捌✿ 寝 耳に死水《ねみみにしみず》
孔雀丸は、番所の前で鬱々と夜空を見上げていた。
虫が葉を喰うみたいに月が夜を侵食していく様は、己の未来の暗示のようだ。
気分は最悪だ。満月はもう明後日の夜に迫っている。
きっと木ノ宮は、祭りと神事で最も大きな賑わいを見せるだろう。しかし孔雀丸の勘は其の日が近づくにつれ脳幹を締め付けるほど、警鐘の度合いを強めていた。
(そもそもの話、まず僕は明後日まで無事に過ごせるのか)
夜は警邏の時間である。昨日までは底抜けに明るい男がいたが、もういない。
よく生きて外に出られたなと思う悪行だった。お陰で朝食などに出てきた物に、虫の知らせが警告を鳴らさず、今日は飲み物や食事を少し取る事ができた。このまま携帯食だけで我慢しないかと覚悟していた所だったので助かったが、これもまた歯がゆい。
(僕は感謝なんて、絶対にしないからな)
これからが一番味方が欲しいというのに、眼前にいたらはたき回している。
最悪もう一人でどうにかしないといけないかもしれない。
陰鬱だ。重い足取りで、番所へと入る。
中には刹那が一人待っていた。ほっとした。彼女にはこれまで孔雀丸の警鐘が鳴ることはなかったからだ。孔雀丸の見る限り、一般の兵士や女中には無事なものが多い。
孔雀丸と目が合うと、刹那は日焼けした顔を朗らかにくずした。
「お、今日も時間前に到着か、派手な装いの割には真面目だよね。街の磨師連中は癖が強いから、時間守らない奴ばかりだと思ってたのにさ」
「外に放り出されたような輩とは、一緒にしないで欲しいものだね」肩をすくめて返す。
「傾楽木殿はなぁ、なんというか……噂通りだからなぁ」
「それで済まされないぞ。巻き込まれる方はたまったものではなのだから」
「そりゃそうだ」
「だろ」ため息を吐き、順に持ち物を確認していく。
背負った刀、腰に吊るした革製の札入れ。懐に入れた小さく折りたたんだ、蛙を鞣して作った紐付きの術式革袋。その他も特に問題はなさそうだ。
今日の警邏の順路はと促すように見ると、刹那は「あっ」と瞼をしばたかせた。
「そうだ、今日は別の磨師の人と一緒に回って貰うんだったよ。もう来るんじゃないかな」
言い終わったと同じくらい、狙ったかのように番所へ一人の磨師が入ってきた。
「和気藹々中に邪魔するぜ。老人は及びじゃねえっ空気だがね、仕事なんで我慢してくれ」
【ち゛ぅ】
へっへと笑うしわくちゃをそのまま人型にしたような老人と、頭の上で器用に立つ目付きの悪い灰色の大ねずみ。
感嘆の声をあげ、孔雀丸は思わず浮足立つような気持ちで歓迎した。
「簾の御爺ではないか。いや、邪魔なんてとんでもない。本当によく来てくれた」
簾は寿命と同じで磨師としての暦も長い。其の上、謳歌が夜見から訊いたという安全だという内の一人である。願ったり叶ったりだ。孔雀丸の勘もぜひにぜひにと告げているようである。
「あぁん? 場合によっちゃ儂ら商売敵にもなるんだぞ。ここまで歓迎されるとは、儂の孫かなにかかお前、あの村のあの子かのぉ」
心当たりを思い返すな。赤子も孫ができるほど昔の話だろうに。
「んーむ」口をへの字にした簾は、流木のような妙な杖を肩にトンと置いた。
簾の視線が孔雀丸の全身を行き交う。黄ばんだ白目と小さな簾の瞳孔がぎょろぎょろと動く。警戒されているのかと思った所で、簾はガシャドクロさながらの手で、孔雀丸の腕を叩いた。
「まあ、今回は“少ない味方”だ、よろしくたのむ。特別にお爺ちゃんって呼んでもいいでな」
巫山戯てはいるが、味方という言葉に感じいるものがあり、しっかりと握手を交わした。
「じゃあお二人方揃った所で、これが警邏の順路だ。頼むよ」
せつなから地図を受け取った。昨日とは違い、今回は五階まで行くように示されている。六階にも、昨日見た侵入禁止のバツ印がついていない。
「難しいことはない。今日は本丸の中だけだよ。昨晩と同じでぐるっと異常がないか見回ってくれればいいだけさ。神事の準備もしているし、経路以外の場所は基本入らないでくれよ、なにかあったら別だけどさ」
