葬儀の日
第24話「葬儀の日」
葬儀の日は、晴れていた。
空は静かで、風も強くない。
こんな日に見送らなければならないことが、かえって現実味を奪っていた。
式場の白い花。
遺影の中の幸枝の笑顔。
焼香の列。
泣き声を押し殺すような息づかい。
その全部の中に、家族の中では何度も回想がよみがえっていた。
今ここに横たわっている人は、ほんの少し前まで、たしかに生きていたのだと、
何度でも、何度でも思い知らされるように。
1 花に囲まれた幸枝
棺の中の幸枝は、白い花に囲まれていた。
頬の色は穏やかに整えられ、苦しみの跡はもう見えない。
けれどその静けさが、今日子にはたまらなく恐ろしかった。
こんなに静かな子じゃなかった。
もっとよく笑って、よくしゃべって、台所に顔を出しては「今日なに?」と聞く子だった。
今日子は棺のそばで立ち尽くしながら、ふいに昔の朝を思い出す。
まだ小学生の頃の幸枝。
寝ぐせのついたまま階段を下りてきて、
「お母さん、お腹すいた」
と真っ先に言った顔。
そのあと、食パンをくわえたままランドセルを探して、
「知らん!」
と自分で置いた場所を忘れて泣きそうになっていた。
充が横から呆れた顔で
「そこにあるじゃろ」
と指さし、幸枝が
「あ、あった!」
と一瞬で機嫌を直した。
そんな、笑いながら始まる朝が何度もあった。
「……幸枝」
今日子は、棺の中の娘を見ながら、小さくその名前を呼ぶ。
返事がないことが、まだ信じられない。
2 龍樹の回想
龍樹は棺の前で、じっと立っていた。
泣いていないように見える。
けれど、それは悲しみが浅いのではなく、感情が深すぎて表に出せなくなっているだけだった。
目の前の娘を見ていると、あの日の夕方が浮かぶ。
幸枝が中学生の頃。
学校帰りに、道端のひまわりを見つけて立ち止まった。
龍樹が仕事帰りに迎えに行くと、幸枝はしゃがみ込んで真剣に花を見ていた。
「何しとる」
そう聞いた自分に、
「見て。こっち向いとる」
幸枝は真顔で言った。
夕方の光の中で、ひまわりが少しだけ傾いていた。
ただそれだけのことなのに、幸枝は本当に嬉しそうだった。
「お父さん、ひまわりって元気出るよね」
そう言って笑った顔が、今も頭に残っている。
龍樹は、その記憶の中の娘と、今目の前の娘を重ねようとして、うまくできない。
「……なんでじゃ」
それは問いではない。
ただ、父親の胸の底からこぼれた音だった。
3 充の回想
充は、焼香に訪れる人たちの対応をしながら、何度も意識が遠くなりそうになっていた。
喪主ではない。
でも今は、自分が何かを支えなければ家が崩れる気がして、立っている。
その最中にも、妹とのどうでもいいやりとりばかり思い出す。
誕生日に渡した一輪挿し。
幸枝が袋を開けて、
「かわいい!」
と本気で喜んだ顔。
あの時、照れくさくて
「花、よく飾るじゃろ」
としか言えなかった。
本当はもっと、頑張ってるなとか、似合うと思ったとか、そういうことを言えたはずなのに。
兄妹というのは厄介だ。
近すぎて、肝心なことほどまっすぐ言えない。
でも、だからこそ思う。
もっと言えばよかった。
もっと笑えばよかった。
もっと、ただ普通に話していればよかった。
棺の中の幸枝を見て、充の喉の奥が熱くなる。
「……ごめんな」
その謝罪は、やっぱり届かない。
4 友人たちの言葉
尾道高校の同級生たちが、次々と花を手向ける。
「幸枝って、ほんまよう笑う子だったよね」
「うん。こっちが落ち込んどっても、自然に話しかけてくれた」
「無理に元気出せって言わんとこが、優しかった」
料理専門学校の仲間たちも来ていた。
実習で失敗した時のこと、焼き菓子の話を止まらなくしていたこと、
甘いものの話になると急に早口になったこと。
「夢の話してる時、ほんま楽しそうだった」
「自分の店持ちたいって、ちゃんと目ぇ輝かせて言ってたよね」
学校の先生は、式場の片隅でしばらく立ち尽くしたあと、静かに言う。
「人を喜ばせたい、という気持ちを持った子でした」
「そういう子が、どうして……」
その先は言葉にならなかった。
5 叔父の弔辞
叔父が前に出る。
両親の代わりに弔辞を述べる役目を引き受けた人だ。
手元の紙が、少しだけ震えていた。
「本日は、加賀幸枝のためにお集まりいただき、ありがとうございます」
声は落ち着いていた。
だが、その一文を読み上げるだけでも、胸の奥では何かが崩れているのが分かる。
「幸枝は、明るく、人の気持ちに敏感で、誰かが喜ぶことを自分の喜びにできる子でした」
「花が好きで、季節の移ろいを大切にする子でした」
「そして、お菓子作りに真っ直ぐ向き合い、自分の夢へ誠実に歩いていました」
その言葉のたびに、家族の頭にはいろんな場面が浮かぶ。
庭にしゃがみ込む幸枝。
試作したケーキを家に持ち帰る幸枝。
台所で今日子の横に立つ幸枝。
兄をからかって笑う幸枝。
「このような形で見送らなければならないことは、あまりにも無念です」
「それでも、本日こうして多くの方にお見送りいただけることが、幸枝がどれほど愛されていたかを物語っております」
叔父は一度だけ言葉に詰まった。
それでも最後まで読み切る。
「どうか皆さまの記憶の中に、笑っていた幸枝を残してやってください」
