もう帰ってこない
第26話「もう帰ってこない」
骨壺が家にある、という現実は、
泣き疲れたあとにやってくる。
最初の数日は、悲鳴のような時間だった。
泣いて、呼んで、眠れず、信じられず、
ただ壊れることでしか現実に抵抗できない時間。
けれどそれが少し過ぎると、
もっと静かで、もっと残酷な現実が始まる。
もう帰ってこない。
その事実が、家の中のあらゆる場所から、
毎日少しずつ突きつけられるようになる。
1 骨壺のある居間
居間の一角に、幸枝の遺影と骨壺がある。
白い布。
花。
線香。
小さなお菓子の供え物。
以前の加賀家なら、そこはテレビの音が流れ、夕食の支度の匂いが広がる場所だった。
今は、誰もそこを普通の居間として見られない。
今日子は朝起きると、まずそこへ行く。
手を合わせる。
何を言えばいいのか分からない日もある。
それでも立つ。
「おはよう」
今日もそう言った。
返事はない。
でも、その言葉をやめてしまったら、本当に遠くへ行ってしまいそうで怖い。
骨壺は、近くにある。
だから、どこかにいるような気もする。
でも同時に、それが骨壺である限り、もう元の姿で帰ってこないことも、嫌でも分かる。
その矛盾が、今日子を何度も泣かせた。
2 玄関は、まだ待っている
玄関には、幸枝が履いていた靴がまだ残っていた。
少し前まで、それはただの靴だった。
今はもう、帰ってこない人を待つ物になっている。
玄関の戸が開くたびに、今日子は一瞬だけ体を強張らせる。
買い物帰りの龍樹でも、充でも、一貴でも、
その一瞬だけは、幸枝の足音を探してしまう。
でも違う。
帰ってくるのは別の誰かで、
幸枝だけは帰ってこない。
「……もう、帰ってこんのよね」
今日子がぽつりと言った時、
龍樹は靴を脱ぐ手を止めた。
分かっている。
でもその言葉を口にしてしまうと、
それまで家の中に残していた“もしかしたら”が全部死んでしまう気がした。
だから龍樹は、何も返せなかった。
3 部屋は昨日のまま
幸枝の部屋は、まだほとんどそのままだった。
ベッド。
レシピ本。
一輪挿し。
押し花のしおり。
鏡の前の小物。
ハンガーにかかった服。
クリスマスイブに持っていくはずだった小さなバッグ。
何もかもが、“あとで戻ってきて続きをやる”前提のまま置かれている。
充は部屋に入って、窓際に立った。
冬の光が、カーテン越しに薄く差している。
そこに幸枝がいないことが、まだ現実になりきらない。
「ここ、まだ幸枝の匂いする」
充が言う。
今日子が後ろで泣きそうな顔になる。
「しばらく、そのままにしようか」
「……うん」
整理しなければならない日は、いつか来る。
でも今日ではない。
まだ何ひとつ、捨てられない。
4 台所の止まった時間
台所もまた、帰ってこないことを突きつける場所だった。
今日子は少しずつ、最低限のことだけはできるようになっていた。
お湯を沸かす。
簡単な味噌汁を作る。
卵を焼く。
でも以前のように、
「家族のために食卓を整える」
という感覚は、まだ戻らない。
台所には幸枝の声が残りすぎている。
「お母さん、味見して」
「ねえ、これちょっと甘い?」
「今度こんなの作ってみたい」
その声が、包丁を持つたび蘇る。
今日子は、まな板の前で何度も立ち尽くした。
作れる日もある。
でも、その途中で急に手が止まる日もある。
龍樹はそれを責めない。
責められるはずがない。
「今日は買ってこよう」
そう言う日が、まだ多かった。
5 年末が来るのが怖い
町は、容赦なく年末へ向かっていた。
スーパーの入口には鏡餅。
商店街には正月飾り。
テレビでは「今年を振り返る」特集。
その全部が、加賀家には暴力みたいだった。
今年を振り返る?
