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戻らない日常  作者: リンダ


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判決」

第34話「判決」


 判決の日の朝は、妙に空が高かった。


 晴れている。

 風も強くない。

 まるで何事もない日のような空だった。


 そのことが、加賀家にも、一貴にも、江守家にも、石田家にも、洋菓子店の面々にも、どこか腹立たしかった。

 こんな日に、人生のひとつの“結論”が言い渡される。


 幸枝を奪った男に、

 国家が、法の言葉で、どう答えるのか。


⸻


1 法廷の朝


 裁判所へ向かう道は、前日よりもさらに静かだった。


 今日子は朝、位牌の前で

「行ってくるね」

とだけ言った。

 龍樹は

「ちゃんと聞いてくる」

と低く告げた。

 充も、一貴も、もう余計な言葉は口にしなかった。


 この日は、もう励ましもいらない。

 ただ、法廷へ行って、聞く。

 それだけだった。


 傍聴席には、加賀家、一貴、江守家、石田家、親族、洋菓子店の店長とスタッフ、幸枝の友人たちが並ぶ。

 誰も表情がないように見えて、内側では張りつめている。


 被告人、太田大地も入廷する。

 その姿を見るだけで、充の指先に力が入る。

 一貴は目をそらさない。

 今日子は一度だけ深く息を吸った。


⸻


2 判決理由の朗読


 裁判長が入廷し、全員が起立する。

 そして着席。


 すぐに主文へは行かない。

 裁判長は静かに、しかしはっきりと、判決理由の朗読から始めた。


 法廷の空気が変わる。

 これまで法廷で積み上げられてきたものが、ここで最終的に整理され、社会の判断として言葉になる。


「まず、本件犯行の経緯について見るに――」


 声は落ち着いていて、感情的ではない。

 だが、その冷静さの中にこそ重みがあった。


 被告は、テレビで被害者を知り、一方的な妄想を抱いた。

 店を確認し、被害者を尾行し、人気のない場所で襲った。

 拒絶されたにもかかわらず暴行に及び、人格と尊厳を著しく踏みにじった。

 さらに、犯行の発覚を恐れて、首を絞めて殺害するに至った。


 ひとつひとつの事実が、整理されて法廷に置かれていく。


 傍聴席では、今日子がその都度、唇を噛みしめている。

 龍樹は正面を見たまま動かない。

 充の目には怒りが宿ったままだ。

 一貴は、膝の上で組んだ手が震えないよう必死に押さえている。


⸻


3 「被害者は一人かもしれないが」


 裁判長は量刑判断へ入る。


「弁護人は、被害者が一名であること、被告人に前科がないこと、人格形成の未熟さや社会的孤立、更生可能性などを指摘し、死刑を回避すべきであると主張する」


 そこまで言って、少し間を置いた。


 法廷が息を潜める。


 そして、裁判長は続ける。


「確かに、本件の被害者は一名である」

「しかし、侵した罪の内容は、あまりにも重大である」


 その一文が、まっすぐ傍聴席へ届く。


 被害者は一人。

 でも、その一人の人生には、家族がいて、婚約者がいて、友人がいて、夢があった。

 法廷がその“重さ”を見ていることが、その言葉から伝わった。


⸻


4 魂を殺し、命を奪った


 裁判長の声は、なおも静かだった。


「被告人は、被害者に対し性的暴行を加え、その尊厳を徹底的に蹂躙した」

「それは単に肉体を傷つけるにとどまらず、人格の中核を踏みにじる行為であり、被害者の魂を深く傷つけるものである」


 法廷の空気が重く沈む。


「さらに被告人は、その後、被害者を絞殺している」

「すなわち被害者は、人格を踏みにじられたうえで、命まで奪われた」

「その意味において、本件は被害者が二重の意味で殺害されたに等しい」


 その言葉に、今日子の肩が震えた。

 佐伯真由が取り調べ室で言った

「二度殺した」

という言葉が、今、国家の判断として別の形で法廷に置かれている。


 一貴は、そこで初めて目を閉じた。

 でも涙はこぼさなかった。

 今は、聞かなければならない。


⸻


5 反省なき被告


 裁判長は被告の態度にも言及する。


「被告人は、公判を通じてなお被害者との関係を一方的に誤認した供述を繰り返し、真摯な反省の態度を示していない」

「その発言は、遺族感情を著しく傷つけるものであり、自己の行為の重大性を真に理解しているとは到底認め難い」


 傍聴席では、充がゆっくりと息を吐いた。

 やっとそこまで言ったか、という思いがあった。

