笑えなくなった家族
『戻らない日常』
第25話「笑えなくなった家族」
笑う、という行為は、思っている以上に体に染みついている。
誰かの言い間違い。
テレビのくだらない一言。
昔話の中の失敗談。
そういう小さなことで、人は無意識に口元をゆるめる。
でも大切な人を理不尽に奪われたあと、その“無意識”すら裏切りになる。
加賀家では、もう誰も自然に笑えなくなっていた。
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1 笑ってはいけないみたいに
ある夕方。
テレビをつけっぱなしにしていた充が、バラエティ番組の芸人のやり取りに、一瞬だけ口元を動かした。
ほんの一瞬だった。
でも次の瞬間、自分でその顔を強張らせた。
「……何やってんだ俺」
リモコンをつかんで、すぐテレビを消す。
今日子も似たようなことがあった。
近所の人が持ってきてくれた差し入れの焼き菓子の袋に、ちょっとかわいいイラストが描かれていて、ふと「幸枝ならこれ見て喜んだろうな」と思った瞬間、少しだけ頬がゆるみかけた。
その直後、胸の奥に罪悪感が落ちる。
「ごめん……」
誰に向かっての謝罪か、自分でも分からない。
龍樹はもともと多くを笑う人ではなかった。
けれどそれでも、家の中の小さなやり取りに口元をゆるめることはあった。
今はそれすらなくなった。
一貴も同じだ。
百合愛が昔の幸枝の話をしながら、少しだけ笑ってしまい、次の瞬間に泣き出した時、一貴はその姿を見て何も言えなかった。
笑うことが悪いわけじゃない。
でも、笑った自分を許せなくなる。
幸枝がいないのに。
幸枝はあんなふうに奪われたのに。
自分たちだけ、笑っていいはずがない。
そう思ってしまう。
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2 犯罪被害者参加制度
やがて事件は起訴へ向かい、加賀家と一貴は、犯罪被害者参加制度を利用することを決めた。
ただ裁判を傍聴するだけではなく、遺族として、被害者の側に立って関わる。
簡単に決められることではなかった。
けれど、幸枝の無念を誰かの言葉だけに預けたくなかった。
「直接、見んといけん」
龍樹が言った。
「顔を見たい」
充も言う。
「幸枝に何をしたのか、その口で聞きたい」
今日子は最初、そこまで耐えられる自信がなかった。
だが最終的には、震える声で言った。
「……逃げたくない」
「幸枝だけ、あんな思いをしたのに、私らだけ見んで済ませるわけにいかん」
一貴も同席を希望した。
婚約者として、幸枝の最後に向き合う責任があると思ったからだ。
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3 初めて加害者と向き合う
接見の日。
その部屋は静かで、無機質だった。
壁も机も椅子も、感情を持たない。
けれど、その空間に入った瞬間、加賀家と一貴の中では、あらゆる感情が剥き出しになった。
太田大地が入ってくる。
二十一歳。
あまりにも若い。
あまりにも普通に見える。
それが逆に、今日子には吐き気がするほど耐えがたかった。
「……この人が?」
かすれた声で言う。
龍樹の目は、一度も逸れなかった。
充は拳を握りしめ、一貴は呼吸を浅くしている。
村上誠司が手続きを確認し、必要な注意を説明する。
佐伯真由も同席していた。
遺族の心身の状態に配慮しながらも、この場が単なる感情のぶつけ合いで終わらないように見ている。
だが、そんな制度上の整理とは別に、遺族の中にあるものはひとつだった。
この男が幸枝を奪った。
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4 遺族が置かれている状況
最初に口を開いたのは龍樹だった。
「お前のせいで、うちの家は壊れた」
低い声。
怒鳴りはしない。
でも、静かな怒りのほうがよほど重かった。
「母親は台所に立てん」
「兄は妹の部屋で泣いとる」
「婚約者は今も自分を責めとる」
「……」
「お前が殺したのは、幸枝ひとりじゃない。うちの家族の時間も全部壊した」
太田は目を上げたり下げたりするだけで、まともに返せない。
今度は今日子だった。
「幸枝は……」
言葉が詰まる。
「うちの子は、何にも悪いことしてない」
「花が好きで、ケーキが好きで、ちゃんと仕事して、ちゃんと人を好きになって……」
「それだけの子だった」
「……」
「なんで、そんな子が、あんな目に遭わんといけんかったん」
問いには、答えがない。
いや、答えのようなものはあるのかもしれない。
でもそれは到底、“理由”と呼べるものではない。
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5 最後の顔、最後の言葉
