未来の話をしよう
『戻らない日常』
第10話「未来の話をしよう」
夏の終わりが、まだ遠い。
八月の陽射しは相変わらず強かったが、朝夕の風にはほんの少しだけ、季節のほころびのようなものが混じり始めていた。
加賀家でも、江守家でも、石田家でも、最近は自然と“その先”の話が増えていた。
結婚。住む場所。仕事。暮らし。
誰かと生きていくことを、夢じゃなく現実として口にするようになってきたのだ。
それはとても穏やかで、でも確かに人生の節目へ向かう時間だった。
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1 幸枝と一貴、未来の話
その日、幸枝と一貴は尾道水道の見えるベンチに並んで座っていた。
日が傾き始めた海辺には、昼間の強さとは違うやわらかい光が落ちている。
「で」
幸枝がペットボトルのお茶を持ちながら言う。
「将来の話、もうちょい具体的にしてみようや」
一貴が横を見る。
「急だな」
「急じゃないし。最近ずっと“いつか”って言い方しとるじゃん」
「まあ」
「でも、ちょっとくらい具体的でもよくない?」
「……いいけど」
幸枝はちょっと嬉しそうに笑った。
「じゃあ、まず住む場所」
「うん」
「尾道がいい」
「だろうな」
「なにその“だろうな”」
「いや、分かりやすいし」
「だって好きなんじゃもん」
幸枝は海の向こうを見ながら言う。
「坂は多いし、夏は暑いし、観光シーズンは人多いし、生活するには大変なとこもあるけど」
「うん」
「でも、やっぱりここがいい。海が見えるし、季節の匂いするし、町がちゃんと生きとる感じする」
「……うん」
一貴も同じ景色を見る。
「俺も、この辺がいいとは思っとる」
「ほんと?」
「うん。職場との兼ね合いはあるけど、極端に離れるつもりはない」
「やった」
その言葉だけで、幸枝はすぐ顔に出る。
嬉しさがまっすぐ表情に浮かぶところが、いかにも幸枝らしかった。
「家は?」
一貴が聞く。
「賃貸から?」
「最初はそれじゃない?」
「だよねえ」
幸枝はちょっと考えてから言う。
「でも、台所は広めがいい」
「お前、絶対そこ言うと思った」
「大事じゃん!」
「まあ、大事か」
「あと、日当たり」
「花のため?」
「それもあるし、焼き菓子冷ます時も明るいと気分がいい」
「理由が職人だな」
「でしょ」
一貴は少し笑った。
「あと、お前、庭ほしいんじゃろ」
「最終的にはね」
「最終的に、って」
「いきなりは無理でも、いつか。ちっちゃくてもいいから」
「花植えるため」
「うん」
「じゃあ、ベランダ広めでもええんじゃない」
「……それもいい」
「すぐ現実に寄せるな」
「現実大事」
幸枝は少しだけ頬をふくらませて、それから笑った。
「でもいいなあ」
「何が」
「こういう話」
「うん」
「ちゃんと“ほんとにそうなるかも”って思えるの」
一貴は返事の代わりに、少しだけ視線を落とした。
それが彼なりの照れだと、幸枝はもう分かっている。
⸻
2 婚約の挨拶へ
そんな流れの中で、幸枝もまた一貴の家へ、きちんと婚約の挨拶に行く日を迎えた。
「うちは大丈夫」
出かける前、幸枝は鏡を見ながら言った。
「お兄ちゃんみたいにカミカミにはならんと思う」
それを聞いた充が、すかさず言う。
「死亡フラグ」
「うるさい」
「絶対噛む」
「噛まんし!」
「“本日はほんじつは”ってなる」
「ならん!」
「まあ見とけ」
「なんでそんな自信あるん!」
今日子は笑いながら、娘の襟元を直す。
「緊張するのは当たり前よ」
「うん……」
「でも幸枝は、変に取り繕わんほうがいい」
龍樹が静かに言う。
「そのままでええ」
「……うん」
そう言われると、少しだけ肩の力が抜けた。
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3 江守家の居間
江守家では、父・一也、母・小百合、妹・百合愛がきちんとした顔で待っていた。
といっても、緊張をほぐそうとするやさしさのほうが勝っている家らしい空気ではあったが。
「いらっしゃい、幸枝さん」
小百合が笑顔で迎える。
「こんにちは……っ、こ、こんにちは」
幸枝はすでにちょっと危ない。
一貴が横で小さく言う。
「もう噛みかけてる」
「うるさい」
居間に通され、お茶が出される。
幸枝は座った時点で、自分でも分かるくらい緊張していた。
手のひらが少し汗ばむ。
心臓が妙にうるさい。
「そんなに緊張せんでも」
