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戻らない日常  作者: リンダ


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当たり前という奇跡

 第11話「当たり前という奇跡」


 朝は、いつも通りに来る。


 それは奇跡でもなんでもなく、ただの毎日。

 でも、その“ただの毎日”が、どれほど大切かなんて、この時の誰もまだ知らない。


 1 何でもない朝


 加賀家の朝は、いつも少しだけ騒がしい。


「幸枝!パン焼けとる!」

 今日子の声が響く。


「今行くー!」

 洗面所から幸枝の声。


「歯磨きしながら返事するな」

 充が新聞を見ながら言う。


「してないし!」

「してる」

「してない!」


 そんなやり取りを聞きながら、龍樹は味噌汁をすすっている。


「今日も暑そうじゃな」

「最高気温34度だって」

 充がスマホを見て言う。

「夏、全力すぎる」

 幸枝が言う。


 その何気ない会話。

 同じテーブル、同じ湯気、同じ笑い。


 何も特別じゃない。

 でも、それが当たり前にあること自体が、奇跡みたいなものだった。


 2 何でもない連絡


 仕事の合間。


 幸枝のスマホが震える。


 《今日、少し遅くなる》


 一貴からだった。


 それだけの、短い連絡。


 幸枝はすぐに返す。


 《了解。無理せんでね》


 数分後。


 《ありがとう》


 それだけ。


 でも、そのやり取りには、ちゃんと“つながっている感じ”がある。

 特別な言葉じゃなくても、ちゃんと気持ちは伝わる。


 同じ頃。


 充のスマホにも通知が入る。


 《今日は打ち合わせ長引きそう》


 星羅から。


 《無理するなよ》

 充が返す。


 《そっちもね》


 それだけ。


 でも、それで十分だった。


 3 何でもない夕食


 夜。


 加賀家の食卓には、今日子の作った肉じゃがが並んでいた。


「うま」

 幸枝がひと口食べて言う。

「今日ちょっといい肉使ったけぇ」

「だからか」

「お母さん、それ毎回言ってる気がする」

 充が言う。

「今日はほんとにいいやつ」

「はいはい」


 龍樹は黙って食べながら、ふっと言う。


「こういうのが一番うまい」

「なにそれ、めずらしくいいこと言う」

 幸枝が笑う。


「めずらしくは余計じゃ」


 テレビではニュースが流れている。

 外ではまだ少し暑さが残っている。

 食卓には湯気が立っている。


 それだけの時間。


 でも、誰かと食べる“普通のごはん”は、それだけで満たされるものだった。


 4 何でもない「また明日」


 夜が深くなる。


 それぞれが、それぞれの部屋へ戻っていく。


「おやすみ」

「おやすみ」


 短い言葉が交わされる。


 それは特別な別れじゃない。

 明日また会う前提の言葉。


 “また明日”。


 その一言に、疑いはない。

 明日も同じように朝が来て、同じように会えると、誰もが当然のように思っている。


 5 備後赤坂の部屋


 一方その頃。


 福山市・備後赤坂駅近くのアパート。


 太田大地の部屋は、カーテンが閉め切られていた。

 昼でも薄暗く、空気はこもっている。

 外の暑さとは違う、よどんだ重さが部屋に溜まっていた。


 机の上にはスマホ。

 画面の中には、作られた映像。

 現実とは切り離された、都合のいい世界。


 大地はそれを見ながら、ぼんやりとした感情に浸っていた。


 そこでは、すべてが自分の思い通りになる。

 拒まれない。

 否定されない。

 選ばれないという現実も存在しない。


「……こっちのほうがいいじゃん」


 小さくつぶやく。


 現実では違う。

 話しかけても、うまくいかない。

 選ばれない。

 見られない。


 それを受け止める代わりに、大地は“都合のいい世界”に逃げ込むようになっていた。


 そして、その境界が、少しずつ曖昧になり始めている。


 テレビで見たあの女。


 尾道のケーキ屋で笑っていた、あの顔。


 頭の中で、その姿が勝手に再生される。


「……あいつも」


 現実では関わりのない存在。

 でも大地の中では、すでに“自分の外にある幸せの象徴”になっていた。


「俺の思い通りにできるはずだろ」


 根拠はない。

 ただの思い込み。

 それでも大地は、それを疑おうとしない。


 現実で拒まれた経験が、

「自分が悪いのではなく、世界のほうがおかしい」

 という歪んだ認識へ変わっていく。


 6 両親の訪問


 その時、玄関のチャイムが鳴る。


 大地は一瞬、動きを止めた。


「大地? いるんでしょ?」


 母の声だった。


 無視しようかと思った。

 でも、何度か鳴らされて、しぶしぶ立ち上がる。


 ドアを開けると、両親が立っていた。


「何やってるの、こんな暗い部屋で」

 母が眉をひそめる。

「別に」

「別にじゃないでしょ」


 父が部屋の中を見て、顔をしかめる。


「空気こもっとるな。窓くらい開けろ」

「いいだろ別に」

「よくない」


 母がテレビの画面をちらっと見て、ため息をつく。


「そんなものばっかり見てないで、外に出なさい」

「……うるさい」

「うるさくない。あんた最近ずっとこうじゃない」


 大地は目をそらす。


「大学どうしてるの」

「行ってる」

「ほんとに?」

「行ってるって言ってるだろ」


 父が少し強い声で言う。


「お前な」

「……」

「前に好きになった子、おっただろ」

「……」

「ちゃんと断られたんだろ。それは仕方ない」

「……」


 母も続ける。


「他の子にも声かけたって聞いたよ」

「……」

「でもね、大地」

 母は少しだけ言葉を選んでから言った。

「あんた、自分の気持ちをちゃんと伝えてないでしょ」

「は?」


 大地が顔を上げる。


「何それ」

「はっきりものを言わないで、相手が分かってくれるの待ってるだけじゃ、伝わるわけないでしょ」

「……」


 父もうなずく。


「相手のせいにする前に、自分がどうだったか考えろ」


 その言葉が、大地の胸の奥に刺さる。


 だがそれは、反省としてではなく、

 苛立ちとして返ってきた。


「……うるせえよ」


 小さく、でもはっきりと言う。


「全部俺が悪いって言いたいのかよ」

「そういう話じゃない」

「そういう話だろ」

「違う」

「どうせ俺なんか、誰にも選ばれないんだよ」


 母が少し悲しそうな顔をする。


「そんなことない」

「あるだろ」

「ない」

「あるって!」


 大地の声が強くなる。


 でもその声の奥には、怒りだけじゃなくて、

 どうしようもない焦りと、傷ついたままの感情が混じっていた。


 父はそれを見て、少しだけ声を落とした。


「外に出ろ」

「……」

「このままじゃ、どんどんおかしくなるぞ」


 その言葉に、大地は何も返さなかった。


 7 当たり前の差


 尾道では、

「また明日」と言って眠りにつく家族がいる。


 福山では、

「外に出ろ」と言われても動けない青年がいる。


 どちらも同じ夜。

 同じ時間。


 けれど、その中身はあまりにも違っていた。


 8 まだ、何も起きていない


 この時点では、まだ何も起きていない。


 ただ、

 幸せが静かに積み重なっていく場所と、

 歪んだ感情が静かに沈殿していく場所が、

 同時に存在しているだけだ。


 そしてどちらも、確かに“現実”だった。

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