誕生日の約束
第9話「誕生日の約束」
八月十五日。
朝から空はよく晴れていた。
尾道の夏は、強い。
陽射しはまっすぐで、蝉の声は遠慮がない。坂道の石段も、朝の時点でもう少し熱を持っているように見えた。
そんな日の朝、加賀家の食卓は、いつもより少しだけ浮き立っていた。
「はい、おめでとう」
今日子が最初に言った。
「おめでとう、幸枝」
龍樹が続く。
「おめでと」
充は少しぶっきらぼうに、でもちゃんと口にする。
幸枝は味噌汁の湯気の向こうで、ちょっと照れたように笑った。
「ありがとう」
今日は、加賀幸枝の二十三歳の誕生日だった。
1 八月十五日に生まれた子
今日子は、食卓に卵焼きを並べながら、いつものようでいて少し特別な声で言った。
「二十三年前の今日も、よう晴れとったんよ」
「毎年言うね、それ」
幸枝が笑う。
「言うよ。だって大事な日じゃもん」
「母さん、誕生日は毎年大事じゃろ」
充が言う。
「そうじゃけど、幸枝が生まれた日は、やっぱり少し特別なんよ」
今日子は箸を置いて、娘の顔をちゃんと見た。
「八月十五日。終戦の日じゃろ」
幸枝は小さくうなずく。
その話は子どものころから何度も聞いていた。けれど、何度聞いても嫌じゃなかった。
「戦争が終わった日で、たくさんの悲しみのあとに、“もう二度と同じことを繰り返しませんように”って願う日で」
今日子は続ける。
「そんな日に生まれてきた子じゃけぇね。みんなに幸せを与えられるような人になってほしい、って思って名前をつけたんよ」
龍樹が静かにうなずく。
「幸枝、じゃからな」
「幸せの枝って、いっぱい広がっていくように」
今日子が笑う。
幸枝は、ちょっとだけ目を伏せて笑った。
「そんな立派な人になれとるかどうか分からんけど」
「なれとるよ」
龍樹が短く言う。
「少なくとも家の中は、だいぶ明るうしとる」
「お父さん、それ褒めとる?」
「褒めとる」
「めずらし」
充がぼそっと言う。
「お前も今日は素直に祝え」
「祝っとるし」
「朝からプレゼント隠し持っとるのに?」
幸枝がにやっとする。
充の手がぴたりと止まる。
「……なんで知っとるん」
「顔」
「お前も母さんみたいなこと言い出したな」
「兄妹じゃけぇね」
「そこ誇るな」
食卓にまた笑いが広がる。
その中心で笑う幸枝を見て、今日子は思う。
ああ、この子は本当に、願った通りの子になってきたのかもしれない、と。
2 小さなプレゼント
朝食のあと、出勤前の慌ただしい時間の中で、充がふいに小さな紙袋をテーブルに置いた。
「はい」
「え、なに?」
「誕生日」
「えっ、ほんとに?」
幸枝が目を丸くして袋を開ける。
中には、小さなガラスの一輪挿しが入っていた。透明で、口が少しだけ細くなっている、シンプルだけどやさしい形のものだ。
「わあ……!」
幸枝の声が弾む。
「かわいい!」
充は照れくさそうに目をそらす。
「この前、雑貨屋で見た時、お前こういうの好きそうだなと思って」
「めっちゃ好き!」
「花、よく飾るじゃろ」
「うん!」
「庭のやつでも、ちょっとしたの挿せるかなって」
幸枝は一輪挿しを両手で持ちながら、ほんとうに嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃん、めっちゃいい」
「そういう時だけ“めっちゃいい”とか言うな」
「いやほんとに。これ絶対使う」
「ならええ」
今日子がその様子を見て、やわらかく笑う。
「ほらねえ」
「なに」
「充は昔から、口ではぶつぶつ言うくせに、選ぶものはちゃんとその人見とるんよ」
「母さん、それ言わんでいい」
「でもほんまじゃ」
龍樹もうなずく。
「昔も幸枝が熱出した時、一番最初に氷枕持ってきたんは充じゃった」
「なんでその話掘り返すん」
「優しいねえ」
今日子が楽しそうに言う。
「やめてくれ」
幸枝は、ガラス越しに朝の光が揺れるのを見ながら思った。
兄はほんとうに不器用だ。
でも、不器用なぶんだけ、ちゃんと気持ちがこもっている。
