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戻らない日常  作者: リンダ


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量刑を巡る攻防

第32話「量刑を巡る攻防」


 法廷では、命の重さが、最終的に“量刑”という言葉で語られる。

 その響きは、あまりにも冷たい。


 けれど、冷たい言葉でしか裁けない現実がある。

 どれほど激しい怒りも、どれほど深い悲しみも、

 最後には法の言葉へと翻訳されなければならない。


 この日、法廷では、その翻訳のもっとも残酷な場面が訪れた。


⸻


1 論告求刑の日


 夏の空気は重かった。

 裁判所の外は暑いのに、法廷の中だけは妙に温度を失っている。


 加賀家、一貴、江守家、石田家、親族たちは、また傍聴席に座っていた。

 もう何度も通った場所なのに、慣れることはない。

 むしろ回数を重ねるごとに、心が削れていく感覚のほうが強い。


 今日は論告求刑。

 検察が、被告に対してどの刑を求めるのかを明確に示す日だった。


 太田大地は被告席にいる。

 相変わらず、遺族には理解できない顔をしていた。

 少なくとも、幸枝の命を奪った重さに見合うだけの顔には、見えなかった。


⸻


2 検察官、立つ


 検察官が立ち上がる。


 法廷の空気がさらに締まる。

 その声は落ち着いていたが、言葉のひとつひとつには揺るがない重みがあった。


「本件は、極めて悪質かつ残虐な犯行です」


 その一文から始まる。


 被告は、テレビで被害者を知り、

 一方的な妄想を膨らませ、

 店を確認し、

 尾行し、

 人気のない場所で襲った。


 拒絶されたにもかかわらず暴行に及び、

 人格と尊厳を踏みにじり、

 さらに犯行発覚を恐れて殺害した。


 検察官は、証拠と供述をもとに、その流れをひとつずつ積み上げていく。


「被害者に落ち度は一切ありません」

「被告の動機は、自己中心的かつ空虚であり、何ら酌むべき事情はありません」


 傍聴席で、充が小さく拳を握る。

 一貴は目を閉じずに聞き続ける。

 今日子は、涙を流しながらも前を向いていた。


⸻


3 被害者は一人、だが


 検察官は、量刑の基準に触れる。


「確かに、本件の被害者は一名です」


 その言葉に、法廷の空気が少しだけ揺れる。

 “被害者一人”という表現自体が、遺族にとっては痛い。

 幸枝は数字ではないからだ。


 だが検察官は続ける。


「しかしながら、被害者が一名であることのみをもって、本件の重大性が軽減されるものではありません」

「犯行態様は極めて悪質であり、被害者に与えた肉体的・精神的苦痛は筆舌に尽くしがたい」

「さらに、被告は現在に至るまで真摯な反省の態度を見せていません」


 その言葉に、傍聴席の誰もが同じものを見ていた。

 法廷でのあの受け答え。

 “彼女に会いに行っただけ”と言った顔。

 何ひとつ幸枝を知らないくせに、“自分の彼女”だと言い張った異様さ。


「遺族の処罰感情は極めて峻烈であり、これは無理からぬものです」

「被害者の無念さ、遺族の苦痛、社会に与えた衝撃を総合すれば、被告に対しては、もっとも重い刑罰をもって臨むほかありません」


 そこで検察官は、一度だけ間を置いた。


 法廷の空気が張りつめる。

 そして、はっきり言い切る。


「検察官は、被告人太田大地に対し、死刑を求刑します」


 その瞬間、法廷は静まり返った。


⸻


4 遺族の中を通る言葉


 死刑。


 その二文字は、傍聴席の加賀家と一貴の胸をまっすぐ貫いた。


 願っていた。

 そうなってほしいと思っていた。

 何度も、口にもしていた。


 それでも、公の法廷で、国家の言葉としてその刑が求められる瞬間は、

 想像していたのとは違う重さを持っていた。


 今日子は、息を詰めるようにして泣いた。

 龍樹は微動だにしなかったが、その目はさらに深くなった。

 充は、ようやくひとつの形が見えたような、でもまだ何も終わっていないような、奇妙な感覚に襲われる。

 一貴は、膝の上で組んだ手をほどかないまま、前を見続けた。


 死刑が求められた。

 でも、幸枝は戻らない。

 それがすぐに胸に落ちてくる。


⸻


5 弁護側の主張


 続いて、弁護人の国分篤紀が立つ。


 法廷の空気はまた別の冷たさを帯びる。

 ここからは、加害者の側が、法廷の中でどう位置づけられるべきかを語る時間になる。


 国分は、いつものように感情を抑えた声で話し始めた。


「本件が極めて重大であり、被害者および遺族に取り返しのつかない被害が生じたことは争いようがありません」


 最初にそれを置いたうえで、