「了承したよ、任せてくれ基本的には“バツ以外”を回ればいいんだな」
「そうそう。まったく君達磨師は好奇心旺盛で困る。こっちも指示するの大変なんだよ」
快活なせつなの声を反芻し、内容を頭に落とし込む。その他少しの追加の注意をされた後「ほら、仕事仕事」と送り出された。
外に出て、昨晩と同じように木橋を渡って門の前へ、黒塗りの門番の許可を得て敷地内へと入った。慣れてきたとはいえ、境界を越えると外界と隔絶されたような感覚に身が震えた。
敷地を抜け、経路通り天守内部へと入る。
暗く、簡素で少し寒い天守内の雰囲気に先日の嫌な記憶が蘇った。
(もう油断はしない。来るなら来い)
武具の置かれた広間を抜ける。揺らめく虫明かりの中で、こちらの緊張を見て取ったのか横を歩く簾が「しゃちほこばってよぉ」と肩を竦めた。
「鼓動が早い、恐怖が滲んでるぜ。最近、なにかあったのけ」
答えに迷っていると、簾はこちらを安心させるように肩をすくめた。
「安心しろ、見張りは数名だが、声は拾われていない。術式の痕跡もこの辺りにはねぇぜ」
簾は梅干しみたいにシワだれけの顎を廊下の一角へ差し向けた。
見れば、頭に乗っている大ねずみと同じ種類の、別のねずみの姿がある。
複数の式神を使役しているらしい。そして式神たちを使って、周辺の安全を確認したのだ。
少し安堵し、孔雀丸は心中を吐くことを決めた。
「昨日、ここで知り合いの磨師と一悶着ありました。その時急に現れた少女は、明らかに人ではない雰囲気で……正直、昨日までいた相方がいなければ、僕はどうなっていたかわからない」
「へえ、兄ちゃん割と戦える方だったと思ったが、それでもかい」
「油断できないと感じました。きっと、あの恐怖感は咎です」
「まあ、そらそうだろうや。こう怪しいやつが誰か大まかに予想できるのに、どこまでが敵かがはっきりしねぇ状況。この鬱陶しい感じらしいやり口だ」
「はい陰険ですよ、本当に」
咎に濡れた頭蓋を媒介に世へ這い出る悪塊『咎頭』それらは妖鬼とは存在が異なる。
思考し、計画し、罠に嵌め、人の世に染み出し蔓延ろうとする。奴らは我慢強く、無限ともいえる寿命故に長期的だ。だから動き出した時にはもう止まらぬほどに事が進んでいたりする。
(あの時と同じようには……)
たった一度だけ、咎頭に相対したことあった。
その時は、一匹の肉塊のような咎頭によって小さな町が一つ滅んだ。
力で言えばそれほど強くはいはずだった。しかし十年も前から町の住民の体内に潜みつづけ、少しずつ増殖する狡賢さがあった。偶然町に泊まった磨師が気が付き、人を集めて討伐に出た際には町の住民のほとんど眷属になっていた。諸悪は倒しても誰もが救われなかった。
助けてと叫んだ少女が眼前で肉色に溶けた光景は、今も脳裏に焼きついている。
心底に溜まったこの苦い澱を薄める為にも、奴らを許してはならない。
「簾の御爺は、なにか掴んでおりますか。やつらの好き放題を少しでも防ぎたい」
語気を強めると、簾は皮肉げに口角をあげた。
「若さが眩しくて目が眩みそうだぜ。儂が知ってることもそう多くはないぞ。所詮予想でしかないが、応答の僅かな不鮮明さから、城内磨師の九割は敵方の術中と踏んでいる。儂の目立てでは、孔雀の坊主、夜見って嬢ちゃん、追い出された兄ちゃんは正気だった」
「敵の見当はどうですか」
「まあ現状いっちゃん怪しいのは斑花家だ。木ノ宮周りはなんとも言いづらい。芍薬様の現状を把握したいね。なにか起こるとしたら満月の神事が起点だろうぜ」
「なるほど、僕もおおよそ同じ考えでいます」
「さすがに儂らが固めて組まされてるのは、意図もあろうと思うがね」
確かに最初こそ喜びもしたが、言葉にされると途端に胸の奥がざらつく。流石に儘よとならぬよう、こちらも相手の予期の外で動くべきか。
「御爺、今日の警邏ですが、いっそ上を見に行きませんか」
