いってきます
『戻らない日常』
第13話「いってきます」
十二月二十四日。
尾道の朝は、冬らしくきりっと冷えていた。
加賀家の窓から見える空は高く、空気は澄んでいる。
庭先では、冬の花が小さく揺れていた。山茶花の赤が、冷たい朝の中でやけに鮮やかだった。
今日は、幸枝にとって少し特別な日だった。
仕事を終えたあと、一貴と待ち合わせをして、広島市内の平和大通りのイルミネーションを見に行く約束をしている。
しかも、泊まりがけ。
それだけで、心の奥が少し浮き立つ。
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1 朝の食卓
「幸枝、今日ちょっと顔違うね」
今日子が味噌汁をよそいながら言う。
「え、そう?」
幸枝はとぼけた顔をする。
「そうじゃろ」
充がすぐ言う。
「分かりやすすぎる」
「なにが」
「今日、一貴と出かけるけぇ」
「うわ、出た」
「いや、ほんと顔に書いてある」
「お兄ちゃん、最近そればっか」
「事実じゃけぇ」
龍樹は焼き魚をほぐしながら、ふっと口元をゆるめた。
「まあ、ええじゃないか」
「お父さんは甘い」
充が言う。
「たまの泊まりじゃろ」
「“たまの泊まり”って言い方!」
幸枝が顔を赤くする。
「父さん、そういうとこ急に雑」
「雑じゃない」
「雑よ」
今日子まで笑う。
食卓にはいつもの湯気、いつもの茶碗、いつもの笑い。
何も変わらない朝だった。
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2 出かける前の幸枝
出勤前、幸枝は玄関の鏡の前でいつもより少しだけ長く立っていた。
髪を整え、上着の襟を直し、小さく深呼吸する。
「はいはい、かわいい」
今日子が後ろから言う。
「お母さん!」
「だって気合い入っとるもん」
「普通じゃし」
「普通でその確認回数はせん」
今日子は笑いながら、娘のマフラーを少し直した。
「寒いけぇ、ちゃんと巻いとき」
「うん」
「帰り遅くなるんじゃろ?」
「うん。でも一貴と一緒じゃけぇ」
「なら大丈夫ね」
この“なら大丈夫”が、どれだけあっけなく壊れるかなんて、
その時の今日子は知らない。
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3 何気ない別れ
「じゃあ、行ってきます」
幸枝が言う。
「行ってらっしゃい」
今日子が返す。
「気ぃつけて」
龍樹が短く言う。
「店終わったら連絡しろよ」
充が言う。
「はいはい」
「はいはい、じゃない」
「分かったってば」
幸枝は靴を履いて、玄関を開ける。
冬の空気が少しだけ入り込む。
振り返って、もう一度笑う。
「行ってきます」
その声はいつも通りだった。
いつもの朝と何ひとつ変わらない、何気ない言葉だった。
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4 約束の変更
その日の仕事は忙しかったが、幸枝の心はどこか軽かった。
今日は終わったら一貴と会える。
平和大通りのイルミネーション。
夜の広島の街。
泊まりの準備もしてきた。
閉店後、店を出る頃には、尾道の町はすっかり暗くなっていた。
駅前で待ち合わせる予定だったが、その時スマホが震えた。
《ごめん。急な整備入った。少し遅れる》
一貴からだった。
幸枝はすぐ返信する。
《大丈夫。じゃあ一回家帰って待っとる》
《ほんとごめん》
《気にせんで。気をつけてね》
それだけのやり取り。
なんでもない、よくある予定変更。
それだけだった。
幸枝は駅前から家へ向かって歩き始める。
冬の夜は早い。
人通りの少ない道には、冷たい空気が流れていた。
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5 途切れる時間
ここから先は、画面の見せ方がすべてだった。
暗い坂道。
足音。
少しだけ早くなる呼吸。
誰かの気配。
振り向く幸枝の表情。
驚き。
不安。
恐怖。
声が途切れる。
マフラーが落ちる。
スマホが地面に当たる鈍い音。
画面は暗転する。
直接は見せない。
見せるべきなのは暴力そのものではなく、
その瞬間、日常が断ち切られたという事実だった。
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6 帰ってこない
加賀家では、最初は誰も深刻には考えていなかった。
「ちょっと遅いね」
今日子が時計を見る。
「一貴くんと合流して、そのまま広島行ったんじゃない?」
充が言う。
だが、一貴から電話がかかってきた時、空気が変わる。
『まだ会えてない』
「え?」
充の声が変わる。
『整備が長引いて、今向かってるけど、駅にもおらん』
「家帰るって連絡は?」
『来てる。でもまだ帰ってないん?』
「帰ってない」
その瞬間、加賀家の中の何かが冷たく落ちた。
今日子が立ち上がる。
「電話は?」
「つながらん」
充が何度もかけ直す。
「電源入っとるけど、出ん」
龍樹が上着をつかむ。
「探すぞ」
一貴もすでに車を降りて、暗い道を歩き始めていた。
『店から家までの道、見てくる』
「俺も行く」
充が言う。
「父さん母さんは警察」
加賀家の夜が、一気に別のものへ変わる。
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7 暗闇の捜索
一貴は懐中電灯を手に、店から家までの道を何度も往復した。
声がかれるほど名前を呼ぶ。
「幸枝!」
「幸枝!」
返事はない。
坂道の影、空き地の脇、暗い細道。
どこにもいない。
冬の空気が痛いほど冷たい。
けれど一貴には寒さを感じる余裕すらなかった。
一方、警察署では充が必死に説明していた。
「妹が仕事終わったあと帰宅していません」
「いつから連絡が?」
「夕方以降です。婚約者と待ち合わせる予定で、その前に一度家へ戻るって」
「普段から無断外泊することは?」
「ないです!」
今日子は椅子に座っていられず、何度も立ち上がりかける。
龍樹は黙っているが、その拳は固く握られていた。
警察も捜索を始める。
だが、その夜は何も見つからない。
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8 朝
翌朝。
尾道の空は、信じられないほど普通の朝だった。
犬の散歩をしていた女性が、人の気配のない場所で異変に気づく。
倒れている人影。
不自然な静けさ。
通報。
駆けつける警察。
規制線。
ざわめき。
事件は、そこで発覚する。
遺体確認の場面は、引きで描く。
誰かが崩れ落ちる音。
今日子の声にならない悲鳴。
充の「うそだろ……」という掠れた声。
龍樹の沈黙。
一貴の立ち尽くす背中。
ここで初めて、視聴者は理解する。
もう本当に、戻れないのだと。
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9 終わった夜、始まる地獄
前の日の朝。
「行ってきます」と言った。
「行ってらっしゃい」と返した。
それだけだった。
その何気ない別れが、最後になるなんて、誰も思わない。
思えるはずがない。
だが、現実はそうして突然切れる。
前触れもなく、理不尽に。
加賀家の時間は、この夜を境に止まった。
一貴の未来も、星羅と充の笑いも、今日子の台所も、龍樹の静かな背中も。
すべてが同じ場所には戻れなくなる。
そして物語はここから、
“失ったあとを生きる人たち”の地獄へ入っていく。