 なお弁護人として言わなければならないことを言う。


「しかし、量刑判断においては、犯行の重大性のみならず、被告人の生育歴、社会的孤立、現実認識の歪み、精神的未熟さなども慎重に検討されるべきです」

「被告人は、健全な対人関係を築く能力に著しい偏りを抱えたまま成人に至っており、その点は本件犯行の背景事情として無視できません」


 それは、法廷では当然の主張だ。

 だが遺族にとっては、聞くだけで苦しい。


 社会的孤立。

 未熟さ。

 歪み。


 そんな言葉が、幸枝の命を奪った男の側に置かれるたび、

 今日子も、充も、一貴も、胸の奥に刺されるような感覚を覚える。


 国分はさらに言う。


「被害者が一名であること」

「被告人に前科がないこと」

「人格形成上の問題と、社会的支援の不足が長年放置されていたこと」

「今後の更生可能性を、なお慎重に見極める必要があること」


 そして、死刑回避の方向をにじませる。


 そこまで聞いた時、傍聴席のあちこちで空気が揺れた。

 怒りと嫌悪と、やるせなさが一気に動く。


⸻


6 「更生」という言葉


 弁護側の主張の中で、とりわけ遺族を深く刺したのは、

 更生可能性

 という言葉だった。


 更生。

 やり直し。

 立ち直り。


 それは法の世界では必要な視点なのだろう。

 だが、幸枝の人生には、もうやり直しはない。


 今日子は思わず、傍聴席で涙をぬぐいながら呟いた。


「幸枝には、もう明日もないのに……」


 一貴も同じだった。


 更生する?

 生き直す?

 誰がそんな言葉を簡単に口にできるのか。


 平和大通りのイルミネーション。

 庭に植えるはずだった花。

 これから住むはずだった家。

 幸枝には、その全部がない。

 なのに加害者の未来だけが、法廷では議論の対象になる。


 その非対称が、遺族には耐えがたかった。


⸻


7 量刑を巡る正面衝突


 こうして法廷の中で、量刑を巡る攻防が真正面からぶつかる。


 検察は、

 悪質性、残虐性、被害者の苦痛、遺族の処罰感情、被告の反省のなさを総合し、

 死刑を求める。


 弁護側は、

 生育歴、孤立、認識の歪み、前科のなさ、更生可能性を持ち出し、

 死刑回避の余地を作ろうとする。


 法廷にいる誰もが、その衝突の意味を理解していた。

 これはただの法律論争ではない。

 幸枝の命が、社会としてどこまで重く扱われるのか

 その線引きの攻防だった。


⸻


8 傍聴席の重さ


 論告求刑と弁護側の主張を聞き終えたあと、傍聴席の空気は完全に疲れ切っていた。


 今日子はもう、泣きすぎて涙が出ない顔をしていた。

 龍樹は無表情に見えるが、その沈黙の下には激しい怒りがある。

 充は、法廷という場所の冷たさに、改めて打ちのめされていた。

 一貴は被告席から一度も目をそらさなかったが、そのぶん消耗も激しかった。


 休廷が告げられても、すぐには立ち上がれない。


 星羅が、そっと今日子の肩に手を置く。

 百合愛は一貴のほうを見て、何も言えずにいる。

 石田家、江守家、親族も、それぞれの場所で沈黙を抱えていた。


⸻


9 法廷の外で


 裁判所を出たあと、外の光があまりにも強く感じられた。


 夏の空。

 遠くの車の音。

 普通に動いている街。


 その現実が、法廷の中とあまりにも断絶していて、みんな一瞬足を止める。


 最初に口を開いたのは龍樹だった。


「死刑を求めたな」


 短い。

 でも、その一文に今日のすべてが入っていた。


 充がうなずく。


「うん」

「……でも、まだ分からん」


 一貴が言う。


「分かってる」

「求刑されたからって、それで終わりじゃない」

「でも、あれだけのことをして、まだ“更生”とか言われるのかと思うと……」


 そこで言葉を切る。


 今日子は、遺影の前で言った朝の言葉を思い出していた。


 無念を晴らしてくるからな。


 まだ、晴れてはいない。

 けれど今日、法廷の中で、国家の言葉として死刑が求められた。

 それは確かに、幸枝のためのひとつの大きな一歩だった。


⸻


10 クライマックスの入口


 第32話「量刑を巡る攻防」は、裁判編のクライマックスの入口だ。


 ここから先は、

 判決へ向けて、法廷が最終的な結論を選び取る時間になる。


 だが遺族にとっては、判決がどう出ても簡単に終わる話ではない。

 幸枝のいない日常は、もう戻らない。

 それだけは、どんな量刑でも変わらない。


 それでも、

 法廷がどの言葉を選ぶか。

 社会がこの命をどう扱うか。

 その一点だけは、見届けなければならなかった。

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