雨の日の帰り道
『戻らない日常』
第8話「雨の日の帰り道」
朝から、空は低かった。
尾道の町を包む雲は厚く、海の色もいつもより少し鈍い。
窓ガラスに小さな雨粒がつき始めた頃、今日子が台所で言った。
「今日は降るねえ」
「梅雨でもないのに、よう降る」
龍樹が新聞をたたみながら答える。
幸枝は玄関で靴を履きながら、少しだけ空を見上げた。
「帰り、やむかな」
「傘持って行きんさい」
充がすぐ言う。
「分かっとるって」
「お前、“帰りにはやむかも”で持ってかんタイプじゃろ」
「今日は持つ!」
「ほんまか?」
「ほんま!」
今日子が笑いながら、傘立てから一本抜いて幸枝に渡す。
「はい。かわいいの持って行き」
「ありがとう」
「一貴くんは車じゃけぇええけど、あんたは濡れるんじゃけぇ」
「分かっとるってば」
そんな、いつもの朝。
けれど今日は、町の音が少しだけ雨にやわらかく吸い込まれていた。
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1 それぞれの雨
造船所では、雨の日特有の緊張感があった。
鋼材は濡れると滑りやすくなる。足場も、手袋も、いつも以上に慎重さがいる。
「急がんでええ。こういう日こそ確認増やせ」
龍樹の声が現場に響く。
「雨で一歩抜けると、すぐ事故になる。手元、足元、声かけ、全部やるぞ」
現場の男たちが「はい」と返す。
雨に濡れたヘルメットのつばから、小さく水滴が落ちる。
龍樹は自分も濡れながら、現場の動きをひとつひとつ目で追っていた。
一方、尾道駅の改札では、今日子が濡れた乗客たちを迎えていた。
「足元お気をつけて」
「はい、こちらタオルどうぞ」
「滑りやすいけぇ、階段気をつけてくださいね」
雨の日は、人の顔が少しだけ疲れて見える。
靴が濡れた不快さ、電車の遅れへの焦り、傘を持つ手の重さ。
だからこそ今日子は、いつもより少しだけ声をやわらかくする。
「いってらっしゃい」
その一言で、ほんの少しでも相手の朝が軽くなればいい。
そう思いながら、改札に立っていた。
市役所の障害福祉課でも、雨は静かに仕事へ入り込んでくる。
濡れた申請書の端、遅れて来る相談者、足元の悪さでいつもより疲れた顔。
「大丈夫です。急がなくていいですから」
充は相手のペースに合わせて言う。
「今日は雨ですし、来られただけでも十分です」
そう言われた年配の来庁者が、少しだけほっとしたようにうなずいた。
雨の日は、いつもより人の弱さが表に出やすい。
だからこそ、言葉はやわらかいほうがいい。
充は無意識に、それを分かっていた。
ケーキ屋でも、雨の日の空気は少し違う。
店の外は灰色でも、ショーケースの中だけは明るい。
そのコントラストを、幸枝はけっこう好きだった。
「こういう日って、逆にケーキ食べたくなる人多いんよね」
先輩が言う。
「分かります。なんか、甘いものほしくなる」
幸枝が答える。
窓の外の雨を見ながら、新しい焼き菓子のラッピングを考える。
しっとりした午後に似合う色は何だろう。
少し落ち着いた青か、やさしいクリーム色か。
幸枝は、そういう小さなことを考える時間も好きだった。
一貴の整備工場でも、雨は油断を許さない。
ワイパーの確認、タイヤの溝、ブレーキの効き。
晴れた日ならごまかせる小さな不具合が、雨の日には一気に危険になる。
「このタイヤ、今日みたいな日は特に滑りやすいです」
一貴は客に丁寧に説明する。
「溝が減っとるけぇ、早めに交換したほうがいいと思います」
「やっぱりそうですか」
「はい。命に関わるところなんで」
短い言葉でも、そこには整備士としての責任があった。
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2 雨の日の帰り道
夕方になっても、雨はやまなかった。
しとしとというより、じわじわと町全体を濡らし続けるような雨だった。
幸枝が店を出ると、空気は少し冷えていた。
傘を開く。
地面に落ちる雨音が一定のリズムで続く。
「……やんでないかあ」
小さくつぶやいたその時、前方に見慣れた車が止まった。
助手席の窓が少し開く。
「乗る?」
一貴だった。
幸枝の顔がぱっと明るくなる。
「え、いいの?」
「帰り道だし」
「うれしい」
「濡れる前に早く」
幸枝は急いで車に乗り込む。
傘をたたんで、髪についた雨粒を払う。
「助かったあ」
「だから傘持ってって正解じゃろ」
「いや、車乗せてもらえたけぇ結果もっと正解」
「そういう問題じゃない」
ワイパーが規則正しく動く。
車内には、雨音とエアコンのやわらかい音だけがある。
いつもより少しだけ静かな時間だった。
「今日、店どうだった?」
一貴が聞く。
「雨の日って、なんかお客さん少ないイメージあるじゃん?」
「うん」
「でも意外と来るんよ。みんなちょっと甘いもん食べたくなるんかな」
「分かる気はする」
「一貴は?」
「タイヤとワイパーの説明しまくった」
「めっちゃ雨の日っぽい」
「実際そういう日だし」
幸枝は窓の外を見る。
濡れた尾道の町は、昼間とは違う顔をしていた。
坂道の石、家の屋根、道端の葉っぱ。全部が少しだけ光って見える。
「雨の日の尾道、嫌いじゃない」
幸枝が言う。
「歩くのは大変だけど、なんか、景色がやさしくなる感じする」
「うん」
「音も、ちょっとやわらかくなるし」
「うん」
一貴は、こういう時の幸枝の言葉が好きだった。
大げさじゃないのに、ちゃんと世界を見ている感じがするからだ。
「今日、ひまわり見た?」
幸枝がふと思い出したように言う。
