35:四月二十三日その②
池野春香……俺の知る限り普通の女子大生のはずだ。
とは言っても俺は、バイト先の人間の目は極力見ない様にしてきた。
俺の過去を詮索しないでくれた、せめてものお礼。
そう思って意識的に相手の目ではなく鼻を見る様にする等して、目を合わせない様にしてきたのだ。
それが今回は災いしたと言えるかもしれない。
「っくそ……何なんだあの人……」
ここまでくれば、と思って足を止めて一息つく。
正直寝不足と空腹とが相まって、頭がくらくらする。
さすがの俺も、ちょっと限界が近いんじゃないかって思わされる様な、かなりギリギリの状況。
「はい捕まえたっと。もう鬼ごっこ終わり?」
「な……」
完全に油断した俺の肩を、池野さんが掴む。
多少息が上がって見えるが、俺はかなり複雑な道を通ってきたはずだ。
こんな短時間で追いつかれることなど、まずないと思っていた。
「何で逃げるの? っていうか……何で私がSだってわかったの?」
「…………」
「もしかしてだけど優木くんって、あの有名な優木くん? 奇遇にも同姓同名だよね」
顔は笑っているのに、もう逃がさないって意志がビンビンに感じられる池野さん。
「私が何で追い付けたのか、って顔してるね。私は単に予測が人よりも得意なだけなんだけどね。取引しよっか、優木くん」
「……取引?」
やや朦朧としかけた意識で、何とか受け答えはするが気を抜いたらこの場で倒れこんで眠ってしまってもおかしくないほどに、俺は疲弊している。
考えてみたら昨夜の弁当を食いそびれたのはでかかった。
おかげで今この時間まで何も食わずに過ごすことになった上に、寝不足の体で激しい運動をする羽目になったんだから。
「あの店の人たちには、君のこと黙っててあげる。だから、その代わりに私を家まで連れてってよ。悪くないでしょ?」
「……手ほどきって、何するんですか? 本番はさすがに抵抗あるんですけど」
「まぁ、そうだよね。だけどそんなこと言われたら、私ますます優木くんが可愛く見えてきちゃうから、その意見は聞き入れてあげられないかもね」
じゅるり、と舌なめずりして……って、これ年頃の女子がすることなのか? と思うが、池野さんはもはや獲物を見定めた目をしている。
しかし俺にはもう、逃げようなんて気力も、体力もない。
寮で暮らしていたら、まだ寮だから、とか言って言い逃れもできたかもしれないが……いや無理だな。
この人寮でも構わず乗り込んでくる気満々だ。
あらゆる抵抗が無意味に思えて、とりあえず息を整える。
「……わかりましたよ、こっちです」
「あれ、随分潔くない? もっと抵抗するかと思ったのに」
「抵抗しても意味なさそうなんで。特に今の俺のコンディションじゃね」
「さすがの状況分析力だねぇ。ジュース買って行こうよ。あと、アレもやっぱ必要かな? いらないかな、どっちがいい?」
「……俺にそれ聞くんですか。っていうか女性がそういうの買うって、抵抗ないんですか?」
ないよ、と一言言って池野さんは先にコンビニに入っていく。
この隙に逃げたり出来ないか、と一瞬考えてやはり無駄だろうと諦める。
俺みたいな能力者でもないくせに、何だか底の知れない不気味さを持っている。
直情型でパワー押しの先輩とは別のベクトルの恐ろしさを、何となく感じる気がした。
過去の記憶なんかからは特に変わったところは感じられなかったのに、何でだ?
「お姉さんがご馳走してあげちゃおう」
「そうですか、じゃあ」
適当に茶を手に取ると、池野さんがそれを奪い、レジに持っていく。
その手には……俺が買うには少し抵抗のある、例のアレ。
男のエチケット、またはマナーとまで言われる有名なゴム製品だ。
「……持ちますよ」
「おお? 男の子だね、そういうのはポイント高いよ」
池野さんが買ったものを受け取り、歩いていると突如腕を組まれて一瞬何事かと思ったが、さすがにもう動じたりはしない。
何というのか、露木とはまた違うふわっとした香りが鼻腔を刺激する。
「興奮してきた?」
「いや、特には」
「つれないこと言うねぇ」
別にまだ着かないのに、何でこんなとこで興奮しなきゃならないのか。
大体眠気やら色々で頭の中ぐちゃぐちゃだって言うのに。
「着きましたよ、ここです」
「ほー、いいとこ住んでるね」
俺の住むマンションに到着して、興味深そうに池野さんが建物全体を眺める。
別に珍しいもんでもないだろ、と言うのととっとと家に入って布団に飛び込みたい、という気持ちとが混ざり合い、行きますよ、と俺はエントランスに入り、エレベーターのボタンを押す。
「ここで予行演習する?」
「しませんよ……もう少しなんだから我慢してください」
残念、とか呟いてる目の前の獣はとりあえずエレベーターの中で襲ってくることはなく、無事に俺たちは目的の階に到着することができた。
もうあと数メートルで、俺は漸く眠りにつける。
布団がこんなにも恋しいなんて、初めてかもしれない。
「フラフラしてるけど、大丈夫?」
「もう少しですし……」
目を開けて足を踏み出すのがやっと、という俺だったがひとまず扉の前まできて鍵を取り出し、ドアに差し込んで回す。
いつもの感触とどうも違う気がしたが、ノブをひねるとドアが開かない。
「あれ……?」
「どうしたの?」
「いえ、何か閉め忘れて出たのかな、俺……」
もう一度回すと鍵が開く音がして、ノブをひねるとドアを開けることが出来た。
おかしいな、閉め忘れたっけ。
まぁいいや、とか呟きながら中に入って、足元を見て一瞬固まる。
「…………」
「先客かな?」
「池野さん、ここはひとまず帰りませんか?」
「へ? 何で?」
「いや、さすがにこの状況はまずいかなって……」
そう言いながら必死で池野さんを部屋から押し出そうとしたとき、リビングのドアが開いて俺は自分の人生の終わりが近いかもしれない、と悟った。
「あれ、優木くん……その方は?」
「ちょっと、誰よその女」
「優木くん……」
「…………」
「あ、もしかしてさっき言ってたのってこの子たち? 健気だね、優木くんの帰り待ってたんだ?」
何でこいつら帰ってないんだよ。
今朝確かに帰るって言ってたと思うんだけど。
「私は池野です。優木くんのバイト先の先輩で……」
「へぇ、その先輩が優木を手籠めにでもするつもりだったのかしら」
「美理亜さん、年上っぽいですしさすがにもう少し柔らかく行きませんか?」
「もしかして、敵なの?」
「待て、お前らは何か勘違いをしてるぞ。というか何でまだいんだよ。帰るって言ってなかったか?」
「え? 勘違いじゃないよね。私が優木くんのことをバイト先に黙っててあげる代わりに優木くんの家に行くって話だったんだし」
池野さんの言葉に三人の顔がもう、女子高生が見せる様な顔ではないものへと変貌する。
これはやばい。
あの露木ですら、かなりご立腹に見える。
「ほら、ちゃんとこれも買ってきたし」
「あっ!? ちょ、そんなもん出さないでくださいよ!!」
「優木くん……どういうことか聞かせてもらいますよ」
中でも一番お怒りのご様子であらせられる露木が、俺にどんどん迫ってくる。
そして当の俺はと言うと……あらゆるものが限界を迎えてその場で倒れこみ、気づけば俺の意識は闇の中へと吸い込まれて行った。