会場のあちこちで、すすり泣きが広がった。
6 一貴の弔辞
一貴が立つ。
婚約者として。
これから一緒に生きるはずだった相手として。
失われた未来を、誰より具体的に持っていた人間として。
紙を持つ手が震えている。
それでも前を向く。
「江守一貴です」
最初の一言だけで、もう会場の空気が変わる。
「幸枝とは、高校生の頃から一緒にいました」
「最初は、こんなふうに長く一緒にいるとは思ってなかったです」
「でも、気づいたら、隣にいるのが当たり前になっていました」
それは本当だった。
特別な告白も、劇的な約束もなかった。
気づいたら日常の中に幸枝がいた。
「幸枝は、好きなものを好きってちゃんと言える人でした」
「ケーキの話をしている時も、花を見つけた時も、本当に同じ顔をして笑う人でした」
「その顔を見るのが、僕はすごく好きでした」
今日子が顔を覆う。
充は目を閉じる。
龍樹は一点を見つめたまま動かない。
「一緒に見に行くはずだった景色がありました」
一貴の声が揺れる。
「これから住む家の話もしていました」
「庭に、何の花を植えるかって話もしていました」
そこで、一貴は一度言葉を失う。
会場の静けさが、逆にその苦しさを際立たせる。
「守れなくて、ごめん」
「間に合わなくて、ごめん」
「約束、果たせなくてごめん」
涙がこぼれる。
でも一貴は立ち続けた。
「でも、幸枝に出会えてよかった」
「幸枝といた時間は、僕の人生でいちばん大事な時間でした」
「ありがとう」
「ほんとうに、ありがとう」
深く頭を下げる。
その背中を見て、百合愛は嗚咽をこらえきれなかった。
小百合も、一也も、石田家の面々も、誰ひとりまともに前を見られなかった。
7 火葬
火葬場へ向かう時間は、現実感がさらに薄れる。
だが、火葬炉の前まで来ると、それまで曖昧だった喪失が急に輪郭を持つ。
棺が運ばれる。
花に囲まれた幸枝が、少しずつ遠ざかっていく。
今日子の中で、いくつもの場面が一気に蘇る。
熱を出した夜、額を冷やしたこと。
はじめてケーキを焼いて、焦がして泣いたこと。
「お母さん、見て」と言って、盛り付けた皿を誇らしげに差し出したこと。
全部、ほんの少し前のことみたいなのに。
「幸枝!」
今日子がとうとう叫ぶ。
「幸枝! 待って! 待ってよ!」
その声は、式場での涙とは違う。
母親が子どもを呼び戻そうとする、むき出しの声だった。
龍樹が支える。
でも龍樹自身も、もう立っているのがやっとだった。
充は歯を食いしばり、
一貴は目の前の光景を受け止めきれず、ただ呆然と見ている。
扉が閉まる。
その音が、すべてを決定づける。
8 火葬のあとに来るもの
火葬が終わったあと、本当の喪失感が押し寄せた。
遺影はある。
花もある。
骨壺もある。
でも、幸枝そのものはもうどこにもいない。
式の最中は、まだやることがあった。
頭を下げる。
花を手向ける。
弔辞を聞く。
見送る。
だが、火葬が終わってしまうと、急に何もなくなる。
その“何もなさ”が、逆に残酷だった。
今日子は帰りの車の中で、一度も外を見られなかった。
龍樹は窓の外を見たまま、ひとことも話さない。
充は、自分の膝の上に置かれた手が震えているのを止められない。
一貴は、もう泣いているのかどうかも分からない顔をしていた。
9 洋菓子店の夜
その頃、パティスリー・ミズノでは、店長とスタッフたちが厨房に集まっていた。
幸枝が使っていた道具。
幸枝が触っていたボウル。
ヘラ。
絞り袋。
計量スプーン。
小さなメモ。
しばらく誰も手をつけられなかった。
でも店長が、静かに言った。
「幸枝さんの使っていた道具や材料を使って、ケーキとクッキーを作ろう」
先輩スタッフたちが顔を上げる。
「幸枝さんの想いが伝わるようなお菓子を」
「私たちは、幸枝さんがここで懸命に修行していたことを誇りに思ってる」
「幸枝さんに恥じないお菓子を作って、ご両親に届けよう」
その言葉に、誰も反対しなかった。
むしろ、そうすることでしか、今は手を動かせない気がした。
幸枝が最後まで真剣に向き合っていた場所で、
幸枝の想いを少しでも形にして返す。
それが、店にできる精一杯の見送りだった。
バターの香りが広がる。
オーブンの熱が立ち上る。
絞り袋を持つ手は震える。
でも止めない。
幸枝が好きだった、やさしい甘さのケーキ。
きれいな焼き色のクッキー。
厨房の中では、誰も大きな声を出さなかった。
でも全員の胸の中に、同じ思いがあった。
幸枝さん、見ててね。
10 名前を残すように
夜。
加賀家に、洋菓子店から箱が届く。
中には、丁寧に作られたケーキとクッキー。
小さなカードが添えられている。
幸枝さんがここで懸命に修行していたことを、私たちは誇りに思っています。
幸枝さんに恥じないお菓子を、これからも作っていきます。
今日子はそれを読んだ瞬間、また涙を流した。
でもその涙は、ただ壊れるだけの涙とは少し違っていた。
幸枝は、ちゃんとここで生きていた。
ちゃんと誰かの中に残っている。
そのことが、ほんの少しだけ救いになった。
ケーキの箱を前にして、
今日子は小さく言う。
「幸枝、見とる?」
返事はない。
でも、その名前を呼ぶこと自体が、今は大事なことに思えた。




