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戻らない日常  作者: リンダ


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傍聴席

 第28話「傍聴席」


 裁判の日の朝は、妙に静かだった。


 夏の朝なのに、加賀家の中には蝉の声すら遠く感じる。

 今日子も、龍樹も、充も、一貴も、いつもより早く起きていた。

 誰も落ち着かない。

 けれど、今日は行かなければならない。


 幸枝を奪った男が、

 法廷に出る。

 そして、幸枝の死が“事件”として、初めて公の場で語られる。


 1 遺影の前で


 出かける前、全員が居間の遺影の前に集まった。


 白い花。

 線香。

 骨壺。

 そして、変わらず笑っている幸枝の写真。


 今日子が、そっと写真の前に手を合わせる。


「幸枝」

 声は小さい。

「行ってくるね」


 龍樹も立つ。

 真っ直ぐ遺影を見て、低く言った。


「無念、晴らしてくるからな」


 充は唇を結んだまま、深く息を吸う。


「ちゃんと見てくる」

「お前に何がされたのか、あいつがどういう顔しとるのか」

「絶対、目そらさんけぇ」


 一貴は、少し長く写真を見つめていた。

 そして、声が震えないように気をつけながら言う。


「幸枝」

「今日は、ちゃんと傍聴席で見てくる」

「お前がどれだけ生きたかったか、あいつにどれだけ分からせられるかは分からんけど……」

「それでも、黙っとらん」


 今日子の目に涙が浮かぶ。

 でも、今日は泣いてばかりではいられない。


 裁判所へ向かう。

 それは、幸枝を置いていくのではなく、

 幸枝を連れて行くような気持ちだった。


 2 裁判所へ


 裁判所へ向かう車の中は、ひどく静かだった。


 窓の外にはいつも通りの街が流れていく。

 信号、店、通学する学生、開店準備をする人。

 世の中はいつも通り動いている。

 そのことが、加賀家と一貴にはどこか異様に感じられた。


 今日子は手のひらを何度も握りしめていた。

 龍樹はまっすぐ前だけを見ている。

 充は資料の入った封筒を膝に置き、一貴は目を閉じていた。


 誰も「大丈夫」とは言わない。

 そんな言葉が嘘になることを、みんな分かっていた。


 3 法廷の空気


 法廷は冷たかった。


 空調の効いた空気。

 硬い椅子。

 白い壁。

 無機質な木目。


 そこには悲しみも怒りもない。

 ただ、事実と手続きだけを扱う場所の顔がある。


 裁判員裁判。

 裁判官たちの席。

 検察官。

 弁護人席には、国分篤紀。

 そして傍聴席には、加賀家、一貴、江守家、石田家、親族、幸枝の友人や関係者たち。


 幸枝がここにいないことだけが、あまりにも不自然だった。


 やがて、被告人入廷。


 太田大地が法廷に入ってくる。


 その瞬間、傍聴席の空気が変わった。


 あまりにも普通の若い男。

 それが、幸枝をあんな形で奪った張本人。

 その現実が、あらためて加賀家と一貴の胸を抉る。


 今日子は思わず息を呑み、

 充は拳を握りしめ、

 一貴は一度だけ目を閉じてから、改めて被告を見た。


 “公の場の加害者”。


 それは取り調べ室で見た時とまた違う顔だった。

 法廷の中で、被告はひどく小さく見える。

 だが、その小ささが罪の軽さを意味するわけではない。


 4 審理の始まり


 裁判長が手続きを進め、起訴状が読み上げられる。

 殺人。

 不同意性交等致死。

 傷害。


 ひとつひとつの罪名が、法廷に淡々と置かれていく。

 その淡々さが逆につらい。


 検察官が冒頭陳述を行う。


 被告はテレビで幸枝を知り、

 店を確認し、

 尾行し、

 人気のない場所で襲った。

 拒絶されたことへの逆上と、支配欲、そして犯行発覚を恐れたことが重なり、

 最終的に首を絞めて命を奪った。


 その流れが、法の言葉で整理されていく。


 傍聴席では、今日子が唇を噛み、龍樹の目は一点に固定されていた。

 一貴はずっと膝の上で手を組んでいる。

 震えが止まらないのを、外に出さないためだった。


 5 裁判員の視線


 裁判員たちも、明らかに表情を変えていた。


 彼らはこの事件のために選ばれた一般の人々だ。

 法律の専門家ではない。

 だからこそ、その反応には“社会の普通の感覚”が出る。


 検察側が証拠を示し始める。

