何も変わらない一日
第12話「何も変わらない一日」
十一月に入ると、尾道の空気は少しずつ変わる。
夏や秋の名残を引きずっていた風が、ようやく本気で冷たくなり始める。
朝の吐息はまだ白くならないが、坂道を上る足取りには、季節の移ろいが確かに混じっていた。
家の庭先では、夏の花が終わり、秋の色が少しずつ深まっている。
幸枝が植えたコスモスは、やわらかく風に揺れていた。
山茶花のつぼみも、まだ固いまま枝先に並んでいる。
何も変わらないようでいて、季節だけはちゃんと進んでいた。
1 秋の朝
「寒っ」
幸枝が玄関で肩をすくめる。
「だから言ったじゃろ、薄い上着じゃ足りんって」
充がすぐ言う。
「でも昼はあったかいんよ」
「朝寒い時点で負けとる」
「なにその判定」
今日子がマフラーを持ってきて、幸枝の首元にふわっと巻いた。
「ほら。巻いとき」
「ありがとう」
「風邪ひいたら店にも迷惑かかるんじゃけぇ」
「分かっとるって」
龍樹はすでに支度を終えて、玄関先で靴を履いていた。
「造船所も今日は風きつそうじゃな」
今日子が言う。
「海沿いは逃げ場ないけぇな」
龍樹が答える。
何も変わらない朝。
同じように声が飛び、同じように靴を履いて、同じように「行ってきます」が交わされる。
その繰り返しが、どこまでも続いていくように見えた。
2 秋の店
パティスリー・ミズノのショーケースも、秋の顔に変わっていた。
栗、さつまいも、りんご、かぼちゃ。
夏の明るい色から、少し落ち着いたやさしい色味へと変わっている。
「幸枝ちゃん、このモンブランの仕上げお願い」
先輩が言う。
「はい」
幸枝はうなずいて、栗のクリームを丁寧に絞っていく。
秋のケーキは好きだった。
見た目も、香りも、どこかほっとする。
華やかすぎず、でもちゃんと豊かで、食べると心が落ち着く感じがする。
「秋っていいですよね」
幸枝がぽつりと言う。
「うん?」
「味がやさしい」
「分かる。あと、色も好き」
「そう。ちょっとくすんでるけど、ちゃんとあったかい感じ」
「幸枝ちゃん、やっぱ表現が職人っぽい」
幸枝は少し照れながら笑った。
その日も店は穏やかに開いていた。
地元の常連、学校帰りの高校生、観光客らしき夫婦。
みんなそれぞれにケーキを選び、会計をして、また日常へ戻っていく。
何も変わらない一日。
そう見えていた。
3 少しだけ違う風
昼過ぎ、幸枝が焼き菓子の補充をしていた時だった。
ガラス越しに、店の外に立ち止まる男の姿が見えた。
二十歳くらい。
背は高め。
服装は特別おかしくない。
でも、どこか立ち止まり方が不自然だった。
入るでもなく、完全に通り過ぎるでもなく、店の外観とショーケースをじっと見ている。
「……?」
幸枝は一瞬だけ気になったが、ちょうど別の客に呼ばれた。
「すみません、この焼き菓子の詰め合わせって」
「あ、はい。こちらです」
対応しているうちに、その男のことは頭から離れていった。
店の外では、太田大地がガラス越しに店内を見ていた。
4 太田大地の思い込み
福山市から電車を乗り継いで尾道まで来る間、大地の頭の中では、何度も同じ妄想が繰り返されていた。
テレビで見た女。
明るく笑っていた、あのケーキ屋の女。
あんなの、まだ本当の自分を知らないだけだ。
あいつの彼氏がいるらしいけど、そんなの関係ない。
どうせ、俺の方がカッコいい。
俺の方がずっと上だ。
ちゃんと見れば分かる。
俺を見た瞬間、俺と付き合いたいと思うはずだ。
根拠はない。
現実に支えられた考えでもない。
ただ、自分に都合のいい想像を重ねて、現実のように思い込んでいるだけだ。
それでも大地は、その歪んだ考えを疑わなかった。
むしろ、
“自分は選ばれる側であるべきなのに、世界がまだそれに気づいていないだけだ”
という、危うい認識を強めていた。
パティスリー・ミズノの前に立った時も、胸の中には妙な確信だけがあった。
「こんなとこで働いてるのか」
