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戻らない日常  作者: リンダ


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判決前夜

 第33話「判決前夜」


 判決の前の日は、不思議な静けさをしている。


 何かが終わるわけではない。

 何かが救われる保証もない。

 それでも、翌日にはひとつの結論が法廷で言い渡される。


 死刑か。

 それ以外か。


 その二択の前で、遺族は誰ひとり、まともに眠れなかった。


 1 被告側の最終弁論


 この日、法廷では被告側の最終弁論が行われた。


 国分篤紀は、これまでと同じく感情を抑えた声で立った。

 その姿勢は弁護人として一貫している。

 だが、傍聴席にいる遺族にとっては、その冷静さ自体が苦しかった。


「本件が重大であること、被害者が若く、将来を断たれたこと、遺族の悲しみが深いことは言うまでもありません」


 そう前置きしたうえで、弁護側はなおも死刑回避を求める。


「しかし、死刑は究極の刑罰です」

「本件では、被害者が一名であること」

「被告人に前科がないこと」

「人格形成の未熟さと、長年の社会的孤立、認知の偏りが放置されていたこと」

「更生可能性が完全に失われたとまでは断定できないこと」

「これらを総合すれば、無期懲役刑が相当であると考えます」


 無期懲役。


 その言葉が法廷に落ちた瞬間、加賀家と一貴の胸に、別の冷たさが走った。


 今日子は膝の上の手をぎゅっと握りしめる。

 充はまっすぐ前を見たまま、少しも動かなかった。

 龍樹の目は、国分を通り越して、その先の何かを見ているようだった。

 一貴はただ、息を浅くして聞くしかない。


 法廷は公平でなければならない。

 だからこそ、幸枝を奪った側にも、最後まで主張する時間が与えられる。

 そのことを頭では理解していても、

 感情は一歩も納得しない。


 2 夜の加賀家


 裁判所から戻った夜、加賀家には誰もが言葉少なだった。


 明日、判決が出る。

 その事実だけが、家の空気を張りつめさせている。


 夕食は、食べたのか食べていないのか分からない程度だった。

 箸は動く。

 でも味はしない。


 食卓には、やはり幸枝の席が空いたままだった。


 いつのまにか、その空席も風景になってしまっている。

 でも慣れたわけではない。

 慣れるどころか、こうして大事な節目が近づくたびに、

 その席の空白はむしろ大きく見えた。


「……明日じゃね」

 今日子が小さく言う。


「うん」

 充が答える。


「怖いねえ」

「うん」

「でも、聞かんといけんね」

 龍樹が静かに言う。


 それだけだった。

 でも、そのやりとりの中に、この家族の今のすべてがあった。


 3 位牌の前で


 夜が深くなってから、加賀家の三人は居間の位牌の前に集まった。

 一貴もいた。


 線香の細い煙が、静かに上がっていく。

 遺影の中の幸枝は、何も知らない頃のままの笑顔でこちらを見ていた。


 今日子が最初に手を合わせた。


「幸枝」

「明日、判決があるよ」

「お母さん、ちゃんと行ってくるけぇね」

「……怖いけど、逃げん」


 涙は出る。

 でも以前のように崩れるだけではない。

 この数ヶ月で、悲しみの中に、別の強さが少しだけ混じるようになっていた。


 龍樹が位牌の前で、低く言う。


「幸枝の無念に報いるためにも、頑張ってくるからな」

「力を貸してくれ」


 充も、しばらく黙ってから口を開く。


「幸枝」

「明日、ちゃんと聞いてくる」

「納得できるかは分からんけど……」

「お前のこと、軽く扱わせんようにする」


 一貴は、最後まで少し離れた場所に立っていた。

 だがやがて、一歩前に出て、手を合わせる。


「幸枝」

「明日、行ってくる」

「お前の分までちゃんと聞いてくる」

「だから……」

 そこで一度、声が止まる。

「だから、少しだけ力貸して」


 その時だった。


 四人とも、ほんの一瞬だけ、

 幸枝の声が聞こえたような気がした。


