証言台
第30話「証言台」
法廷では、人の人生が要約される。
生い立ち。仕事。関係性。未来。
長く積み重ねてきた日々が、証拠と証言の形で切り取られていく。
けれどその切り取りの中で、
どうしても失われてしまうものがある。
声の温度。
笑い方。
好きな花を見つけた時の顔。
ケーキの話をする時の早口。
そういう、人としての細部だ。
だからこの日、証言台に立つ者たちは、
ただ事実を話すためだけではなく、
幸枝がどういう人だったかを、法廷に取り戻すために立っていた。
1 一貴、証言台へ
一貴が証言台に立つ。
法廷の空気は静かだった。
でも、傍聴席の加賀家や江守家、石田家にとっては、その一歩一歩が重かった。
名前。
年齢。
被害者との関係。
「被害者の婚約者です」
その言葉が法廷に置かれる。
婚約者。
本来なら、これから先の人生を並んで歩くはずだった関係。
その言葉を、こんな場所で名乗らなければならないこと自体が苦しかった。
検察官が聞く。
「加賀幸枝さんは、どのような方でしたか」
一貴は一度だけ目を閉じ、それから答える。
「好きなものを好きって、ちゃんと言える人でした」
「花が好きで、ケーキが好きで、季節の小さい変化を見つけるのがうまい人でした」
「人がしんどい時に、無理に励ましたりせず、自然に横におれる人でした」
傍聴席の今日子が、そこで小さく泣いた。
龍樹は目を閉じる。
星羅も唇を噛む。
「店の仕事の話をしてる時、すごく楽しそうで」
「将来、誰かが食べてちょっと幸せになるようなお菓子を作りたいって言ってました」
「それが、幸枝の夢でした」
それは、ただの人物紹介ではない。
法廷の中に、幸枝の息づかいを少しでも戻そうとする言葉だった。
2 被告への問い
審理の流れの中で、一貴は被告に向き合う時間を与えられる。
太田大地は被告人席にいる。
相変わらず、どこか焦点の合わないような、しかし自分の内側だけは守ろうとする顔だった。
一貴は、その顔を真っ直ぐ見て言う。
「彼女だって言うんなら、答えろ」
法廷の空気が張る。
「幸枝の好きなものは?」
「趣味は?」
「好きな色は?」
「好きなアーティストは?」
「得意料理は?」
「出身の学校は?」
「生年月日は?」
「どんな夢を抱いていた?」
一つずつ、言葉を区切る。
どれも、恋人なら、家族なら、友人なら、少しずつでも知っていて当然のことだった。
「答えろ」
大地は沈黙した。
裁判長が促す。
だが、それでもまともな答えは出ない。
「……知らない」
「……分からない」
「……」
法廷の空気が変わる。
傍聴席にも、それがはっきり分かる。
一貴の声が、そこで初めて揺れた。
「何ひとつ答えられねぇじゃねぇか」
その一言が重く響く。
「それで彼女だ?」
「ふざけんな」
「何でこんなやつに、幸枝は殺されなきゃならなかったんだよ」
声が大きくなる。
法廷としては抑えるべき場面だった。
だが、それは単なる取り乱しではなかった。
幸枝を“自分の彼女”と勝手に位置づけた男が、
実際には幸枝という人間を何ひとつ知らない。
その事実を、一貴は法廷の真ん中で突きつけたのだ。
「ふざけんな……」
最後の言葉は、怒鳴り声ではなく、絞り出すような声だった。
そのほうがむしろ、傍聴席には深く刺さった。
今日子は顔を覆った。
充は下を向いたまま拳を握る。
龍樹は、一度だけ大きく息を吐いた。
3 家族の証言
続いて、家族の証言が行われる。
今日子は、証言台に立った瞬間から涙をこらえるのに必死だった。
それでも、娘のことを話すと決めていた。
「幸枝は、終戦の日に生まれた子です」
「みんなに幸せを与えられるような人になってほしいって、そう願って育てました」
「明るくて、やさしくて、でも頑張り屋で……」
「花を見て喜ぶような子でした」
そこまで言って、声が詰まる。
裁判長が一度休憩を挟むか確認する。
今日子は首を振った。
「最後まで、ちゃんと生きようとしたはずです」