一貴は、かなり長い時間黙っていた。
そしてようやく、低く聞いた。
「幸枝は……最後、どんな顔してた」
その部屋の空気が変わる。
「……」
「何て言った」
太田は沈黙する。
村上誠司が促す。
「答えろ」
太田の口から出るのは、断片的で、自分に都合のいい言葉ばかりだった。
拒まれた。
腹が立った。
騒がれた。
名前を呼ばれた。
その中で、一貴ははっきり理解してしまう。
幸枝は最後まで、必死で助けを求めていたのだと。
婚約者の名前を呼んだ。
生きようとしていた。
抵抗していた。
一貴はそこで顔を覆った。
「……ごめん」
その言葉が、また口から漏れる。
佐伯真由は遺族側に目を向け、これ以上細部をこの場で繰り返させる必要はないと判断して、聴取の進行を抑えた。
十分すぎるほど、遺族は傷ついていた。
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6 娘の最後を知りたい
接見が終わったあと。
誰もすぐには立てなかった。
今日子は泣き崩れ、龍樹は顔を伏せ、充は呼吸を整えることもできない。
一貴は椅子に座ったまま、完全に力を失っていた。
その中で、龍樹が村上誠司に言った。
「……見せてください」
村上が顔を上げる。
「何を、ですか」
「幸枝の最後を」
「……」
「遺体を検視した時の写真でも、現場の写真でもええ」
「父さん」
充が思わず止める。
だが龍樹は首を振る。
「知りたいんじゃ」
「うちの娘が、どんなふうに殺されたのか」
「親として、知っとかんといけん」
今日子も涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、震える声で言う。
「私も……見たい」
「怖いけど、でも、見んと……」
警察側は一度躊躇した。
遺族への負荷が大きすぎるからだ。
だが、見ないままでは前に進めない遺族もいる。
その思いを無視することもできない。
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7 写真が突きつけるもの
写真は、事実だけを写していた。
そこに言い訳も、都合のいい解釈もない。
遺体を発見した場所。
実況見分の記録。
検視時の写真。
警察は必要な説明を最小限に留めながら見せる。
だが、それでも十分すぎるほど残酷だった。
今日子は、最初の数枚で声を失った。
龍樹はまるで石みたいに固まる。
充は顔を背けそうになるのを必死で堪える。
一貴は、見た瞬間に目の奥が熱くなる。
そこに写っていたのは、
笑っていた幸枝ではなかった。
花を見ていた幸枝でも、ケーキの話をしていた幸枝でもない。
暴力によって奪われた、あまりにもひどい現実だった。
必要以上に言葉にはしない。
だが、遺族には十分すぎるほど伝わった。
「……何で」
今日子の口から、またその言葉が漏れる。
「何で、うちの娘が……」
「何で、こんな死に方せんといけんかったん……」
龍樹は、写真から目を離さずに言う。
「……許せん」
それはもう、悲しみだけではなかった。
怒りが、はっきり形を持ち始めていた。
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8 死刑への思い
写真を見たあと、部屋には長い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、充だった。
「こんなん……」
「こんなんで、生きとっていいわけないやろ」
声が震えている。
でも、それは弱さではなく、怒りだった。
一貴も低い声で言う。
「幸枝は、あんなに生きようとしてた」
「それを、あいつは……」
今日子は、涙で息を詰まらせながら、はっきり口にした。
「死刑にしてもらいたい」
龍樹も、静かにうなずいた。
「加害者に、幸枝の時間の続きを生きる資格なんかない」
それは、きれいごとを通り越した、遺族としての生身の感情だった。
ここには許しも、理解もない。
ただ、奪われた命に対して、できる限り重い責任を取らせたいという思いだけがあった。
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9 笑えなくなった家族、その先へ
この回で、家族はもう後戻りできないところまで来る。
悲しみだけではなく、怒りを知る。
現実を写真として見せられ、幸枝の最後を“事実”として胸に刻まれる。
そして、加害者の命に対してすら、はっきりと「生かしておけない」と思うようになる。
それは、もともとの加賀家にはなかった感情だった。
だからこそ、この事件が家族をどこまで変えてしまったかが分かる。




