被告という存在
『戻らない日常』
第29話「被告という存在」
法廷では、人を名前だけで裁かない。
感情だけでも裁かない。
そこに座る者がどれほど憎くても、どれほど許せなくても、
“被告人”として扱われる。
そのことが、遺族にはたまらなくつらかった。
幸枝を奪った男。
幸枝を傷つけ、命を奪い、未来を断ち切った男。
遺族にとっては、どうしても“人として見られない存在”になっている。
それでも法廷は、その男に発言の機会を与え、主張を聞き、手続きを重ねていく。
それが、裁判という場所だった。
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1 罪状認否
開廷。
静まり返った法廷で、裁判長の声だけがはっきりと響く。
起訴状があらためて読み上げられる。
殺人。
不同意性交等致死。
傷害。
そのひとつひとつの罪名が、傍聴席の加賀家、一貴、江守家、石田家の胸に重く落ちていく。
そして、裁判長が被告に向けて問う。
「起訴状に記載された事実について、認めますか」
法廷の空気が張り詰める。
太田大地は、少しだけ視線を動かし、それから口を開いた。
「……全部その通りじゃないです」
「彼女に会いに行っただけです」
その瞬間、傍聴席の空気が変わった。
今日子が息を呑む。
充の顔が強張る。
一貴の目に怒りが宿る。
龍樹は、わずかに眉を動かしただけだったが、その沈黙の中に怒りが凝縮されていた。
“彼女”。
その言葉ひとつで、傍聴席の空気は凍った。
幸枝は被告の彼女ではない。
そんな関係は一度たりとも存在していない。
それなのに、被告はその前提から崩そうとしない。
裁判長が確認する。
「被害者とは交際関係にあったという認識ですか」
「……そう思ってました」
法廷のあちこちで、押し殺した息が漏れる。
反省の色は見えない。
むしろ、自分の歪んだ認識をなおも現実として語ろうとするその態度に、
遺族たちは新しい怒りを覚える。
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2 国分篤紀の立ち位置
弁護人席には、国分篤紀が座っていた。
落ち着いた声、整った資料、必要以上に感情を見せない表情。
彼は被告を擁護する立場にある。
それが職務だ。
それは頭では分かる。
だが遺族にとっては、その存在自体がひどく刺々しく感じられる。
国分は冒頭で、被告の認識や心理状態について慎重に言葉を選ぶ。
「被告人は、被害者との関係性を極端に誤認しており、現実と妄想の境界が著しく歪んでいた可能性があります」
「犯行当時の心理状態については、今後の審理の中で慎重に検討されるべきです」
その言い回しは法廷では正しい。
しかし、加賀家と一貴には、
“歪んでいた”
“慎重に検討”
という言葉すら、加害者に余白を与えるものに聞こえてしまう。
充は傍聴席で、思わず歯を食いしばる。
「何が慎重にだよ……」
一貴はそれを止めるように、でも自分自身も同じ怒りを抱えたまま、前を見続けた。
法廷は冷たい。
幸枝に起きたことがどれほど理不尽でも、
ここでは感情より先に手続きがある。
その現実が、さらに遺族を消耗させていく。
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3 大地の両親、証人として立つ
この日の証人として、大地の両親が出廷した。
証言台の前に立ったふたりは、以前加賀家を訪れた時よりも、さらに老け込んで見えた。
父も母も、裁判所という公の場で、あらためて自分たちの息子が何をしたのかを突きつけられている。
証言に先立ち、父親が深く頭を下げた。
「加賀家の皆さま、江守家の皆さま、石田家の皆さまに、心からお詫び申し上げます」
「息子が取り返しのつかないことをしました」
母親も涙をこらえながら頭を下げる。
「本当に申し訳ありません……」
傍聴席の今日子は、その姿を見ても、感情が動かなかった。
許せない。
それ以前に、もう謝罪を受け取る場所がない。
龍樹も、ただ前を見ていた。
一貴も同じだった。
謝罪は謝罪としてそこにある。
だが、それで幸枝が戻るわけではない。
だから遺族の中では、もう「受け取る」「受け取らない」という段階すら過ぎていた。
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4 幼少期からの大地
証言は、太田大地の幼少期へ移る。
父親は、絞り出すように話した。
「小さい頃は、おとなしい子でした」
「自分から前へ出るタイプではなくて……人の後ろにいることが多かったです」
「けれど、成績は普通で、特に大きな問題を起こしたこともありませんでした」
母親も続ける。
「中学生くらいから、少しずつ部屋にこもることが増えました」
「高校に入ってからは、友人関係も広くなくて……」
「大学生になってからは、とくに閉じこもる時間が長くなりました」
ここで父親の声が少しだけ詰まる。
「女性との交際経験がないことを、本人はかなり気にしていたようです」
「他人の恋愛話や、幸せそうな若い人たちに対して、ひどく苛立つことがありました」