 もちろん、本当に聞こえたわけではない。

 でも、確かにそう感じるほど自然に、

 あの少し明るい声で、

「うん」

 と返されたような気がしたのだ。


 今日子が、涙の中で少しだけ笑う。


「……今、返事した気がした」

「……俺も」

 充が言う。

 龍樹は何も言わなかったが、その目は少しだけやわらいでいた。

 一貴は、位牌から目を離せなかった。


 4 眠れない夜


 その夜、誰もすぐには眠れなかった。


 今日子は布団に入っても、法廷の言葉ばかりが頭を巡る。


 死刑。

 無期懲役。

 更生可能性。

 被害者一名。

 そんな言葉のひとつひとつが、幸枝の顔と結びつかないまま浮かんでは沈む。


 龍樹もまた、眠れずにいた。

 目を閉じれば、火葬炉の扉が閉まる音がよみがえる。

 法廷の中の被告の顔も浮かぶ。

 そして最後には、幼い頃の幸枝の笑顔へ戻ってしまう。


 充は机に座ったまま、幸枝の一輪挿しを見ていた。

 誕生日に渡した小さなガラス。

 あの時は、こんな形で大事になるなんて思ってもいなかった。


 一貴は自分の部屋で、あの日行くはずだった平和大通りのイルミネーションの写真を見た。

 まだそのサイトを消せていない。

 画面の光が、暗い部屋の中でぼんやり浮かぶ。


「明日で終わるわけじゃない」

 自分にそう言い聞かせる。

「でも、明日が来る」


 判決を聞く怖さ。

 それでも聞かなければならない覚悟。

 その両方を抱えたまま、夜だけが過ぎていく。


 5 洋菓子店の夜


 パティスリー・ミズノでも、その夜は特別だった。


 店長がスタッフ全員を前にして言う。


「明日は臨時休業にします」

「全員で裁判を傍聴しましょう」


 先輩スタッフたちは、静かにうなずいた。

 誰も異論はない。


「幸枝さんがここで働いてたこと」

「ちゃんと見届けたいです」

 ひとりが言う。


「うん」

 店長が答える。

「店の仲間として、最後まで見届けよう」


 店の前を通りかかった常連客も、その話を聞いて足を止めた。


「いよいよ明日じゃね」

 年配の女性客が言う。

「あの子の無念が、少しでも晴らされたらいいんじゃけどね」


 店長は、しばらく黙ってからうなずいた。


「ほんとに、そうですね」


 幸枝が働いていたカウンター。

 幸枝が拭いていたショーケース。

 そこにはもういない。

 でも店にとっても、明日の判決は他人事ではなかった。


 6 百合愛の決意


 百合愛もまた、翌日の裁判を傍聴すると決めていた。


 本来なら高校の授業がある日だった。

 でも、特別に休みを取った。


「ほんまに行くんか」

 一也が聞く。


「行く」

 百合愛ははっきり答える。

「幸枝さんのこと、ちゃんと見届けたい」

「つらいよ」

 小百合が言う。

「分かっとる」

「それでも行くの?」

「うん」


 百合愛の中で、幸枝はもう“兄の婚約者”ではなかった。

 姉のように慕った人。

 一緒に買い物へ行ってくれた人。

 笑いながら服を選んでくれた人。


 その人の判決の日を、学校だからという理由だけで外すことはできなかった。


「ちゃんと行く」

「幸枝さんに、明日も一緒におるって言いたい」


 その言葉に、小百合は何も言えなくなった。

 一也も、ゆっくりとうなずくしかなかった。


 7 夜の最後


 夜の終わりに、加賀家の居間では、位牌の前の線香が短くなっていた。


 今日子が最後にもう一度だけ立ち、火を少し整える。


「幸枝」

「明日、行ってくるけぇね」

「見とってね」


 言葉は短い。

 でも、そのひとつひとつに、この半年分の涙と怒りが詰まっていた。


 明日、判決が出る。


 死刑か、それ以外か。

 法廷は結論を言う。

 でも遺族にとって本当に怖いのは、判決の内容そのものだけではない。


 法が言う“結論”と、自分たちの心の中の結論が、同じとは限らないこと。


 その怖さを抱えたまま、

 誰もが眠れぬ夜の中で、翌朝を待っていた。

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