことを」と取り乱す段階を過ぎていた。
そこにあるのは、もっと硬く、冷えた感情だった。
国分篤紀が、書類を整えながら話す。
「判決は重いものでした」
「ただ、控訴という手段は残されています」
「被告人には、その権利があります」
大地は黙って聞いていた。
だがその顔には、まだどこか納得していないような色が残っている。
「……一人殺したぐらいで」
ぽつりと言いかけた、その瞬間だった。
「黙れ!」
父親の声が、面会室に響いた。
大地が顔を上げる。
国分も一瞬、言葉を止める。
「今、何と言った」
父の目は、これまでに見たことがないほど鋭かった。
「一人“ぐらい”じゃない」
「お前は、一人の未来ある女性を殺した」
「そして、その家族も、婚約者も、周りの人間も、みんな地獄に落としたんじゃ」
母も、涙をこぼしながら、それでもはっきり言う。
「お前に残された道は、自分の命をもって償うことだけよ」
「それ以外、もうないの」
大地は、初めて少しだけ視線を揺らした。
4 親としてではなく
父親は続ける。
「控訴なんかするんじゃない」
「法が許そうが、制度が認めようが、俺は許さん」
その言葉には、父親としての愛情はもうなかった。
そこにいたのは、加害者の親である前に、
ひとりの人間として、息子のしたことを断罪する男だった。
「よそ様の大切な娘さんをめちゃくちゃにしておいて」
「まだ自分の権利を主張するのか」
「ふざけるな」
国分篤紀が、静かに口を開く。
「しかし、これは被告人に与えられた法的な……」
そこまで言いかけたところで、父親がまたはっきり遮った。
「権利だ?」
「よそ様の大切な家族に、あんなことをしておいて、まだ権利を主張することを」
「俺も家内も、許すことはない」
そして、短く言い切る。
「以上だ」
その言葉には、もうこれ以上議論する余地を残さなかった。
母も、静かにうなずく。
「私たちは、控訴してほしくない」
「せめて最後くらい、自分がやったことの重さから逃げないで」
大地は、何かを言い返そうとして、結局言葉にならなかった。
5 躊躇い
接見のあと、大地は面会室に残されたような気分で、しばらく動けなかった。
これまで、両親は責めても、どこかに“親”としての揺れがあった。
だが今日は違った。
父も母も、自分の側に立っていない。
むしろはっきりと、
死刑判決を受け入れろ
という側に立っていた。
その事実が、ようやく少しだけ大地の中を揺らした。
控訴する。
その言葉を出そうと思えば出せる。
法的にも権利はある。
国分篤紀も、その可能性を閉ざしてはいない。
だが、両親のあの言葉が頭から離れない。
自分の命をもって償え。
大地は、初めて“控訴すること”をためらった。
もちろん、それは深い反省からではないかもしれない。
自分の行為の本質を、まだ十分理解していないかもしれない。
それでも、両親にあそこまで言い切られたことは、確かに重かった。
6 民事は続く
一方、加賀家と一貴の側では、民事裁判が続いていた。
太田大地への四億円請求。
支払い能力がないと分かっていても、責任を法的に確定させるための訴訟。
さらに、SNSで幸枝の名誉を毀損し、侮辱し、勝手な憶測を流布した三十人に対する一億円請求。
こちらも終わっていない。
被告人たちは、それぞれに言い訳を並べる。
軽い気持ちだった。
本当にそうだと思った。
みんなが言っていた。
深く考えていなかった。
その“軽さ”が、今日子には恐ろしかった。
「幸枝は」
「そんな軽さで、死んだあとまで傷つけられたんよね」
滝沢恵ははっきり言う。
「だからこそ、法的に責任を問います」
「“軽い気持ちだった”では済まないと、示す必要があります」
その言葉は冷静だが、そこにも確かな怒りがあった。
7 終わらないSNS被害
SNSの傷は、判決が出ても消えなかった。
中には、死刑判決そのものに対しても、勝手な物言いをする投稿がある。
一人しか殺してないのに重すぎる
感情論で死刑にしただけでは
遺族も騒ぎすぎ
SNS訴訟までやるとかやりすぎでは
そのひとつひとつが、加賀家と一貴に新しい疲労を積み重ねる。
充は、ある日スマホを伏せて言った。
「終わらんな」
「何一つ」
龍樹が答える。
「終わらんよ」
「幸枝がおらん限り、簡単には」
その通りだった。
8 判決のあとに残るもの
死刑判決が出た。
加害者の親も、控訴するなと言った。
被告本人も、躊躇いを見せている。
法廷は、一応の方向を示した。
それでも、遺族に残るのは喪失だった。
玄関。
部屋。
台所。
食卓。
位牌。
骨壺。
全部が、
「幸枝はもう帰ってこない」
という事実を毎日少しずつ更新してくる。
裁かれたことと、喪失が癒えることは、まったく別なのだと、
家族はさらに深く知っていく。
9 判決のあと
第35話「判決のあと」は、
法廷の結論が出ても終わらない人生を描く回だった。
判決が出た。
でも喪失は消えない。
控訴の不安は残る。
民事は続く。
SNSの傷も終わらない。
そして何より、幸枝のいない明日が、また来る。
それが、この物語のいちばん残酷な部分だった。