 一貴も、被告席をまっすぐ見たまま、その言葉を聞いていた。


 被告の態度が、ただ“悪印象”としてではなく、

 量刑判断の中ではっきりと位置づけられた。

 それだけでも、遺族にとっては大きかった。


⸻


6 遺族の処罰感情


 さらに裁判長は、遺族について触れる。


「被害者の遺族および婚約者が抱く処罰感情は、きわめて峻烈である」

「しかし、それは本件犯行の残虐性、動機の空虚さ、被告人の反省の欠如、そして被害者が受けた苦痛と無念を踏まえれば、当然のものといわざるを得ない」


 今日子は、そこで初めてうつむいた。

 “当然のもの”という言葉が、少しだけ胸に刺さる。

 死刑を望む自分は、残酷なのではないか。

 そう思う夜が何度もあったからだ。


 だが法廷は、それを感情的な復讐ではなく、

 この事件に対して自然に生じる正当な怒りとして見ていた。


 龍樹もまた、目を閉じた。

 胸の中にある黒い怒りを、初めて誰かが社会の言葉で肯定したような感覚だった。


⸻


7 最も重い刑罰を避ける理由はない


 法廷は、いよいよ結論へ近づく。


「以上を総合すると――」


 その一文に、傍聴席の空気が完全に止まる。


「本件においては、被告人に対して最も重い刑罰を回避すべき事情を見出すことはできない」


 誰も動かない。

 誰も息をしないような時間だった。


 今日子の目に涙が浮かぶ。

 一貴の喉が大きく動く。

 充の指先は白くなるほど握られている。

 龍樹は正面だけを見ている。


⸻


8 主文


 そして裁判長は、はっきりと、最後の言葉を告げた。


「主文」

「被告人を、死刑に処する」


 その言葉は、ひどく静かに法廷へ落ちた。

 だが、その静けさこそがいちばん重かった。


 誰もすぐには動けなかった。


 今日子は、声を上げることもできずに泣いた。

 龍樹はようやく一度だけ大きく息を吐く。

 充は下を向いたまま、唇を噛む。

 一貴は、目を閉じたまましばらく動かなかった。


 望んでいたはずの判決。

 でも、その瞬間に押し寄せたのは単純な安堵ではない。


 幸枝は帰ってこない。

 死刑判決が出ても、それだけは変わらない。

 だから、喜びにはならなかった。


 ただひとつ、

 法廷が、国家が、社会が、

 幸枝の命はそれだけ重かったのだと、はっきり言った。

 そのことだけが、救いとも呼べない種類の重い救いだった。


⸻


9 法廷のあと


 閉廷後、傍聴席はなおもしばらく動けなかった。


 星羅が今日子の肩に手を置く。

 百合愛は泣いている。

 洋菓子店の店長も、スタッフも、ただ深く頭を下げたまま涙をぬぐっている。


 充がようやく言った。


「……死刑、やったな」


 一貴が答える。


「うん」


 その二文字だけ。

 でも、その中に何ヶ月分もの重さがあった。


 今日子は、涙をぬぐいながら小さく言う。


「幸枝、聞いとったかね……」


 龍樹が低く答える。


「聞いとる」


 それが、本当かどうかは分からない。

 でも、そう思わなければやっていけなかった。


⸻


10 裁かれても終わらない


 裁判所の外へ出ると、夏の光がやっぱり強かった。


 記者たちが待ち構えている。

 マイク。

 カメラ。

 でも加賀家も、一貴も、すぐには言葉を発せなかった。


 判決は出た。

 死刑だった。

 法は、できる限り重い答えを出した。


 それでも、日常は戻らない。

 玄関も、台所も、部屋も、食卓も、そのままだ。

 幸枝の不在が消えるわけではない。


 だからこの判決は、終わりではなかった。

 ただ、長い苦しみの中で、ひとつの区切りが打たれただけだ。


⸻


11 遺影の前へ


 家へ戻ると、全員がまた、自然に遺影の前へ集まった。


 今日子が言う。


「幸枝……判決、出たよ」

「死刑やった」


 龍樹も静かに手を合わせる。


「これで全部終わりじゃない」

「でも、お前の命が軽く扱われんかったことだけは、ちゃんと伝わった」


 充は位牌の前で、長く目を閉じた。


「少しは……」

「少しは、報えたんかな」


 一貴は最後に、遺影を見て言う。


「幸枝」

「俺はまだ、お前がおらんことに慣れん」

「たぶん一生慣れん」

「でも今日だけは、ちゃんと聞いてきた」


 返事はない。

 それでも、その場にいる全員が、

 今だけは少しだけ、幸枝に届いていたらいいと思った。

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