「朝は見てない」
「昨日の花壇、雨の中でもたぶん咲いとるよね」
「咲いとるじゃろ」
「すごいよねえ」
「好きだな、ほんと」
「好き」
幸枝は即答したあと、少しだけ笑う。
「なんかさ、花って、雨の日でもちゃんとそこにあるじゃん」
「うん」
「しょんぼりしてるように見えても、根っこはちゃんと生きとる感じする」
「……」
「そういうの、ちょっといいなって思う」
一貴は数秒黙ってから、ぽつりと言った。
「幸枝も、そういうとこある」
「え?」
「しょんぼりしても、根っこは元気そう」
「なにそれ」
「いや、なんとなく」
「褒めとる?」
「たぶん」
「たぶんかあ」
でも幸枝は、うれしそうに笑った。
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3 雨の日の家
加賀家に着くと、玄関先には今日子がいた。
買い物帰りらしく、袋を抱えながら「あら、一貴くん」と笑う。
「送ってくれたん?」
「はい」
「ありがとうねえ。こんな日、ほんま助かる」
「いえ」
「ほら幸枝、ちゃんとお礼言うた?」
「言ったよ」
「もう一回言いんさい」
「お母さん!」
家の中に入ると、龍樹も帰っていた。
濡れた作業着を着替えたあとらしく、タオルで髪を拭いている。
「一貴、上がっていけ」
「いや、今日は」
「雨の日に遠慮せんでええ」
龍樹が言う。
結局、一貴は少しだけ上がることになった。
充も帰宅しており、濡れた革靴を玄関で乾かしていた。
「お、送ってもらったんか」
「うん」
「お前は運がええな」
「日頃の行い」
「絶対違う」
こうして、雨の日の加賀家にもまた、いつもの笑いが戻ってくる。
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4 福山市・備後赤坂駅近く
一方その頃。
尾道から少し離れた福山市、備後赤坂駅近くの古びたアパートで、太田大地はひとり、雨の音を聞いていた。
二十一歳。大学生。
けれど、自分の毎日を説明する言葉を探すなら、“冴えない”とか“ぱっとしない”では足りない気がしていた。
もっと、胸の奥にじっと溜まっている何かがある。
机の上には開いたままのノート。
スマホには大学のグループチャット。
そこに流れてくるのは、どうでもいい雑談や、誰かと誰かの約束や、写真。
そのどれもが、大地には自分の外側のものに見えた。
「……またかよ」
画面には、同じ学科の男女数人が駅前のカフェで笑っている写真。
その中には、寄り添うように座るカップルもいた。
胸の奥が、じわっと黒くなる。
イチャイチャしやがって。
楽しそうにしやがって。
大地はスマホを伏せた。
別にその誰かに直接何かされたわけではない。
でも、目に入るたびに、妙に腹が立つ。
自分の知らないところで、みんな勝手に楽しそうにしている。
それだけで、自分だけが取り残されている気がした。
「みんな俺のこと馬鹿にしてやがる」
口に出すと、部屋の中でその言葉だけがやけに生々しく響いた。
もちろん、実際にみんなが自分を見て笑っているわけではない。
頭では分かっている。
でも感情のほうは、そう簡単には引っ込まない。
生まれてから彼女がいたことがない。
うまく話せたこともない。
何かが足りないのは分かる。
でもその“何か”を自分で引き受けるより先に、大地の中では、外の世界への苛立ちのほうが大きく育ってしまっていた。
雨の向こう、駅前では傘を寄せ合って歩くカップルが見えた。
その姿が、また無性に気に障る。
幸せそうな顔。
楽しそうな声。
他愛ない会話。
大地にはそれが、ひどく遠いものに見えた。
遠いだけならまだよかった。
いつの頃からか、それは“自分には与えられないものを持っている連中”に見えるようになっていた。
そして、その見方そのものが、彼をさらに孤独にしていた。
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5 対照
尾道では、雨の日の帰り道を誰かと分け合う人たちがいる。
濡れないようにと迎えに来る人がいて、「おかえり」と言う家があって、少し疲れた日に甘いものを食べる理由がある。
一方で、備後赤坂の小さな部屋には、雨音だけがある。
大地はその音の中で、自分の鬱屈をじっと育てていた。
誰かの幸せを見て、
「ああ、自分もいつか」と思うこともできたはずだ。
けれど彼は、そこから少しずつ外れていった。
足りないものを埋めようとするより先に、外に向かって棘を伸ばしてしまった。
まだ、この時点では何も起きていない。
ただ、危うい感情が、行き場を失ったまま胸の中に澱んでいるだけだ。
それでも、その澱みは確かに存在していた。
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6 雨は続く
その夜。
加賀家では夕食のあと、今日子が洗濯物の乾き具合を気にし、龍樹が「部屋干し増やせばええ」と言い、充が「明日も降るらしい」とスマホを見ていた。
幸枝は、ひまわりの写真を一貴に送っていた。
《今日もきれいじゃった》
少しして返事が来る。
《雨でも元気そうだった?》
幸枝は笑う。
《うん。うちより元気かも》
《それはない》
その短いやり取りだけで、雨の日は少しやさしくなる。
一方、備後赤坂では、太田大地が暗い部屋でスマホの画面を閉じたまま、天井を見ていた。
雨音はまだ止まない。
同じ雨。
同じ夕方。
同じように過ぎていく一日。
けれど、その中身はまったく違っていた。