「ありがとう、お兄ちゃん」
幸枝がまっすぐ言う。
充はちょっとだけ黙って、それから短く答えた。
「……おう」
3 一貴からの約束
その日の昼休み。
ケーキ屋の裏口近くで休憩していた幸枝のスマホが震えた。
《仕事終わったら、少しだけ時間ある?》
一貴からだった。
幸枝はすぐに返す。
《ある!》
少ししてまた返信が来る。
《じゃあ、店の近くで待っとる》
短い。
でも、それだけで幸枝の気持ちは少し浮き立つ。
夕方、仕事を終えて店を出ると、一貴が少し離れた場所で待っていた。
いつもの整備士の仕事帰りの服装。
でも手には、小さな包みがひとつあった。
「お疲れ」
「お疲れさま」
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
包みを差し出されて、幸枝は少しびっくりする。
「え、いいの?」
「いいよ」
「開けていい?」
「どうぞ」
中に入っていたのは、小さな押し花のしおりだった。
透明な樹脂の中に、黄色の小さな花が閉じ込められている。
「かわいい……!」
「本当はひまわり探したんだけど、いいのがなくて」
「え」
「でも、黄色い花好きかなと思って」
「うれしい……」
幸枝はしおりを光にかざして見つめた。
その繊細さが、一貴らしい気がした。派手じゃないけれど、ちゃんと自分のことを思って選んでくれたのが分かる。
「ありがとう」
「うん」
「大事にする」
「使ってくれたらええ」
「使う。レシピ本に挟む」
「それ、いいな」
少しだけ沈黙が落ちる。
でも心地いい沈黙だった。
「あと」
一貴が言う。
「今度の休み、ちゃんと誕生日祝いしよう」
「え?」
「今日、平日で時間あんまりないし」
「……うん」
「どこか行きたいとこある?」
「うわ、どうしよう」
「考えといて」
「じゃあ、海見えるとこがいい」
「分かった」
「ケーキは?」
「お前が食べる側になる日じゃろ」
「たしかに」
「だから今日は作らんでええ」
「それ、なんかうれしい」
幸枝はしおりを握りしめたまま、少しだけ笑った。
「約束ね」
「うん」
「絶対ね」
「うん」
たったそれだけの約束なのに、幸枝にとっては十分特別だった。
4 『夢追い人』
その数日後。
地元テレビ局の夕方のローカルニュース番組の中にある短い企画枠、**『夢追い人』**の取材が、幸枝の勤める洋菓子店に入った。
地域でがんばる若者を紹介するコーナー。
商店主の推薦で、パティシエを目指して働く幸枝に白羽の矢が立ったのだ。
「緊張する……」
幸枝は撮影前、厨房の隅で小さくつぶやく。
「大丈夫大丈夫」
先輩が笑う。
「いつもの感じでやればええんよ」
「でもテレビよ?」
「そのまんま映るだけじゃろ」
カメラが入ると、幸枝は最初こそ少しぎこちなかった。
けれどケーキの話になると、自然と目が輝き始める。
「今はまだ見習いですけど、いつか、自分が作ったお菓子で誰かがちょっと幸せな気持ちになってくれたらいいなって思ってます」
そう話す幸枝の手元では、スポンジにクリームが丁寧に重ねられていく。
フルーツの配置、ナッペの角度、飾りの繊細さ。
そのどれもに、彼女の真剣さがにじんでいた。
インタビューで、レポーターが聞く。
「誰に食べてもらいたいですか?」
幸枝は少しだけ考えて、それから笑った。
「やっぱり、家族と彼氏ですね」
「おお」
レポーターが笑う。
「いちばん身近な人たちに、“おいしい”って言ってもらえるのがうれしいです」
「素敵ですね」
「あと、いつも応援してくれる人たちにも。お菓子って、食べた時にちょっと元気が出たり、気持ちがやわらかくなったりするじゃないですか。そういうものを作れる人になりたいです」
その笑顔は、カメラの前でも自然だった。
画面には店の外観も映る。
店名のテロップが出る。
「パティスリー・ミズノ」。
尾道の町角にある、小さくてあたたかい洋菓子店。
VTRの最後には、完成したケーキを前に少し照れながら笑う幸枝の姿が映った。