「上? 入るなと言われたが」
「はい、しかし今回禁止とはされていないので、契札には引っかからないですよ。見張りはいますがあの距離なら僕の術で誤魔化せます。身代わりの用意がいりますが、それは簾の御爺であれば可能では?」
磨道連の契札は、契約者どちらにとっても平等だ。刹那は「バツ以外は問題ない」と了承した。すなわち六階も入れる。手違いなのか罠かもわからないので、当然慎重にいく。
「ふはっ、確かに儂ならできるぜ。良いじゃないか、採用だ」
簾はずいぶんと楽しそうだ。さすが玄界は年の功、とは思っても口には出さない。行く価値はある。昔自分の師も言っていた。『頭を使った無鉄砲であれ』と。
「そうと決まれば、行きましょう」
目的を定め、なに食わぬ顔をして警邏していく。
城内の様子は、昨日とは違い異常だった。内部に淀んだ闇と妖気が満ちているのだ。
暗がりの廊下、蜘蛛の巣の生えた梁の裏、並べられた武者鎧の中、見れば妖鬼の姿が見える。
口だけしかない、下半身だけが蛇のような妖鬼。乱杭の歯をみせる人形の妖鬼。まぶたのない眼球をぎょろつかせ、だらだらとよだれを垂らし床を這う妖鬼。目に付くそれらは小さく、警邏の最中に扇刀を投げるだけで祓えるほど弱い。
しかし、祓っても数が増えているような空気が淀み続けているような感覚を味わった。
時間の無駄か。妖鬼ども見ているだけで襲ってはこなかった。不気味でしかない。
(どこで襲われるかもわからないな。念の為の準備はしておくか)
荷物から四角く折りたたんだ皮袋を出し口に含んだ。もごもごと準備し飲み込んだ。
(気休め程度だが、無いよりはいいだろう)
意識を切り替え、一階から三階まで嫌な視線を感じながら警邏を終わらせた。
無事に四階へとたどり着いた。
四階全体は質素な構造であり、矢などを射掛ける小さな窓壁がある狭間が設置されている。窓が小さいので外からの目や、距離をあけて着いてくる目を幾ばくか途切れさせた。
(ここしかない)
数枚の祝札を指にはさみ力を込める。札の中心に書かれた『幻』の文字が、残り火の如くちりついた。そして一枚を自分に、もう一枚を簾に貼り付ける。『灼』と祝言にて発動。
体の周囲の熱が変化していく。空気が揺らぐ。光を強引に捻じ曲げて、周囲のなにもない空間を写すことで自らの姿をくらました。
簾がすぐに追従する。
「チチチ」簾が舌の音を鳴らす。呼応するように頭部の大ネズミが鳴き、部屋の角、壁の隙間から黒い毛並みのネズミが闇に紛れてわらわら這い出てきた。
どこにこんな数がいたのか。集まってきたネズミ達は、折り重なるように二つの山を作り上げる。うぞうぞと動き粘土でも捏ねるかのように形を変え、其の毛の形や色すらも変化させた。
素晴らしい術だ。またたく間の内に孔雀丸と簾の姿が象られていく。出来上がった身代わりは、この暗がりでは間近で見なければわからぬほどの出来栄えだ。
「御爺、ここらで少し休憩しましょうか」
「お、ええのか。ではお言葉に甘えるかね」
言葉とは裏腹に、姿を消し身代わりを残して上への階段を登っていく。
四階とはうってかわり、開放的な五階の空間が目の前に広がる。神事の訓練に使われているであろう楽器が、数点端に寄せられ置かれている。
五階には夜の冷たい風が今も吹き抜けているのだろう。しかし孔雀丸たちの体の周囲に貼られた熱の膜によりそれを感じない。
気配を殺し、厚い木の床を滑るように進む。一直線に奥へ抜け六階へ続く階段に足をかける。
なぜだろう。見上げる六階の入口を視界に入れた途端、胃の底から怖気が込み上がった。
嫌な予感がする。しかし退くことなどできない絶対に異常があると確信できた。
危険があることはわかるが、ここで恐怖に負ける者に磨師たる資格などない。
一段一段と重くなる足を振り払うように前に進める。
心臓の音がうるさい。滲む恐怖を抑えて、上階の様子を伺うように頭を出した。
白い靄が立ち込めている。視界が悪い。
(これは霧……なのか?)