小百合がやさしく言う。
「うち、食べたりせんけぇ」
「お母さん」
百合愛が笑う。
「その言い方ちょっと怖い」
それで場が少し和んだ。
幸枝は、よし、と小さく息を吸う。
「本日は、あの、本日は、お、お、お時間をいただき、ありがとうございます」
噛んだ。
一也の眉が少し上がる。
百合愛の肩がぴくっと揺れる。
そして横の一貴が、耐えきれずに吹き出した。
「っ……ふ」
「ちょっと一貴!」
「いや、ごめん、でも」
「笑わんでよ!」
「だって、お兄ちゃんと同じことになっとる」
「やめてえええ!」
幸枝の顔が一気に真っ赤になる。
小百合は心配そうに、でも笑いをこらえながら言った。
「幸枝さん、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、です……たぶん……」
「“たぶん”って」
百合愛まで笑い出す。
一也も、口元を少しゆるめた。
「真剣に来てくれたのは十分伝わってますから、落ち着いて」
「は、はい……」
幸枝は一度深呼吸をした。
さっき石田家での充の姿を笑っていたくせに、いざ自分の番になるとこうだ。
恥ずかしい。
でも、ちゃんと伝えたい。
今度こそ、まっすぐ顔を上げる。
「私は、一貴さんとこれから先も一緒にいたいと思っています」
少しだけ声が震える。
「まだ未熟で、仕事もこれからで、頼りないところもたくさんあると思います。でも、ちゃんと頑張って、一緒に支え合っていけるようになりたいです」
一貴は隣で黙って聞いていた。
幸枝が照れながらも、逃げずに言葉を置いていくのを、ちゃんと見ていた。
「どうか、よろしくお願いします」
幸枝が頭を下げると、少しの静けさが落ちた。
そのあと、一也が穏やかに言う。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その声は落ち着いていて、あたたかかった。
「幸枝さんのことは、前からいい子だなと思っていました」
「はい……」
「一貴は口数が少ないですが、考えていないわけじゃない」
そこで、一貴が少しだけ気まずそうな顔をする。
「その一貴が、こんなふうに真剣に連れてきた人なら、私たちも大事に迎えたいと思っています」
小百合も大きくうなずく。
「ほんとに。幸枝さん、また来てくれてうれしい」
「ありがとうございます……」
「それに、さっき噛んだので、一気に親近感わいたし」
「お母さん!」
今度は一貴まで笑う。
「よかったな」
「よくないし!」
でも、その笑いのおかげで、幸枝の肩の力はようやく抜けた。
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4 百合愛とショッピング
挨拶のあと、空気が落ち着いた頃。
百合愛がぱっと幸枝のほうを向いた。
「ねえ、幸枝さん」
「なに?」
「このあと時間ある?」
「え?」
「ショッピング行かん?」
「今から?」
「うん! 駅前のほうにかわいい雑貨屋できたんよ。前から一緒に行きたかった!」
小百合が笑う。
「百合愛、今日それずっと狙っとったもんね」
「だって幸枝さんと絶対趣味合うもん」
「合いそう」
幸枝も笑う。
「行きたい」
「やった!」
一貴が少しあきれたように言う。
「さっきまで婚約の挨拶でカミカミだった人と、切り替え早いな」
「いや、もう終わったし!」
「百合愛ちゃんと行くの楽しみじゃし」
「“ちゃん”づけ!」
百合愛が嬉しそうに言う。
「やっぱりお姉ちゃん欲しかったんよね、わたし」
「なにそれ、かわいい」
「ほら、もう完全に姉妹だ」
一貴が言う。
結局、幸枝と百合愛はふたりで駅前へ出かけることになった。
雑貨屋で花柄の便せんを見たり、小さなアクセサリーを手に取ったり、カフェでアイスを食べたり。
話題は途切れない。
「幸枝さんって、服の色やわらかいの似合うよね」
「えー、百合愛ちゃんのほうがおしゃれじゃん」
「うれしい。でも幸枝さんの、なんか“ちゃんと季節感じてる人”みたいな感じ好き」
「なにその褒め方」
「花とか好きじゃん」
「あー、好き」
「やっぱり」
百合愛は少しだけ真面目な顔になって言った。
「お兄ちゃん、幸枝さんのことめっちゃ大事にしとるよ」
「え」
「家で名前出る時、声がちょっと違うもん」
「なにそれ、恥ずかしい」
「でも分かるよ。わたし妹じゃけぇ」
「……妹って、そういうの見抜くんじゃね」
「見抜くよー」
幸枝は少し照れながら笑った。