「それを思うと……」
「どうしても許せません」
龍樹は、もっと短い言葉で語った。
「娘は真面目に生きていました」
「人を傷つけるような子ではありません」
「夢がありました」
「未来がありました」
「それを、何の関係もない人間に奪われた」
「それが、許せません」
充も証言台に立つ。
「妹でした」
「うるさかったです」
「よく笑って、よくしゃべって、俺のこともよくからかいました」
その一言で、傍聴席にいた星羅が涙をこぼす。
「でも、そういうやつが家におるのが、普通だったんです」
「その普通を、あいつは壊した」
兄としての言葉は、法廷の中で飾らずに置かれた。
それが逆に、幸枝の存在をいちばん強く感じさせた。
4 裁判員の質問
この日の審理では、裁判員からもさらに具体的な質問が出た。
ひとりの裁判員が、慎重に、しかしはっきりと聞く。
「被害者の体内から被告人の体液が検出されていることについて、被告人は争わないのですか」
法廷がまた静まる。
大地は、明確な答えを避けるような顔をした。
弁護人の国分篤紀が、法的な整理を挟みつつも、証拠自体は争っていないことを示す。
別の裁判員が続ける。
「被害者は婚約者の存在を示して、はっきり拒絶しています」
「そのうえでなお、一方的な関係を“交際”と認識していたというのは、どういうことですか」
大地はうつむいたまま、まともに答えられない。
村上誠司らの供述調書で示されてきたとおり、
そこには相手の人格や意思を認める視点が欠けていた。
裁判員たちは、法律の専門家ではない。
だからこそ、その素朴な疑問が、事件の異様さをより際立たせた。
「なぜ、拒絶を拒絶として受け止められなかったのか」
「なぜ、自分の思い込みを相手の人生より優先できたのか」
法廷全体に流れていたのは、
怒りより先に、理解不能への戸惑いだった。
5 国分篤紀の出方
弁護人の国分篤紀は、この日の法廷でも感情を抑えた口調を崩さなかった。
彼の役割は、被告の歪みや認識の偏り、幼少期からの孤立、現実把握の未熟さなどを、量刑判断の材料として法廷に置くことだ。
それは弁護人として当然の仕事であり、ここで感情に流されることはない。
「被告人の認識が著しく偏っていたこと」
「他者との健全な関係形成が極めて未熟だったこと」
「社会的孤立が長く続いていたこと」
それらが、国分の口から整理されていく。
だが傍聴席にいる者たちには、そのすべてが、
だから何だ
にしか聞こえない。
幸枝の命を奪ったあとで、
その背景にどんな孤立や歪みがあったとしても、
返ってくるものは何ひとつない。
その“法廷と遺族の温度差”が、今日の回ではいちばん苦しかった。
6 証言台の意味
この日の証言台は、単に事実を確認する場所ではなかった。
幸枝がどんな人だったか。
何を好きで、何を夢見て、どんなふうに生きていたか。
それを、加害者の歪んだ供述の上書きにさせないための場所だった。
“被害者”ではなく、
加賀幸枝というひとりの人間を、法廷に取り戻すための証言。
一貴がぶつけた問いも、家族が語った日常も、全部そのためにあった。
7 法廷を出て
審理が終わり、加賀家と一貴が裁判所を出た時、誰もすぐには言葉を発せなかった。
夏の光がまぶしい。
でも、体の中はひどく冷えている。
ようやく口を開いたのは充だった。
「答えられんかったな」
「……うん」
一貴が答える。
「幸枝のこと、何ひとつ知らんかった」
「最初から、人として見てなかったんやろうな」
龍樹が低く言う。
今日子はハンカチを握ったまま、小さく言った。
「幸枝、ちゃんとここにおったね」
証言台で語られた言葉の中に、
少しだけ幸枝が戻ってきた気がしたのだろう。
それでももちろん、現実は何も戻らない。
でも、法廷の中で幸枝の名前が、
ただの“事件の被害者”としてではなく、
誰かに愛され、笑い、夢を持って生きていた人として響いたことは、家族にとって大きかった。