ふわりと、桜の香りが鼻腔を掠める。双眸を細め、周囲を確かめた。
幾本もの赤い柱が数列に立ち並んでおり先が伺い難い。背後を振り返ってみると、そこに壁はなく闇と月光輝く外が見えた。構造的には五階の広間に近いのだろう。
そろそろと、簾と共に近くの柱に身を寄せる。踏みしめる床は木製だが、下の階層と違い色味が明るく踏み心地も柔らかい。素材が桧だとわかった。
(この靄、湯気か)
よく見れば、床には何本も水路のように凹みができており、そこを透明なお湯が流れている。
合間には石灯籠が規則正しく置かれ、中で静かに揺れる炎が、場を幻想的な光で染めていた。
水の音が聞こえた気がした。簾と視線をまじわせ、気配を消したまま移動する。あみだくじのように這い回る湯路をまたぎ、柱から柱へと身を隠す。数本の柱を過ぎ、視界が広く開けた。
(誰かいる)
湯けむりの先、そこには不思議な空間が広がっていた。
大浴場のように回型に切り抜かれた床には、お湯がなみなみと張られていて、中央には黒ずんだ桜の木が生えている。根本には薄絹で覆われたなにかがある。祭壇かなにかだろうか。
周囲の湯の中には、複数の人影が見えた。数は七人。
真っ白な装束に顔を隠す白い布。肢体には装束は濡れて艶めかしく張り付いており、体型から女性だろうとわかる。あの家紋は、斑花家のもの。
彼女たちはそれぞれに手にした楽器を演奏しているように見える。
(おかしい、音が聞こえてこない)
気がついた途端、違和感が膨れ上がった。
(阻害の術か)
命力を頭部に集中、バキッと頭の中で割れるような音が鳴る。直後音調が合っていないような、三半規管を針で掻き回されるような不協和音が響いた。聞いているだけで、胃の腑から酸っぱいものが込み上げる不吉な旋律だ。
(なんて気持ち悪)
墨色に染まった桜が舞う。湯の中で行われる妖艶に踊りに、湯水が明かりをうけてきらめく。
佳境へ向けて激しさを増す演奏と踊り、もう少し近くで見ようと柱に隠れて接近した次の瞬間、女中の一人の顔を覆う白布が、ふわりと靡いてその下の素顔が見えた。
「――っ」
蠢く黒に息が止まる。顔があるべきそこには、木の洞のような穴があり、そこからは蛇、いや大量の蛭が磯巾着のようにうねっていた。
(やはり眷属ッ)
過度にかかっていた緊張を緩め、止めていた呼吸を大きく吐いた。
瞬間、演奏が止まった。悪寒に、即座に柱に隠れる。直後、ぐるぅんと梟が首をひねるかの如く七の頭が一斉に孔雀丸達の方を向いた。
(見られた。いや焦るな。大丈夫姿は消えているのだから、気が付かれてなどいない)
慎重に顔を出し伺う。、化物ども六体は何事もなく演奏を始めようとした。だが安堵した直後、鈴虫の声のような音が脳裏に響き、勘が警告を鳴らす。
――まて、六体だと? 七体いたはずでは。
「坊主、上だぁ」
叱責のような簾の声音。柱に背を付け反射で顔を上げた。上からなにかの影が滑り落ち迫る。
「しまっ――」
目の前には、蠢く蛭の塊。
【ぎぃぃぃゃあああ嗚呼あゝ嗚呼あゝ】
逆さまになるように張り付いた蛭女が、粘液を撒き散らし絶叫した。
背中の扇刀二本に手をかけたが、手首を死体のような青白い指で掴まれる。
ぐちゃりねちゃりと、眼前でうねる蛭。振り払おうにも、全く動かない。万力のような力。逃げられない。近くの柱の影から簾が杖を手に飛び出し、こちらに駆けて来る姿が見える。
だめだ、間に合わない。接吻でもするかのように蛭の塊が孔雀丸の顔へと接近。咄嗟に、孔雀丸は全力の息吹を吐いた。
「ごっがっ」
直後口に割って入るように蛭達が口腔に侵入、口の中になにか液体が流れ込んできた。
「っっ、ぐっぐぉぉぅう」
視界が瞬く。粘ついた唾液のような気色悪いなにかが口の中を席巻する。喉元が蛙のように膨らんでいくのがわかる。瞬く間に意識が遠のき、暗闇が近づいてくる。
「離れんかぁ、糞虫があ」
ドスの訊いた簾の怒声、視界の端で銀線が煌めいた。
杖から抜かれたのだろう仕込み刀が、飛び退って避けた化物の顔の蛭を数匹切り飛ばす。両手が解放され体に自由が戻る。突き飛ばされた体は倒れ、濡れ湿った桧の床に倒れ込んだ。