5 放送を見た人たち
放送の日、加賀家ではもちろん全員がテレビの前に集まった。
龍樹は「そんな大げさに騒がんでも」と言いながら、一番見やすい位置に座っている。
今日子はもう始まる前から嬉しそうだ。
充は「変な編集されとらんといいけど」と言いながら、内心かなり楽しみにしていた。
「きたきた!」
幸枝が自分でいちばんそわそわしている。
画面に自分が映ると、幸枝は思わず顔を覆った。
「やだ、恥ずかしい!」
「いい顔しとるよ」
今日子がすぐ言う。
「ほら、仕事しとる時ほんま真剣」
龍樹もうなずく。
「ちゃんと職人っぽい」
充が言う。
「“っぽい”じゃなくて職人になりたいんですー」
「はいはい」
VTRが終わる頃には、加賀家の空気はどこか誇らしげだった。
「よかったねえ」
今日子がしみじみ言う。
「うん……なんか、変な感じ」
幸枝が照れながら笑う。
「でも、うれしい」
一方、一貴の家でも、江守家の面々がその放送を見ていた。
「幸枝さん、ちゃんと映えとる!」
百合愛が目を輝かせる。
「かわいいし、しっかりしとるし、すごい!」
「ええ子じゃなあ」
一也がうなずく。
「話す内容もしっかりしとる」
「今度また来てもらいたいねえ」
小百合が笑う。
一貴は何も言わずに見ていたが、VTRが終わったあと、小さくひとことだけつぶやいた。
「……よかった」
「なにが?」
百合愛が聞く。
「ちゃんと幸枝さんらしく映っとった」
そのひと言に、小百合がやわらかく笑った。
6 太田大地
同じ放送を、福山市・備後赤坂駅近くのアパートで見ていた男がいた。
太田大地。
何の気なしに流していたローカルニュースの中で、ふいに映った幸枝の顔に目が留まった。
明るく笑う顔。
家族と彼氏に食べてほしいと話す声。
好きなことにまっすぐ向き合っている表情。
画面越しでも伝わるような“満たされている感じ”が、大地の胸をざらつかせた。
「……なんだよ」
テレビの音がやけに耳につく。
夢に向かって頑張る若者。
応援してくれる家族。
食べてほしい恋人。
全部が、自分には関係のない世界に見える。
幸せそうな顔しやがって。
大地は思わず吐き捨てるように言った。
「こいつも幸せそうな顔しやがって」
それは嫉妬というには濁りすぎていて、怒りというにはあまりにも一方的だった。
自分に何かをしてきた相手ではない。
それなのに、画面の向こうで笑う誰かを見ただけで、胸の奥に黒いものが湧き上がる。
テロップに流れた店名が目に入る。
パティスリー・ミズノ
尾道。
洋菓子店。
パティシエ見習い。
加賀幸枝。
大地は、その情報を無意識に頭のどこかへ刻みつけてしまった。
まだこの時点では、それはただの“記憶”にすぎない。
けれど、彼にとって幸枝を知るきっかけは、この夜のテレビだった。
画面の向こうでは、幸枝が最後にもう一度笑っていた。
その笑顔が、大地にはどうしてもまぶしすぎた。
7 誕生日の夜
その夜、加賀家では小さな誕生日ケーキが食卓に並んだ。
店で働く幸枝自身が作ったものではなく、今日はあえて今日子が商店街で買ってきたシンプルなショートケーキだった。
「今日は食べる側の日じゃけぇ」
今日子が言う。
ろうそくの火が小さく揺れる。
「おめでとう」
家族の声が重なる。
幸枝は、少し照れながら火を吹き消した。
その瞬間、なんでもないような幸福が、確かにそこにあった。
家族がいて、祝ってくれて、仕事があって、夢があって、約束してくれる恋人がいる。
そして、そんな自分をテレビで見てくれて、ちょっと笑ってくれる人たちがいる。
八月十五日に生まれた幸枝は、今、たしかに誰かを明るくしていた。
本人が思う以上に、自然に。
だからこそ、その光はまぶしかった。
祝福される人には祝福が集まり、そうでない自分には何もない。
そう思い込んだ誰かの心に、黒い影を落とすほどに。
けれどこの時の加賀家は、そんなことを知るはずもない。
ただ、目の前の二十三歳の誕生日を、あたたかく囲んでいただけだった。




