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風林火山 ~甲府に還る日~  作者: Yoshhi‑Yama


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7/8

風林火山 ~甲府に還る日~ 総集編・前編「風が運んだ、望の一文字」

前編では、東京で走り疲れた志乃の帰郷から、掛け軸に残された「望」の一文字、そして戦国の世に生きた望月梅との不思議なつながりを描きます。


読者のFさんから、「志乃なのか梅なのか交錯して不思議な感じ」というご感想をいただきました。その言葉を大切に、風の音や筆の動きを通して、二人の心が少しずつ重なる語りにまとめています。


初めて読む方も、連載を見守ってくださった方も、甲府の風を感じながら、ゆっくりお付き合いいただけましたら嬉しいです。

風の音がした。


甲府の古い家の縁側で、望月志乃は顔を上げた。

庭の木々は、静かに揺れている。


それなのに、耳の奥を吹き抜けた風は、もっと遠い場所から届いた気がした。


目の前には、一幅の掛け軸。

古びた墨で記された四つの言葉と、その下に隠れていた、小さな一文字。


――望。


それが、二つの時代をつなぐ扉だった。


*


東京の広告代理店で、志乃は八年間、走り続けてきた。


早く。

間違えずに。

誰かの期待に応えられるように。


けれど、ある朝、電車のホームで足が動かなくなった。

挿絵(By みてみん)

三十二歳。

まだ頑張れるはずだった。

頑張らなければいけないと思っていた。


それでも、もう、次の一歩が出なかった。


診断書を出し、休暇を集め、志乃は故郷へ戻った。

電車の窓に、南アルプスの稜線が流れていく。

挿絵(By みてみん)

「帰ってきちゃった」


その声には、安堵よりも、敗れたような寂しさが滲んでいた。


甲府の家で迎えてくれたのは、八十三歳の祖母、ハツだった。


「いいよ、いいよ。おかえり」


なぜ帰ったのか。

仕事はどうしたのか。

これからどうするのか。


祖母は、何も尋ねなかった。

挿絵(By みてみん)

その夜、温かいほうとうを食べながら、志乃は少しだけ、息の仕方を思い出した。


*


翌日、祖母に頼まれて、蔵の掛け軸を虫干しした。


桐箱を開けると、古い和紙の匂いが立ちのぼる。

縁側に広げた掛け軸には、見覚えのある言葉が並んでいた。


疾如風。

徐如林。

侵掠如火。

不動如山。


疾きこと、風の如く。

徐かなること、林の如く。

侵し掠めること、火の如く。

動かざること、山の如し。


武田の殿様に仕えた先祖が残したものだと、祖母は言った。

挿絵(By みてみん)

さらに下まで広げると、かすれた文字の中に「望」の一字が現れた。


志乃がそっと指先を伸ばした、その瞬間。


ごう、と、風が鳴った。


その夜、志乃は夢を見た。


見知らぬ館の広縁。

白い布。

筆を握る、ひとりの若い女。


女の顔は、驚くほど自分に似ていた。

挿絵(By みてみん)

「あなたは……」


問いかけようとすると、風が布をはためかせ、景色は白く消えた。


*


同じ甲斐の地。

時は、永禄四年。


望月梅は、病床の父に呼ばれていた。


父、新左衛門は、武田家の書状や旗の文字を担う右筆だった。

しかし、高熱に倒れ、筆を執れずにいる。


川中島へ向かう軍勢のために、新しい旗の文字を書かなければならない。


「まさか……私に、書けと」


梅の声は震えた。


父の筆を見て育ち、文字を書くことは好きだった。

けれど、自分の筆が、戦場へ赴く人々の頭上に掲げられる。


その重さが、怖かった。


父は、静かに告げた。


「お前の筆は、わしより、よほど生きておる」


その夜、梅は白絹を広げた。


灯明が揺れる。

板戸の向こうで、風が鳴る。


――疾きこと、風の如く。


最初の一画に、迷いを振り払う力を込めた。


――徐かなること、林の如く。


次の一画には、急がず、呼吸を整える静けさを。


――侵し掠めること、火の如く。


思い浮かんだのは、戦へ向かう弟だった。

まだ十六歳の新八。

その幼さの残る顔を、梅は知っていた。


――動かざること、山の如し。


最後の一行を書き終えても、梅はしばらく動けなかった。


恐れは、消えていない。

それでも、文字はそこにあった。


震える手で、確かに書き上げたものが。


そして梅は、旗の端の小さな余白に、一文字を添えた。


――望。


いつか、誰かが気づいてくれるだろうか。

この文字を書いた女が、ここにいたことを。


その夜、眠りに落ちた梅もまた、夢を見た。


見たことのない衣をまとった女が、同じ甲斐の地に立っている。


その顔は、自分によく似ていた。


*


朝の食卓で、志乃は夢の話をした。


すると、ハツの手が止まった。


「梅、って名前、口にしてなかったかい」


志乃は、祖母を見つめた。


声に出した覚えのない名前。

けれど、眠っている間、何度も呼んでいたという。


梅。


その名を確かめたくて、志乃は菩提寺の長禅寺へ向かった。


途中で再会したのは、幼馴染の小林春香だった。

地元でゲストハウスとカフェを営む春香は、志乃の話を聞き、気負わない調子で言った。

挿絵(By みてみん)

「気が向いたら、手伝ってよ」


広告の仕事で身につけたことが、ここでも誰かの役に立つ。


先の見えなかった志乃の胸に、小さな灯りがともった。


長禅寺では、住職が古い帳面を開いてくれた。


そこにあったのは、「望月うめ」という名前だった。


近隣の娘たちに読み書きを教えた女性。

土地の人々が「文字のうめさま」と呼んだ人。


夢の中の女に、名前があった。

この土地で生きた日々があった。


その夜、志乃はもう一度、掛け軸の前に座った。


「望」の一文字を見つめる。


風が鳴った。


瞼の裏に、馬に乗ろうとする若い男の背中が浮かぶ。

その背を見送る女の唇が、かすかに動いた。

挿絵(By みてみん)

――どうか、生きて帰ってきて。


胸を締めつけるその祈りは、梅のものだった。


けれど、志乃はいつの間にか、自分も同じ願いを抱いていることに気づいた。


筆を握った手の震え。

大切な人を失うことへの恐れ。

それでも、そこに立ち続けようとする心。


遠い昔の誰かの気持ちが、今、自分の胸で息をしていた。


掛け軸が、夜風にわずかに揺れた。


四つの言葉の下で、小さな「望」の一文字が、静かに二人をつないでいた。


――後編へ続く。

総集編・前編をお読みいただき、ありがとうございました。


自分を弱いと思いながら故郷に帰った志乃と、恐れを抱えながら旗の文字を書いた梅。二人をつないだのは、大きな歴史の記録ではなく、余白に残された小さな「望」の一文字でした。


誰かが勇気を出して残したものが、遠い時代の誰かを支える。そんな静かなつながりを感じていただけたなら嬉しく思います。


後編では、弟・新八を待つ梅の日々と、自分のこれからを選び取る志乃の姿をお届けします。「風林火山」の言葉が二人の人生にどう息づいていくのか、どうぞ最後まで見届けてください。

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