「でも、百合愛ちゃんとも仲良くなれてうれしい」
「わたしも」
「これからも一緒に買い物行ってくれる?」
「もちろん!」
ふたりはそこで、にこっと笑い合った。
本当に姉妹みたいだった。
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5 充と星羅の現実的な相談
一方その頃、充と星羅もまた、結婚へ向けた現実的な相談を進め始めていた。
ファミレスのテーブルにメモ帳を広げ、式をどうするか、住む場所をどうするか、仕事との兼ね合いはどうか、ひとつずつ話していく。
「盛大な式じゃなくてもいいかなって思っとる」
星羅が言う。
「うん、俺も」
充がうなずく。
「でも家族へのけじめはちゃんとしたい」
「それは同じ」
メモ帳には、
* 両家顔合わせ
* 住む場所候補
* 家具どうする
* 仕事の通勤時間
といった、現実的な言葉が並んでいた。
「こういうの書き出し始めると、一気にほんとっぽいね」
星羅が笑う。
「ほんとなんじゃろ」
充が言う。
「うん。そうなんじゃけど」
「怖い?」
「ちょっとだけ」
「俺も」
「え、充くんでも?」
「むしろ俺のほうが」
「それはあるかも」
「否定しろよ」
「でも、怖いのって、ちゃんと大事に思っとる証拠じゃろ」
星羅が言う。
充はその言葉に少しだけ黙ってから、うなずいた。
「……そうかもな」
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6 親たちのまなざし
加賀家でも、江守家でも、親たちは少し離れたところからその様子を見ていた。
今日子は洗い物をしながら龍樹に言う。
「子どもら、ほんまに先へ進んどるねえ」
「そうじゃな」
「幸枝も、一貴くんの家でちゃんと挨拶できたかね」
「噛んどる気はする」
龍樹が真顔で言う。
「それ、ある」
今日子が吹き出す。
江守家では、小百合が一也に笑いながら話していた。
「幸枝さん、最初は緊張でカミカミだったけど、あれで一気に好きになったわ」
「元から好きだったろ」
「まあ、そうだけど。ますますね」
「一貴にはもったいないくらいだ」
「ほんまよ」
「でも、あいつが選んだ人だからな」
「うん」
親たちは、直接は何も言いすぎない。
でもちゃんと見ている。
子どもたちが、自分の人生を選び始めていることを。
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7 太田大地の鬱屈
その一方で、備後赤坂駅近くの太田大地の部屋では、別の時間が流れていた。
テレビで見た幸枝の笑顔。
店の名前。
尾道のケーキ屋。
その情報が、頭のどこかに残って離れない。
もちろん、それはただのローカルニュースの一場面にすぎない。
普通なら、そのまま忘れて終わる程度のものだ。
だが大地は違った。
スマホで店名を検索する。
店の場所を調べる。
映っていた幸枝の顔を、思い出す。
「……なんであんなに幸せそうなんだよ」
画面越しの笑顔が、妙に腹立たしい。
家族。恋人。夢。応援してくれる人。
全部、自分にはないものに見える。
他人の人生を勝手にのぞき見して、勝手に怒る。
本当は筋違いだと、頭のどこかでは分かっている。
でも、その筋違いを自分で止められない。
むしろ大地の中では、
“自分が満たされないのは、周りが当然みたいに幸せを持っているからだ”
という、ねじれた感覚のほうが強くなり始めていた。
彼の鬱屈は、まだ表には出ていない。
だが、見えないところで少しずつ形を持ち始めていた。
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8 未来の話をしよう
夜。
幸枝は百合愛と撮った雑貨屋の写真を見返しながら、押し花のしおりと兄からもらった一輪挿しを机に並べていた。
スマホには、一貴から短いメッセージが来る。
《今日はお疲れ》
幸枝はすぐ返す。
《そっちも。めっちゃ笑ったじゃん》
《あれは耐えられん》
《ひどい》
《でも、ちゃんと伝わってた》
その一言を見て、幸枝は少しだけ笑った。
《うん。よかった》
窓の外には、尾道の夜。
遠くに見える明かり。
家の中には家族の気配。
未来の話をするのは、少し照れくさくて、少し怖い。
でもそれ以上に、あたたかい。
ちゃんと先があると思えること。
誰かとその先を分け合えること。
それはきっと、とても幸せなことだった。