四つん這いでひたひたと距離を取る蛭女を警戒しながら、簾が刀を片手に安否を伺ってくる。
「おい坊主、大丈夫か。儂がわかるか、目を見せろ駄目ならすぐに殺してやる」
いま、喋れない。待ってくれと身振りで示したあと、すぐに自分の口に右手を突っ込んだ。
右の奥歯に巻かれた糸を指で手繰り寄せ掴む。口を地面に向け土下座するような姿勢で、その掴んだ糸を引っ張り出した。
「うぼっ、ぉぇぇええ」
嗚咽、パンパンに膨らんだそれを喉奥から引きずり出し床に放り投げる。
(良かった、前もって飲み込んでおいて)
事前に仕込んでいた蛙の皮で作った術袋だ。初日の食事の際にも役に立った。
食事をこっそり持ち帰るための特技が、まさかこんな所で役に立つとは。
びしゃりと中身が撒き散らされたのは、不吉を練ったような真っ黒な汚泥。
(あれが口の中にあったのか)
味も匂いも無いが、口の中が強烈に痛み始めた。どうなるかなどわからないが、勘に従いながら札を取り出し『浄』の力を込め、口に加え発火させた。
口内を満遍なく焼き祓う。溢れた浄化の炎が口端から蛇の舌のように漏れる。
自らの炎だ、熱くはない。口内の痛みがだいぶ和らいだ気がする。
「坊主答えろ、正気か」
「はい、特に意識に混濁はありません。戦えます」
「ならよし、続々来るぞ」
並び立つ柱の影から、床を這うようにして、七体の眷属が包囲するように姿をあら合わす。
一度見つかってしまえば術は意味をもたない。それに恐らく最初から視覚で見ていない。
【あれ、あれれおかし。おかしなこと】
琴を手に立つ化物が、一歩前に出た。
【ココは禁止区域となっているはずのに、お前達ㇵ、なぜ無事でおるのか、不思議なこと】
咀嚼音のような粘ついた言葉、気色悪い。
「はは、それはね」
不快感しか湧かないそれに、答えを返す気などない。
「あの世で確かめるんだなっ」
命力を練って十指から扇刀へとつなぐ。即座に抜き放った刀がそれぞれ放物線を描いて飛翔、近くの柱にいた二体の化物に収束する。
「疾ッ」簾も同時に動き、雪駄で地面を蹴って琴を持つ化物に切りかかった。
【ああ鈍間な】
煌めく剣閃も飛び貫く扇刀も化け物どもは指で挟むようにして、つかみ取った。
【あれ、可哀想に。人はなんて非力き】
蛭女達が扇刀を掴んだ腕を強引に振るい、孔雀丸の体が引っ張られ宙を舞う。
(なんだこいつら、眷属にしては強すぎる)
宙空で姿勢を整え、待ち受ける化け物どもに祝札を投げつける。
文字は『爆』即座に祝言、閃光のような一瞬の輝きと共に、札が蛭女達の元で爆発した。
轟音。爆風で生まれた隙に、簾が琴持ちの蛭女に掴まれた刀へ命力を流し混んだ。
濡れ刃のように刀身の輝きが増した。
「ほれ、否応なしに離すがいい」
斬と青白い五指が切り飛ばされ、紫の血と落ちた指が地面に転がりうねうねと動く。
【あれれ、切り飛ばされるとは。人の強さは見誤りやすい】
なんでもなさそうに力が込められる。ぞぶりと嫌な音がして断面から蛭の指が生え戻った。
(微塵も効いた風ではないか、他は――)
風が吹き込む。爆破の噴煙が晴れていく。
化け物どもの姿が現れる。青白い肌は焦げ、頭部の蛭には欠けがある。
損傷している。これなら押し切れるか、そう思った直後、期待は泡沫のように儚く消えた。
お湯が蠢いた。そこらの湯路から、透明な湯が生き物のように女中達の足元へと流れていく。
ずずず、と蛭女達の体に湯がまとわりつく。肉が盛り上がり、蛭がみちみちと生えてくる。一瞬後、そこには、まったくの無傷で五体満足な様子の蛭女達の姿があった。
「あの傷から一瞬で再生しただって? 御爺気をつけてくれこの湯、ただの水ではない」
「そうさな、あの中央の黒い桜と、坊主の吐いたソレ。考えられるのは……」
床に散らばった汚泥が目に入る。想像したくもないがこの湯の全てがこれか。
(待て待て待て、ただでさえ手強いのに湯がある限り再生なんて。一匹ならまだしも厳しい)