法廷の中で、それがただの背景説明では済まないことは誰も分かっていた。
その鬱屈が、誰かの命を奪う理由になるはずはない。
けれど、その歪みの土壌としては無視できない。
母親は、涙をこぼしながら言う。
「もっと早く、ちゃんと向き合うべきでした」
「でも、まさかこんなことをするとは……」
「信じられませんでした」
その言葉は、心からのものだった。
だが傍聴席の遺族にとっては、
“信じられなかった”
という嘆きすら、もう遠い場所の話に聞こえた。
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5 検察官の質問
検察官が立つ。
空気がまた少し締まる。
質問は、同情を誘うためではなく、
被告の危険性と異常性がどこにあったのかを、事実として浮かび上がらせるためのものだった。
「被告人は、過去に女性に対して一方的な好意を抱き、拒絶された経験があったとのことですが、その後、被害者意識のような発言はありましたか」
父親が答える。
「ありました……」
「“どうせ自分は選ばれない”とか、“周りはみんな自分を馬鹿にしている”とか」
「そういうことを口にしていました」
検察官が続ける。
「それに対して、ご両親はどのように対応しましたか」
「外に出るように言いました」
母親が答える。
「自分の気持ちをはっきり伝えないことが、余計に人間関係をこじらせているのではないか、とも言いました」
「被告人は、それを受け入れていましたか」
「……いいえ」
「むしろ、周りが悪いという言い方をすることが増えました」
そのやり取りを、傍聴席の充は黙って聞いていた。
少しずつ見えてくるのは、
“普通の若者が衝動的に過ちを犯した”
という話ではない。
自分の思い込みを現実より上に置き続けた末に、他人を壊した人間の姿だった。
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6 弁護人への質問
検察官はさらに、弁護人側の主張の土台にも切り込む。
「弁護人は、被告人の現実認識の歪みを重視されていますが」
「はい」
国分篤紀が答える。
「その歪みは、他者の意思を一切尊重しないという形で現れていた」
「その点について争いはありますか」
国分は慎重に言葉を選ぶ。
「被告人の認識が社会通念から著しく乖離していたことは否定できません」
「ただ、それが直ちに計画性や、すべての責任能力のあり方にどうつながるかは、慎重な検討が必要です」
検察官は譲らない。
「しかし、被告人は被害者に婚約者がいることを認識した上でなお、自分が選ばれるはずだと考えていた」
「拒絶されてもなお、力によって従わせようとした」
「それは明確に、相手の人格と意思を無視した行為ではありませんか」
国分は短くうなずいた。
「その点は……否定できません」
その一文だけでも、法廷の中での意味は重かった。
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7 “人として見られない”ということ
審理の途中、充はずっと感じていた。
目の前にいる被告を、どうしても“人”として見られない。
見ようとすると、幸枝の顔が浮かぶ。
部屋。
食卓。
ひまわり。
レシピ本。
平和大通りの約束。
それらを全部壊した存在を、
ただの“青年”や“被告人”として扱う法廷のルールが、
感情の上ではどうしても飲み込めない。
一貴も同じだった。
でもその一方で、法廷はまさにその“人として扱う”手続きをしている。
どれだけ憎くても、どれだけ理解不能でも、
人として裁かなければならない。
それが、幸枝を奪った側にも与えられる最低限の法の形だ。
その冷たさは耐え難い。
しかし、その冷たさを経なければ、死刑も、重罰も、正義も成立しない。
それがまた、遺族にとっては苦しかった。
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8 傍聴席の沈黙
審理が終わり、その日の閉廷が告げられる頃には、
傍聴席にいた全員がひどく疲弊していた。
今日は何かが前へ進んだのか。
それとも、傷が広がっただけなのか。
もう分からない。
今日子は立ち上がる時、少しふらついた。
星羅がそっと支える。
一貴は最後まで被告から目を離さなかった。
充は、法廷を出る直前に一度だけ振り返り、もう一度被告を見た。
その目には、怒りしかなかった。
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9 外へ出て
裁判所の外へ出ると、夏の光が強すぎて、全員少しだけ目を細めた。
法廷の中は冷たかった。
外は暑い。
その温度差すら、現実感を狂わせる。
「……疲れた」
充がぽつりと言う。
「うん」
一貴が答える。
今日子は遺影を思い出していた。
朝、
「行ってくるね」
と声をかけたあの写真。
今日も、ちゃんと見ていただろうか。
今日も、法廷の中を一緒に見ていただろうか。
そう思わなければ、あまりにもつらかった。