何をどう振り返れというのか。
この年の終わりに、幸枝がいないことをどう受け入れろというのか。
今日子は正月用品のチラシを見て、すぐに裏返した。
「無理」
小さく言う。
「幸枝おらんのに、お正月なんか来んでええ……」
充もカレンダーを見るたびに息が詰まる。
「新しい年、来てほしくない」
「……」
「幸枝おらん年なんか、始まらんでほしい」
それは子どもじみた願いかもしれない。
でも、遺された者にとっては本気の願いだった。
6 大地の両親、接見へ
一方、太田大地の両親もまた、壊れ始めていた。
警察に任意同行され、逮捕され、報道で名前が流れたあと、
息子が本当に何をしたのか、少しずつ輪郭が見え始めていた。
そして接見の日。
父も母も、面会室に入る前から顔色がなかった。
ガラス越しに見た息子は、どこか現実感のない目をしていた。
「お前……」
父の声は低く震えている。
「何をしたか分かっとるんか」
大地は、最初から反省した顔ではなかった。
むしろ、自分が理解されていないことへの不満みたいなものを浮かべていた。
「だって、自分の彼女になるはずだったし」
そんな言葉が口から出る。
父の表情が変わる。
「……は?」
「だから、俺の彼女だから、何してもいいだろ」
「ふざけるな!」
面会室に父の怒鳴り声が響いた。
「よそ様の大事な娘さんに対して、何いうとんじゃ!」
母も涙を浮かべながら首を振る。
「何言ってるの……」
「そんなの、彼女じゃない」
「人を勝手にそういうふうに扱うんじゃない!」
だが大地は、なおも現実から外れた理屈を口にする。
「じゃあ、あんたらが彼女を見つけてくれたらよかったじゃん」
「俺ばっか責めるなよ」
まるで自分は正しくて、周りが間違っているという顔だった。
父は拳を握りしめる。
「お前は人を殺したんじゃ!」
「……」
その言葉を受けても、大地の顔には本当の意味での理解が見えない。
そこにいたのは、壊れた息子ではなく、
自分の欲望だけを現実だと思い込んだままの男だった。
7 謝罪に来る両親
接見のあと、大地の両親は加賀家へ向かった。
行ってどうにかなるとは思っていない。
謝って済むことではないことも、分かっている。
それでも、謝らずにいられなかった。
インターホンが鳴る。
充が出る。
玄関に立つ大地の両親を見た瞬間、顔が凍った。
「……何ですか」
声に温度はなかった。
父親が深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
「うちの息子が、とんでもないことを……」
今日子も、龍樹も、奥からその姿を見る。
一貴も今日は加賀家にいて、顔を上げた。
だが、謝罪が届く余地など、どこにもなかった。
「帰れ」
充が言う。
母親が涙を流しながら、何か言おうとする。
「どうか……」
「帰れって言うとるじゃろ!」
今度は声が爆発する。
「お前たちと話すことはない!」
「謝られても幸枝は帰ってこんのんよ!」
「今さら何しに来たんじゃ!」
龍樹も前へ出て、はっきり言う。
「二度と来んでくれ」
「話すことはない」
一貴の目にも怒りしかなかった。
「許せるわけないでしょう」
「こっちは、あの人と生きるはずだったんです」
「それを壊した側と、何を話せって言うんですか」
大地の両親は何度も頭を下げた。
だが、その頭を下げる姿さえ、今の加賀家と一貴には受け止める余力がなかった。
玄関の戸が閉まる。
そのあともしばらく、誰も動かなかった。
8 SNSの傷は続く
その一方で、SNSの書き込みはまだ止まらない。
無責任な憶測。
人柄を否定するような投稿。
「二股じゃないか」「男に媚びていたのでは」
そんな言葉が、幸枝の死後も彼女を傷つけ続ける。
充は何度もスマホを握りつぶしたくなる。
一貴も、知らない誰かが幸枝を勝手に作り変えていくのを見ていられない。
そこで動いたのが、弁護士
滝沢恵
だった。
滝沢は、印刷された投稿の束を机に置き、冷静に言う。
「これは看過できません」
「発信者情報開示を進めます」
「名誉毀損、侮辱、プライバシー侵害に当たるものについては、必要な民事・刑事手続きを取ります」
今日子が小さく言う。
「そこまで、できるんですか」
「できます」
滝沢は即答する。
「遺族が黙って耐える時代ではありません」
その後、滝沢は記者会見を開く。
「被害者は命を奪われました」
「そして死後も、人格を踏みにじる虚偽の言説にさらされています」
「こちらは必要な法的措置を講じます」
「容赦しません」
その言葉は、冷たいが、遺族には必要な冷たさだった。
9 もう帰ってこない
夜。
骨壺は居間にある。
部屋も、玄関も、台所も、そのままだ。
でも幸枝は帰ってこない。
何かが起きた直後の混乱は、少しずつ薄れていく。
その代わりに、もっと深くて静かな現実が、毎日家の中に居座るようになる。
もう帰ってこない。
この家のどこにも、もうあの足音はしない。
もうあの声は聞こえない。
もう「お母さん、今日なに?」も、
「お兄ちゃん、うるさい」も、
「一貴、写真撮って」も、ない。
それが日常になる。
この第26話で、事件前13話の“日常編”は完全に終わる。
戻れる場所は、もうどこにもない。