引きつった口角を隠し簾に視線を送る。目が合った。言わずとも気持ちが重なった気がする。
『とりあえず撤退』前に立つ簾が後ろ手に小さな球を見せてくる。球にはちらりと光る『霧』の文字。孔雀丸は合わせるように『閃』を刻んだ札を投げた。
全方へ放射状に閃光が瞬きを潰し、簾が小さな鼠に『霧』球を食わせて走らせる。鼠の体から撒き散らされるように霧が出て、辺り一帯の視界が潰れていく。
肌に張り付くじっとりとした霧に飛び込むように、後ろに飛び退る。
後は一直線に逃げるだけ。霧を抜け、見える地面に空いた下階への出入り口へ――だがあと僅かという所で、出入り口からぬっと大きな影が現れた。
「おお、孔雀丸よぉ」巌のような見た目と巨躯、自慢の金棒を持った見覚えのある顔。
「な、なんだ岩碌じゃないか、昨日振りじゃないか。怪我は、頭は大丈夫か?」
謳歌に蹴り飛ばされ散々に踏まれていたが、ずいぶん元気そうだ。
岩碌は口をゆるく緩めると、口角に泡を溜めながらぐふぐふと笑った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだ。孔雀ぅまる。だからお前も、なあぁ」
ぐりゅぐりゅと岩碌眼球が蠢く。白目の端から細い蛭が狂ったように這い出てきた。
発狂しそうなほどの醜い光景。階段を上がってきた岩碌の後ろから、ぞろぞろと同じように目や口から蛭を吐き出す磨師達が姿を現した。
「ぐ、もう悪勘が鳴りすぎて頭がどうにかなりそうだ」
「こいつは流石に十方塞がりかの。儂の寿命丸々三回分あっても死ねそうだぞ」
背後を振り返れば、無傷の蛭女達、前には止め処なく蛭を溢れさせる磨師達。
四肢が震える。笑いも出ない。もう覚悟を決めるしか無い。一匹でも多く殺してやる。
もしかすれば、決死で挑めば切り抜けることだって――
【あれぇ、お兄さんまた会うたねぇ】
背筋が凍る声音。磨師達の群れから、静々と姿を表したのはあの夜にあった童女。
【だめやん勝手に入ったら、哀れに死んでまうよ?】
嗤う。咎頭独特の、圧倒的な負の気配。それを肯定するように真っ赤な朱色の唇がメキメキと裂けていく。さらに止めを刺すように、背後からそれが現れた。
【ぁんなぁ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼】
深淵から這いずり出るようだった。
外壁から白い孑孑のような巨大な化け物が、啼き声と共に姿を現れる。
恐怖で呼吸が止まりそうだ。虫の知らせなどもう絶え間なく鳴りっぱなしだ。
(咎頭が二匹。共闘するなど滅多にない。好きにさせていたら、街どころか国が滅ぶぞ)
状況は終わっているが、それでも奥歯を噛んで、脚に力を込めた。
「畜生っ、やってやるさ。なあ御爺、いっそどっちが長く殺れるか勝負しましょう」
鼓舞するように強気を示し視線を向けると、簾は気まずそうな表情で言った。
「わりぃ坊主。こりゃあ無理だわ。すまんが、退くぜ――」
「は?」簾の首にかけていた数珠が輝く。
「全滅はできん。許せとは言わん。もし生きていたその時は短けぇ命を賭けて救うと約束する」
簾の体が水のように溶け、数え切れないネズミとなってわっと一斉に逃げた。さしもの敵も、散り散りとなったネズミすべてを捕まえるのは無理なようで、ぽつんと孔雀丸一人が残された。
「そんなぁ、勘弁してけれ、爺様よお」
思わずこぼれ出た方言。故郷を思い出してしまうのは、走馬灯かなにかかだろうか。
動機が激しくなる。涙が溜まって視界が滲んだ。しかし恨みなぞない。それが磨師だ。
「じゃあさぁ! 後はなんとかしてけれよ。あと絶対助けてけれ、約束だかんなああああ」
散開したネズミを追おうとする磨師達や化け物に向かって孔雀丸は吠えた。
手に握るは『花』の札の束。どうせならば、完璧に逃がす!
「そらそらー、弾けちまえ! 『杓』!」
燃え上がる札が花吹雪のように踊り狂い、杓花を咲かせる。チラリと視界の端に白装束の一白の姿が写ったが、視界はすぐに炎で埋まった