ガラス越しに見える幸枝は、テレビの中と同じように笑っていた。
客に頭を下げ、ケーキを包み、忙しそうに動いている。
その自然な表情が、大地には腹立たしくもあり、同時にひどく惹きつけられるものにも見えた。
「……やっぱり、俺のほうがいいに決まってる」
その考え自体が、すでに現実から外れている。
幸枝は彼のことを知らない。
見てもいない。
比べる土台すらない。
それなのに大地の中では、勝手に競争が始まり、勝手に自分が優位だという結論だけが出来上がっていた。
5 店の中と店の外
「幸枝ちゃん、これお願い」
店の中では先輩の声が飛ぶ。
「はい!」
幸枝はすぐに動く。
いつもと同じように働く。
少し忙しいけれど、やりがいのある午後。
ショーケースのガラスを拭きながら、夕方に向けて品数を整える。
店の外では、大地がまだ立っていた。
入るべきか。
話しかけるべきか。
でも何と言えばいい。
いや、そんなの決まってる。適当に話しかければいい。
向こうもきっと、自分を見れば態度が変わる。
その発想そのものが、すでに危うかった。
相手の意思や現実の状況ではなく、自分の期待だけを根拠にしているからだ。
だが大地は、そのことに気づかない。
ようやく店に入ろうと一歩踏み出しかけた時、別の客が先に扉を開けて中へ入った。
幸枝はその客を迎え、笑顔で「いらっしゃいませ」と言う。
その一言を聞いた瞬間、大地は妙に胸がざわついた。
自分へ向けられたわけでもない、ただの接客の声。
それなのに、勝手にそれを特別なもののように受け取ろうとする。
「……やっぱりな」
まるで何かが確かめられたみたいに、大地は小さくつぶやく。
もちろん、それも思い込みにすぎない。
6 家族の平穏
一方、加賀家では夕方、今日子が買い物帰りにコスモスを見て「そろそろ山茶花も咲くねえ」と言い、龍樹が「冬が来るな」と答えていた。
充は仕事帰りに星羅と短く電話をし、幸枝は店で焼き上がった新作の話を一貴にメッセージで送っていた。
《今日、栗のやつめっちゃきれいにできた》
しばらくして返事が来る。
《写真ある?》
幸枝はすぐ撮って送る。
《どう?》
《うまそう》
《まだ食べてないのに》
《見た目で分かる》
それだけのやり取り。
でも幸枝は、それだけでちょっと笑える。
今日子がその顔を見て言う。
「一貴くん?」
「うん」
「顔見たら分かる」
「お母さん、最近それ多い」
「分かりやすいんじゃもん」
「幸枝は全部顔に出る」
充まで言う。
「お兄ちゃんまで!」
「ほんまじゃろ」
龍樹も短く乗る。
「なんなん今日、みんなして!」
食卓に、また笑いが広がる。
7 視聴者だけが知っていること
この一日は、何も変わらない一日だった。
秋が深まり、
ケーキ屋では栗の香りがして、
家ではいつもの会話が交わされ、
恋人たちは短いメッセージを送り合い、
家族は明日も同じように会えると思っている。
ただ、画面の外側で見ている者だけが知っている。
その“変わらなさ”のすぐ近くまで、すでに何かが来ていることを。
幸枝はまだ知らない。
店の前に立っていた男が、ただの通行人ではないかもしれないことを。
その視線が、正常な好意ではなく、歪んだ思い込みに満ちていることを。
加賀家も、江守家も、石田家も、誰ひとり知らない。
日常はまだ無傷のまま、いつもの顔をしている。
だからこそ、この一日は恐ろしいほど静かだった。
8 帰らないまなざし
大地は結局、その日は店に入らなかった。
しばらく店の前に立ち、ガラス越しに中を見て、
そして何かを考えるように視線を落としたあと、ようやくその場を離れた。
けれど、何も起きなかったからといって、何もなかったわけではない。
彼は店を見た。
幸枝を見た。
場所を確認した。
その情報を、頭の中に持ち帰った。
秋の夕方、尾道の風は少し冷たかった。
けれど大地の胸の中で育っているものは、冷える気配がなかった。




