起訴
第27話「起訴」
逮捕から半年。
季節は冬を越え、春を過ぎ、七月の初めに入っていた。
尾道の町は、もう夏の気配をまとっている。
あの日とは違う蝉の声。
違う空の色。
違う風。
けれど加賀家にとって、時間はまっすぐ進んではいなかった。
半年という長さは、傷を癒やすには短すぎて、
現実を刻み込むには十分すぎる時間だった。
幸枝は帰ってこない。
それだけは、半年経っても一ミリも変わらなかった。
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1 起訴
七月初め。
ついに、太田大地は起訴された。
起訴罪名は、殺人、不同意性交等致死、傷害など。
村上誠司、黒田雅史、佐伯真由、水野しのらが積み上げてきた証拠と供述の整理が、ようやく法廷へ持ち込まれる段階に入った。
その知らせを受けた時、加賀家の反応は、いわゆる“安堵”ではなかった。
「やっと、ここまでか」
龍樹が言う。
それは喜びではなく、ようやく地獄の入口に立たされた、という響きだった。
今日子はただ静かに遺影を見た。
「幸枝、やっと裁かれるよ」
そう声をかける。
「でも、まだ何も終わってないね」
充は通知文を机に置いて、長く息を吐いた。
「ここからなんよな」
「うん」
一貴が答える。
「ここから、あいつが何をしたかを、法廷でひとつずつ突きつけることになる」
“起訴”は区切りではない。
むしろ、苦しみを言葉に変えていく時間の始まりだった。
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2 先に始まる民事
だが、この家族を待っていたのは刑事裁判だけではなかった。
生活は止まっていない。
止められない。
そして現実には、あまりにも多くの損失が積み上がっていた。
命を奪われたことそのもの。
婚約者としての人生を断ち切られたこと。
家族が受けた精神的苦痛。
仕事を休まざるを得なくなった損失。
社会的信用への影響。
将来失われたはずのない収入。
さらに、事件後にSNS上で続いた名誉毀損と侮辱。
それらに向き合うため、加賀家、一貴、そして関係する家族たちは、
刑事裁判に先立って、民事訴訟を起こす決断をした。
担当するのは、弁護士滝沢恵。
滝沢は、書類の束を前にして静かに言った。
「これは単なる“お金の話”ではありません」
「奪われたものがどれだけ大きいかを、社会と法に対して明確に示す手続きです」
加賀家も、一貴も、その意味は分かっていた。
幸枝は戻らない。
四億円だろうと十億円だろうと、命そのものは戻らない。
それでも、
“失われたものには値段がつけられないから請求しない”
では終われなかった。
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3 四億円の請求
太田大地に対する民事裁判では、総額四億円の損害賠償請求が準備された。
内訳は、ただ数字を積んだだけではない。
ひとつひとつが、幸枝と残された人たちの人生の破壊を計算に乗せたものだった。
幸枝本人に対する慰謝料。
一貴が受けた精神的苦痛と婚約関係の破壊。
加賀家が受けた深刻な精神的損害。
江守家、石田家が受けた生活上・精神上の損失。
幸枝が将来得るはずだった逸失利益。
事件後、加賀家、江守家、石田家の各家族が、仕事を休まざるを得なかったことによる損害。
数字だけ見れば巨大だった。
だが、実際に失われたものを前にすれば、むしろ小さすぎる気さえした。
「四億でも足りん」
充がぽつりと言った。
その言葉を、誰も否定しなかった。
滝沢は静かにうなずいた。
「ええ。足りません」
「でも、法廷で扱えるのは、まず“足りないと知りながらも請求する”という形です」
今日子は書類の数字を見つめながら、ひどく遠い顔をしていた。
「この数字のどこにも……幸枝の笑い声は入っとらんね」
「……」
「台所に立っとった姿も、花見て喜んどった顔も」
滝沢は少しだけ間を置いて答える。
「入ってはいません」
「だからこそ、せめて“それだけのものが失われた”とは、はっきり示します」
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4 SNSの三十人
もうひとつ、別の民事裁判も動き始めていた。
事件後、幸枝の名誉を毀損し、侮辱し、プライバシーを侵害したSNS投稿。
そのうち、特に悪質で、発信者情報の特定に至った三十人に対して、総額一億円の損害賠償を請求する訴訟だ。
「たかがネットの書き込み、では済ませません」
滝沢恵は明言した。
「被害者は命を奪われました」
「その後も死者の人格を踏みにじり、遺族を傷つける投稿は、明確な加害です」
その言葉に、今日子はようやく少しだけ前を向いた。
幸枝は、事件で二度傷つけられた。
ひとつは犯人に。
もうひとつは、見ず知らずの他人たちに。
その二つ目に対して、ようやく反撃の形を持てる。
それだけでも、今は意味があった。
充も言う。
「幸枝は、あんなこと言われるような子じゃない」
「そこだけは、絶対に引けん」
一貴の声も低く、はっきりしていた。
「幸枝を、勝手な物語に変えさせたくない」
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5 法廷の前の生活
起訴された。
民事も始まる。
数字も書類も整っていく。
でも、家の中では相変わらず現実が止まっている場所がある。
玄関。
部屋。
台所。
食卓。
骨壺はまだ居間にある。
今日子は相変わらず、朝に手を合わせる。
龍樹は仕事に出るが、帰ってきても以前よりひとこと少ない。
充は法的な書類を読む時間が増えたぶん、感情を後回しにする癖が強くなった。
一貴もまた、加賀家と自分の家のあいだで、どこにも完全には居場所を持てずにいた。
裁判は始まる。
でも、生活はもう元には戻らない。
その両方が、同時に存在していた。
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6 “戦う”しかない
ある夜、滝沢恵が帰ったあと、加賀家の居間には長い沈黙が落ちた。
テーブルの上には、請求額の書かれた資料。
四億円。
一億円。
数字だけ見れば巨大で、どこか現実感がない。
龍樹が、低く言った。
「ほんとは、こんなことしたくない」
「……」
「幸枝がおるなら、裁判なんかなくてええ」
「うん」
今日子が答える。
「ただ、お正月が来て、春が来て、また普通に笑えればよかったんよね」
それだけの願いだった。
それだけの生活だった。
でももう、それはない。
充が書類を閉じる。
「だから、戦うしかない」
「幸枝がおらんまま終わらせるわけにはいかん」
一貴もうなずく。
「裁かせる」
「ちゃんと、全部、法廷で言葉にする」
それは復讐ではない。
少なくとも、ただの私刑ではない。
失われたものが、確かに失われたのだと、
社会と法に突きつけるための戦いだった。
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7 起訴の意味
第27話「起訴」は、裁判が始まる話ではある。
でも本当は、
遺族が“被害者”から“当事者”へ変わる瞬間
の回でもある。
泣くだけでは済まない。
怒るだけでも足りない。
法の言葉で、現実を切り取り、積み上げ、ぶつけていく。
幸枝の人生。
幸枝の未来。
加賀家の喪失。
一貴の断ち切られた時間。
家族ぐるみで広がっていたはずの幸福。
そのすべてを、
次の法廷で言葉にしていかなければならない。
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8 次へ
七月初め。
起訴状が出そろい、民事も提起される。
空の色は夏に近づいているのに、加賀家にとって季節はまだ凍ったままだ。
それでも進む。
進まされる。
法廷は待ってくれない。
こうして物語は、次の段階へ入る。
遺族の悲しみが、
怒りと、言葉と、証言に変わっていく時間へ。