 防犯カメラ。

 足取り。

 店の前で中を見つめる被告の映像。

 尾行のリレー。


 さらに、現場写真、実況見分の資料、検視時の写真が提出される。


 必要な範囲に限られた提示だった。

 それでも十分すぎるほど重かった。


 写真が示された瞬間、傍聴席だけでなく、裁判員席にも緊張が走る。


 誰もじっと見続けられない。

 目をそらす者。

 唇を押さえる者。

 表情を固くする者。


 赤く腫れあがった顔。

 暴力の痕跡が残る首元。

 もはや“事件”という抽象語では隠せない、あまりにむごい現実。


 ひとりの裁判員は、一瞬だけ顔を背けた。

 別の裁判員も、目を伏せたまましばらく上げられない。


 そこにあった感想は、ほとんど共通していた。


 あまりにもひどい。


 それだけだった。


 6 質問が飛ぶ


 審理が進む中で、裁判員からも質問が出る。


「被告は、被害者と面識がなかったにもかかわらず、なぜそこまで一方的に“自分のもの”と思えたのですか」


 その質問に、法廷の空気が少しざわつく。

 まさに核心だからだ。


 大地は一瞬黙ってから、曖昧な言い方をする。


「……そうなると思ったので」

「何を根拠に?」

 さらに裁判員が問う。


 答えられない。

 いや、答えがそもそも空っぽなのだ。


 別の裁判員が聞く。


「被害者が婚約者の存在をはっきり示して拒絶した時点で、なぜ引かなかったのですか」

「……」

「相手に明確な意思があるのに、それを無視して行為に及んだ理由は何ですか」


 大地は視線を落とし、まともに答えられない。


 その沈黙こそが、彼の中身のなさを示していた。


 7 反省のない被告


 法廷の中で、太田大地ははっきりした反省の態度を見せなかった。


 涙を流すでもない。

 被害者に向き合うでもない。

 遺族の方を見るでもない。


 ただ、自分が責められていることへの不満や、

 取り繕った曖昧な返答を繰り返すばかりだった。


 その姿に、傍聴席の空気は徐々に張り詰めていく。


 幸枝の親友が、思わず低く言った。


「何あれ……」


 洋菓子店の先輩も、顔をしかめたまま被告を見ている。


 一貴は、もう耐えきれないように被告をにらんでいた。

 充の肩も小さく震えている。

 今日子は、何度も涙を拭いながら前を見ていた。


 そして、ある被告の受け答えのあと、

 傍聴席の後方から怒りを含んだ声が漏れた。


「ふざけるな……」


 一瞬、法廷が緊張する。

 注意が入る。

 だが、その声がどこから出たものか、誰も責められなかった。


 あまりにも反省がない。

 あまりにも、人の命を奪った重さを理解していない。


 そのことが、そこにいる全員をさらに傷つけた。


 8 遺族の中の怒り


 休廷中、加賀家と一貴は控室でしばらく言葉を失っていた。


「何なんあいつ」

 最初に口を開いたのは充だった。

「あれで反省しとるつもりなんか」


 龍樹は壁にもたれて、低く言う。


「人を殺した顔じゃない」

「……」

「うちの娘がどれだけ苦しかったか、何も分かっとらん」


 今日子は泣きながら言った。


「幸枝は、あんなに必死で生きとったのに……」

「どうして、あんな人間に……」


 一貴は、しばらく黙ったまま立っていた。

 やがて、絞るように言う。


「幸枝の名前、法廷で何回も呼ばれた」

「……」

「でも、呼ばれるたびに、あいつのやったことの材料みたいになる」

「……」

「それが悔しい」


 その悔しさは、遺族全員に共通していた。

 幸枝は証拠ではない。

 事件の被害者という記号でもない。

 ちゃんと生きて、笑って、愛されていたひとりの人間だ。


 なのに法廷では、どうしても“被害者”として切り取られていく。

 そのことが、また別の苦しさを生む。


 9 傍聴席という場所


 傍聴席は、ただ座って見ている場所ではない。


 そこで遺族は、何度も心を切り裂かれる。

 加害者の顔。

 供述。

 証拠写真。

 弁護側の言葉。

 そして、幸枝が“事件の中身”として語られる時間。


 それでも、そこに座るしかない。


 幸枝のために。

 幸枝が本当に受けたことを、

 途中で目をそらさずに見届けるために。


 それが、今日この裁判所へ来る前、遺影の前で交わした約束だった。

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